第5話 「画面の向こうの声」
十月の半ば、空が高くなった。
雲が少なくて、昼間の青が深い。
風が吹くたびに、街路樹の葉が一枚ずつ剥がれて、アスファルトの上を転がっていく。
秋が、確実に深まっている。
翔太にはそれが、カーテンの隙間から差し込む光の角度で分かった。
夏の光は真上から押しつけてくる感じがある。
でも秋の光は、斜めから、少し遠慮がちに入ってくる。
翔太の部屋の、カーテンの左端から差し込む線が、九月より明らかに低くなっていた。
世界は翔太を置いて、きちんと動いている。
季節が変わっていく。
ただそれだけのことが、ある時は安堵になり、ある時は静かな棘になった。
その日の午後、翔太は珍しく昼前に目が覚めた。
特に理由はない。
ただ、目が開いた。
外からカラスの声が聞こえた。
翔太はしばらく布団の中で天井を見てから、起き上がった。
台所に行くと、悦子はいなかった。
エプロンも、コートもない。
パートの日だ。
テーブルに皿が置いてある。
卵焼きと、冷ご飯と、昨日の味噌汁の残り。
ラップがかかっている。
翔太はそれを温めて、食べた。
卵焼きに、砂糖が入っていた。
子供の頃から、悦子の卵焼きは甘い。
翔太はどちらかというと出汁巻きのほうが好きで、一度そう言ったことがある。
悦子は「そう」と言って、次の週からしばらく出汁巻きを作ってくれた。
でもいつの間にか、また甘い卵焼きに戻っていた。
悪意があるわけじゃない。ただ、こういう人なのだと、翔太は思う。
自分の「普通」に戻っていく人。
食べ終わってから、スマホを見た。
七海から昨夜のメッセージが残っていた。
「明日、仕事休みなんだよね。何もする予定ない」
翔太は少し考えてから打った。
「俺も何もない。毎日何もないけど」
すぐ返ってきた。
「何もないのを一緒に過ごす感じ、なんか好きだよ。言い方おかしいかな」
翔太は画面を見た。
おかしくない、と思った。
むしろ正確だと思った。
七海との時間は、「何かをする」時間じゃない。
ただ、誰かがそこにいる。
それだけのことが、この部屋には今まで、なかったから。
「おかしくない」
「よかった」
やり取りが、そこで一度止まった。
翔太は皿を洗って、部屋に戻った。
スマホを持ったまま、布団の上に座った。
外では風が吹いていた。
木の葉が窓を掠める音がした。
しばらくして、七海からメッセージが来た。
「ねえ、電話してもいい?」
翔太は画面を見た。
電話。
声。
文字じゃなく、声。
翔太は少し身構えた。
身構えている自分が分かった。
なぜ身構えるのか——声は、文字より速い。
考える時間がない。
言葉を選べない。
何かを言ってしまってから、取り消せない。
テキストの会話は、翔太にとって「安全な距離」だった。
一呼吸置いてから答えられる。
それが、今の翔太には必要だった。
でも。
翔太は少し考えて、打った。
「いいよ」
送信してから、少し後悔した。
でも取り消さなかった。
数秒後に、着信が鳴った。
翔太は一拍置いてから、電話に出た。
「もしもし」
声が聞こえた。
想像より、少し低かった。
落ち着いた声。
テキストのやり取りで感じていた「穏やかさ」が、音になっても変わらなかった。
むしろ音になったほうが、その穏やかさの質感がよく分かった。
「もしもし」と翔太も言った。
自分の声が、かすれていた。
気づいたら、最後に声を出したのがいつだか分からなかった。
昨日、悦子と二言三言話したか。
でもそれ以外は、ほとんど声を出していない。
人間の声帯は使わないと錆びるのかもしれない、と翔太はどこかで思った。
「久しぶりに声で話す感じ、する?」と七海が言った。
「する」と翔太は答えた。
「声、出し方忘れてた気がする」
「そうなんだ」七海は笑った。
笑い声も、想像どおりだった。
大きくなく、でも確かにそこにある笑い声。
「私もそういう時期あったよ。誰とも話さない日が続いて、コンビニで『ありがとうございます』って言った時、自分の声が別人みたいだった」
「コンビニで誰とも話さないのは普通じゃないの」
「セルフレジだと完全にゼロだよね」
「そうか」
「翔太くんはセルフレジ派?」
翔太は少し考えた。
コンビニには最近行っていない。
行けていない。
行けない、という言葉は使いたくないが、実際には行けていない。
「最近あんまり行ってない」と翔太は言った。
正直に。
「そっか」と七海は言った。
責める響きは、なかった。
「前は行ってた?」
「前は普通に」
「じゃあ行けるよ、たぶん」
「たぶん、か」
「うん、たぶん。断言したら嘘になるから」
翔太は少し、息を吐いた。
この人は、変なところで正確だ、と思った。
「大丈夫」とか「絶対行ける」とか言わない。
「たぶん」と言って、「断言したら嘘になる」と言う。
その正確さが、翔太には妙に楽だった。
会話は、大した内容じゃなかった。
七海が今日の昼に食べたパスタの話。
翔太が最近見た動画の話。
どこかの動物園のカピバラが温泉に入っている映像の話。
七海が「カピバラって何考えてんのかな」と言って、翔太が「何も考えてないと思う」と言って、七海が「それが最強だよね」と言った。
翔太は「そうかもな」と言いながら、自分が笑っていることに気づいた。
さっきより、声がちゃんと出ていた。
話しながら、翔太は部屋を見回した。
薄暗い部屋。
積み上げた本。
折れた角のマンガ。
使っていないトレーニングマットが隅に丸まっている。
半年以上前に「運動しよう」と思って買って、一度も使っていないやつ。
電気スタンドの明かりだけがついていて、蛍光灯は消えている。
明るくすると、部屋の散らかりがはっきり見えるから、翔太はいつも暗いほうを選ぶ。
この部屋に、七海の声がある。
それが、少しだけ変な感じがした。
悪い意味ではない。
ただ、この閉まった空間の中に、外の世界の声が来ている。
その感覚が、不思議だった。
「翔太くんって、昔から人と話すの苦手だった?」と七海が聞いた。
唐突な質問ではなかった。
会話の流れの中で、自然に出てきた感じだった。
翔太は少し考えた。
「苦手ってわけじゃなかったと思う。営業やってたし」
「そうだよね」
「でも」と翔太は言って、少し止まった。
「うまく話せてたのか、うまく話してるふりをしてたのか、今はよく分からない」
電話の向こうで、七海が少し黙った。
「それ、どういう意味?」
「なんか、場に合わせることはできてたんだけど」翔太は言葉を探した。
「それが"俺が話したいこと"だったのかって言われると、違う気がして。何が話したいのか、よく分からなかった」
「今は?」
「今も分からない」と翔太は言った。
「でも、今はそれが気にならない」
なぜ気にならないのか、翔太自身もよく分かっていなかった。
ただ、七海と話しているとき、「何を言うべきか」より先に「何か言いたい」という感覚が来る。
それがどういうことなのか、まだ言葉にできない。
「それでいいんじゃないかな」と七海は言った。
断言ではなく、ただそう思う、という言い方だった。
翔太は「そうかな」と言って、窓の外を見た。
カーテンが少し開いていた。
外は夕方になっていた。
空が、オレンジと青の境目の色をしていた。
翔太が電話に出た時は昼過ぎだったはずで、気づいたら窓の外の光が変わっていた。
「何時間話してた?」と翔太は言った。
七海がスマホを確認したらしく、「二時間くらい?」と少し驚いた声で言った。
「そんなに」
「そんなに」
二人で少し笑った。
「そろそろ夕ご飯作らないとな」と七海が言った。
「うん」
「また話そう」
「うん」
「じゃあね」
「じゃあ」
電話が切れた。
部屋が静かになった。
エアコンの音。
冷蔵庫の振動。
遠くで、誰かの子供が笑っている声。
翔太はスマホを持ったまま、しばらくそのままでいた。
二時間経っていた。
二時間、翔太は誰かと話していた。
笑っていた。
何かを言いたいと思っていた。
部屋の暗さも、積み上げた本も、使っていないトレーニングマットも、その間は気にならなかった。
時間を忘れた。
翔太は、その感覚をどう言えばいいか分からなかった。
久しぶりすぎて、言葉が追いつかない。
スマホを置いた。
日記アプリを開こうとして、止まった。
書く言葉が、出てこなかった。
書けない、ではない。
書かなくていい、という感じ。
書いて整理しなくても、そのままでいい。
その感覚が、翔太には少し新鮮だった。
日記を書くのは、いつも「整理しないと息ができないから」だった。
今夜は違う。
翔太はスマホを伏せて、天井を見た。
外では夕暮れが続いていた。
カーテンの隙間から、空の端の色が見えた。
橙と藍が、ゆっくりと混ざり合っている。
その色が、翔太には少し、今夜の気分に似ていた。
何かが混ざっている感じ。
何と何かは、まだ分からない。
ただ、混ざっている。
翔太は目を閉じた。
しばらくして、悦子が帰ってきた。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」という声。
翔太は「おかえり」と、部屋の中から返事をした。
自分の声が、朝よりちゃんと出ていた。




