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第4話 「三年前の失敗の味」

 十月に入ると、昼間の空気が変わった。

 透明度が上がる、とでもいうのか。

 夏の重さが抜けて、光が乾いた感じになる。

 木々の葉が、緑から黄みを帯びた色に変わり始める。

 カーテンの外の世界が、少しだけ鮮明になる季節。

 翔太にはそれが、時々、刃のように感じられた。


 鮮明であることが、つらい。

 世界がくっきりとしているほど、自分がそこにいないことが浮き彫りになる。

 七海とのやり取りは、続いていた。

 毎日ではない。

 でも、二日に一度くらいの頻度で、どちらかがメッセージを送った。

 たいした内容じゃない。

 今日食べたものとか、見た動画の話とか。

 でもそれが、翔太の一日に「区切り」を作っていた。


 朝に目が覚めたとき、通知があるかどうか確認する。

 ある日は、少しだけ起き上がる気になる。

 その朝も、七海からメッセージが来ていた。

「昨日の夜、急に天津飯食べたくなって、コンビニで材料買って作ったんだけど、全然違う味になった」

 翔太は少し笑った。

 笑ったことに気づいて、少し驚いた。

 いつから笑っていなかったのか、数えたこともない。

 でも確かに、最近笑う回数が増えている。

 七海と話す時だけ。それ以外は変わらない。


「どう違ったの」

「なんか、天津飯じゃなくてただの卵かけご飯みたいになった」

「それはもう別の食べ物だ」

「でも美味しかった」

「それはよかった」


 翔太はスマホを置いて、天井を見た。

 外から、風で落ちた葉が窓を擦る音がした。

 過去のことを、最近よく考える。

 七海と話すようになってから、不思議と昔のことが浮かぶようになった。

 楽しかったことではなく——たいていは、失敗のことだ。


 三年前。

 営業部に配属されて、三年目だった。

 最初の二年は、それなりにやれていた。

 数字が突出していたわけではない。

 でも「堅実」と言われていた。

 上司に信頼されていると感じていた。

 それが嬉しかった。

 嬉しい、というより——安心だった。

 評価されていれば、ここにいていい。

 そういう感覚。


 三年目に、チャンスが来た。

 大手メーカーの子会社との大口契約。

 担当になったのは翔太だった。

 上司が「任せる」と言った。

 その一言が、翔太には重かった。

 早く結果を出したかった。

「任された」という事実が、プレッシャーではなく期待値になった。

 この契約をまとめれば、評価が上がる。

 チームの中での立ち位置が変わる。

 そういう計算が、気づかないうちに判断を歪めていた。


 先方の担当者が渋っていた。

 条件の一部に懸念を示していた。

 翔太は「大丈夫です」と言った。

 確認が、足りていなかった。

 数字の根拠を、もう一度精査すべきだった。

 でも翔太は急いでいた。

 早く契約したかった。

 早く「できた」と報告したかった。

 契約は成立した。


 二ヶ月後に、クレームが来た。

 条件の一部が、現実と乖離していた。

 損失が出た。

 金額は大きくはなかったが、信頼の問題だった。

 先方の担当者の顔が、翔太の頭から離れない。

 怒鳴られたわけではない。

 ただ静かに「聞いていた話と違う」と言われた。

 その静かさが、怒鳴り声より堪えた。


 上司に呼ばれた部屋。

 会議室の、蛍光灯の白さ。

「どういう確認をしていたんだ」という問いに、翔太は答えられなかった。

 答えられなかった理由は、言い訳がなかったからではない。

 言い訳ならいくらでもできた。

 でも言い訳をした瞬間に、何か決定的なものが終わる気がした。

「申し訳ありませんでした」

 それしか言えなかった。


 その後、部署の空気が変わった。

 誰も直接何も言わない。

 でも「変わった」のは分かる。

 目が合う時間が短くなる。

 昼食の誘いが来なくなる。

 それが一番きつかった——暴言より、静かな「いなかったことにされていく」感覚が。


 三ヶ月後に、翔太は自主退職した。

「自主的に考えてほしい」と上司に言われたわけではない。

 誰にも何も言われなかった。

 ただ翔太が、ある朝、「もう無理だ」と思って、退職届を書いた。

 能力がなかったわけじゃない。

 翔太はそれを知っている。

 だから余計に苦しい。

 能力の問題なら、「俺には向いていなかった」で終われる。

 でも実際は違う。

 判断できる能力はあった。

 でも「評価されたい」という欲が、その能力より先に動いた。

 自分の足で転んだ。


 分かってる。

 分かってるから、動けない。

 次に動いたとき、また同じことをする気がする。

 俺はまた焦って、また転ぶ。

 翔太は日記にそう書いてから、少し考えて、続けた。

 でも七海は、「諦めてる感じがしなかった」と言った。

 俺の何を見てそう思ったのか、まだわからない。


 スマホに通知が来た。

 七海からだった。

「今日どうだった?」

 シンプルな問いだった。

 翔太はしばらく考えた。

 今日は過去のことをずっと考えていた、とは書けない。

 書いたら、重くなる。

 七海を心配させる。

 でも「普通」と書くのも、何か違う気がした。

 翔太は少し迷ってから、打った。

「まあまあ」


 送信して、画面を見つめた。

 七海からすぐ返ってきた。

「まあまあって、まあまあ良かった? まあまあ悪かった?」

 翔太は少し考えた。

「まあまあ、どっちでもなかった」

「なんかそれ、正直な感じがして好き」

 翔太は画面を見た。

「好き」という言葉が、軽い温度で書かれていた。

 深い意味はない。

 たぶん口癖のような言葉だ。

 でも翔太は、その一文を三回読んだ。

 外では、十月の風が、落ち葉を転がしていた。

 乾いた、軽い音。

 何かが遠ざかっていく音に、少し似ていた。

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