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第6話 (七海視点①)「必要とされる夜の形」

 十月の夜は、冷えるのが早い。

 夕方まで秋晴れだったのに、日が落ちると途端に気温が下がる。


 星野七海はコートの前を合わせながら、駅の改札を出た。

 吐く息が、白くなり始めていた。

 もうそういう季節か、と七海は思った。

 去年の今頃は何をしていたか——同じようにこの駅を出て、同じようにコートを着て、同じように帰っていた気がする。

 何も変わっていない。

 いや、変わっているのかもしれないけれど、変わった気がしない。

 それが正しいのかどうかも、よく分からない。


 コールセンターの仕事を終えた後の体は、いつも妙な疲れ方をしている。

 体が疲れているというより、何かが消耗している感じ。

 声を使いすぎた、というより、感情を使いすぎた。

 一日中、電話口の向こうにいる人に合わせ続ける。

 怒っている人には落ち着いた声で。

 不安そうな人には穏やかな声で。

 急いでいる人には手短に。

 求められている「七海の声」を、その都度作り続ける。

 それ自体は、苦じゃない。

 むしろ七海には、向いている仕事だと思っている。

 人に合わせることが、苦にならない。

 相手が何を求めているか読むのが、得意だ。

 でも夜になると、ふと思う。

 今日一日、私は何を求めていたんだろう、と。


 アパートまでの道を歩きながら、七海はスマホを取り出した。

 着信履歴を確認する癖がある。

 母から、二件。

 七海は画面を見たまま、ポケットに戻した。

 折り返す気力が、今夜はなかった。


 母——坂本和子、五十四歳——は、鹿児島で父の介護をしている。

 父が脳梗塞で倒れたのが三年前。

 後遺症で右半身に麻痺が残った。

 最初の一年は施設に入っていたが、費用の問題で自宅介護に切り替えた。

 母が一人でやっている。

「帰ってきてほしい」とは、まだ直接言われていない。

 でも言われている。

 言葉ではなく、着信の頻度で。

 LINE の既読がつくまでの無言で。

 電話に出た時の、最初の「七海」という呼びかけの声の微妙な重さで。

 七海には分かる。

 人が何を求めているか、言葉より先に読める。

 だから余計に、しんどい。


 アパートに着いた。

 築二十年の、1Kの部屋。

 家賃六万八千円。

 駅から徒歩十二分。

 日当たりは午前中だけ。

 それでもここに住み続けているのは、ここが「自分だけの場所」だからだ。

 誰にも合わせなくていい場所。

 ドアを開けて、コートを脱いだ。

 部屋の電気をつける。

 冷蔵庫を開ける。

 卵が三個。

 豆腐が一丁。

 ハーフベーコンのパック。

 賞味期限を確認する。

 今日中に使ったほうがいいものが二つある。

 夕食を作る気力と、コンビニに行く気力を天秤にかけた。

 引き分けだった。

 七海はとりあえず冷蔵庫を閉めて、ソファに座った。


 スマホを開く。

 翔太からのメッセージが来ていた。

 今日の昼に送ったやり取りの続き。

 昨日、七海が「明日休み」と書いたら、翔太が「俺も何もない。毎日何もないけど」と返してきた。

 そのやり取りを読み返して、七海は少し笑った。

「何もないのを一緒に過ごす感じ、なんか好きだよ」

 自分で書いた言葉を、もう一度読む。

 本当のことだ、と思う。

 翔太と話すようになって、一ヶ月が経つ。

 最初は、掲示板への書き込みが気になって声をかけた。

 それだけだった。

「諦めてる感じがしなかった」と書いたのも、本当のことだ。

 でもなぜ気になったのか、今考えると、少し怖い気もする。

 翔太の書き込みには、何かがあった。

「働けないのって、そんなに悪いことですか」

 この一文の、どこかに。

 諦めではなく、怒りでもなく、ただ純粋に「分からない」という響きがあった。

 世の中の基準に対して「それって本当ですか」と問いかけているような。

 答えを知っていて問うのではなく、本当に分からなくて問うている感じ。

 七海はその感じに、何かを見た。

 何を見たのか、うまく言葉にできない。

 ただ、放っておけなかった。

 ——放っておけなかった。


 七海はその言葉を、頭の中で繰り返す。

 自分はいつも、放っておけない。

 困っている人、迷っている人、どこかで詰まっている人。

 そういう人を見ると、何かしたくなる。

 コールセンターの仕事を選んだのも、たぶんそういう理由だ。

 誰かの役に立てる仕事。

 誰かが困っている場所に、自分がいる。

 それが、七海には「ここにいていい理由」になる。

 役に立っている間は、ここにいていい。

 必要とされている間は、存在していい。

 ——それって、おかしくないか?

 七海は、そのことに気づいている。

 気づいているから、たまに怖くなる。

 翔太のことが心配だから関わっているのか、翔太に必要とされることで自分が安定しているから関わっているのか、どちらが本当なのか、自分でも分からなくなる時がある。

 たぶん、両方だ。

 そしてその「両方」の中で、どちらの比率が大きいか——それを正直に測ると、七海は少し目を逸らしたくなる。

 スマホを置いて、天井を見た。

 白い天井。

 染みも何もない、ただ白い天井。


 母のことを考えた。

 母は昔から、誰かのために生きる人だった。

 父のために、七海のために、祖母のために。

 自分のことは後回しにして、誰かの役に立つことで「いい母親」「いい妻」「いい娘」でいようとする。

 七海はそれを見て育った。

 私は母に似ている、と七海は思う。

 でも母みたいにはなりたくない、とも思う。

 父が倒れてから、母の顔が変わった。

 疲れているというより、何か大切なものを少しずつ削られているような顔。

 電話で声を聞くたびに、その削れ具合が大きくなっている気がする。

「帰ってきてほしい」

 その言葉が来る日が、近いと七海には分かっている。

 来たとき、何と答えるか。

 七海にはまだ、答えが出ていない。

 仕事を辞めれば帰れる。

 でも帰ったら、この部屋も、この生活も、この——翔太とのやり取りも、なくなる。

 なくなる。

 その言葉が来た時、七海は少し驚いた。

 翔太とのやり取りが「なくなる」ことを、自分がそんなに嫌だと思っているとは、思っていなかった。


 スマホを手に取った。

 翔太に電話してみようか、と思った。

 文字のやり取りは続いているけれど、声は聞いたことがない。

 どんな声なのか、気になっていた。

 それだけじゃなくて——今夜、誰かの声が聞きたかった。

 母からの着信を折り返せなかった夜に、誰かと話したかった。

 でも翔太は、電話が苦手かもしれない。

 引きこもっている人間にとって、突然の電話は負担かもしれない。

 断られたら、翔太が気まずい思いをする。

 七海は少し考えた。

「ねえ、電話してもいい?」

 と先に聞けばいい。

 断れる余地を作れば、翔太が選べる。

 打って、送信した。

 返信を待ちながら、七海は冷蔵庫を開けて豆腐を取り出した。

 今夜は鍋にしよう、と思った。

 一人鍋。締まりのない、でも温かい夜ごはん。


 スマホが鳴った。

「いいよ」

 七海は少し笑って、発信ボタンを押した。

 コール音が二回鳴って、繋がった。

「もしもし」

 翔太の声は、少しかすれていた。

 あ、と七海は思った。

 この人、最近声を出していなかったんだ。

 声の出し方を忘れかけている人の声だ。

 七海には分かった。

 コールセンターで毎日声を聞いているから、声の「状態」がなんとなく読める。

「もしもし」と七海は言った。

「久しぶりに声で話す感じ、する?」

「する」と翔太が答えた。

「声、出し方忘れてた気がする」

 七海は笑った。

 笑いながら、胸の中で何かがほぐれた気がした。

 母からの着信も、鹿児島のことも、「帰ってきてほしい」という予感も、今この瞬間だけ、少し遠くなった。


 翔太の声が聞こえている。

 かすれていて、少し低くて、言葉を選ぶ間に小さな沈黙がある声。

 でも嘘がない。

 七海が一日中作り続けた「コールセンターの七海の声」とは違う、ただそこにある声。

 話しながら鍋の準備をした。

 豆腐を切って、ネギを切って、コンロに火をつける。

 翔太はカピバラの動画の話をしていた。

 七海は「何も考えてなさそうで最強だよね」と言った。

 本心だった。

 何も考えていない生き物が、羨ましかった。


 二時間後に電話を切って、七海はできあがっていた鍋を食べた。

 少し煮すぎて豆腐が崩れていたけれど、温かかった。

 食べながら、翔太のことを考えた。

 あの人は、少しずつ変わっていくだろう、と七海は思う。

 時間はかかるかもしれない。

 でも確実に、変わっていく。

 それが分かる。

「諦めてる感じがしない」という最初の印象は、今も変わっていない。

 むしろ強くなっている。

 翔太が外に出られるようになる日が来る。

 社会に戻っていく日が来る。

 その時、私はどこにいるんだろう。


 七海は箸を止めた。

 鍋の湯気が、細く立ち上っている。

 その時、私はどこにいるんだろう。

 鹿児島にいるのか。

 この部屋にいるのか。

 翔太の隣にいるのか——。

 隣に、いたいのか?

 七海はその問いを、すぐには回収しなかった。

 ただ、湯気が消えていくのを、少しの間、見ていた。


 冷えるのが早い夜だった。

 鍋が冷める前に、七海は残りを全部食べた。

 食べ終わってから、スマホを取り出した。

 母への着信の折り返しは、今夜はしなかった。

 代わりに、翔太にメッセージを送った。

「電話、楽しかった」

 少し待つと、返信が来た。

「俺も」

 たった二文字だった。

 七海はその二文字を見て、また少し笑った。

 この人は、余計なことを言わない。

 言えないのかもしれないし、言わなくていいと思っているのかもしれない。

 どちらでもいい。

 余計なことを言わない人の言葉は、軽くならない。

「俺も」

 その二文字が、今夜の七海には、十分だった。

 部屋の電気を消した。

 外では風が出てきていた。

 十月の夜が、静かに更けていく。


 翌朝、七海が目を覚ますと、母からのLINEが来ていた。

「昨日電話したんだけど。お父さんのこと、少し話したくて」

 七海はそれを読んで、スマホを伏せた。

 すぐには返せなかった。

 窓の外、空は晴れていた。

 秋の光が、斜めから部屋に入ってくる。

 眩しくて、きれいで、少し冷たい光。

 七海はしばらく、その光の中にいた。

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