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第3話 「母の背中と父の不在」

 九月の末、空気が少しだけ変わった。

 朝晩に、かすかな涼しさが混じり始める。

 昼間はまだ暑いが、夜中に窓を開けると、夏とは違う風が入ってくる。

 枯れかけた草の匂い。

 どこか遠くで、金木犀が咲き始めているのかもしれない。


 翔太はその匂いに気づいて、少し窓を開けたまま眠った。

 翌朝、珍しく悦子と夕食が重なった。

 悦子のパートが早く終わった日と、翔太が昼間に少し眠れた日が、たまたま重なる。

 そういう偶然が、週に一度あるかないかだった。


 テーブルを挟んで向かい合う。

 テレビがついていた。

 夕方のニュース。

 アナウンサーが、どこかの国の政治情勢を読み上げている。

 翔太には関係のない話だった。

 悦子にも、たぶん関係ない。

 でもテレビがないと、二人の間の沈黙が形を持ちすぎる。


「今日は早かったんだね」と翔太は言った。

「うん、シフトが変わって」

 それだけだった。

 悦子が味噌汁を口に運ぶ。

 翔太がご飯を食べる。

 テレビが喋り続ける。

 悪い空気ではない。

 ただ、言葉が少ない。

 昔からそうだった。

 この家は、沈黙が普通だった。


 翔太はテーブルの端に、白い封筒が置いてあることに気づいた。

 電気代の請求書だった。

 何気なく目がいって、金額が見えた。

 一万四千円。

 翔太は箸を持ったまま、一瞬だけ止まった。

 夏場はエアコンをつけっぱなしにしていた。

 昼間も、夜中も。

 眠れない夜は、動画を流しながら朝まで起きていることもあった。

 一万四千円。

 翔太はそっと視線を外して、ご飯を口に入れた。


 悦子は気づいていない様子だった。

 あるいは、気づいていて何も言わない。

 翔太には、どちらかが分からなかった。

 この人はいつも、気づいているのかいないのか、分からない。

 食後、悦子が食器を洗い始めた。

 翔太は席を立てずに、少しの間テーブルに座っていた。

「何か手伝う?」

「いいよ、少ないから」

 悦子の背中が答える。

 丸まった背中。

 よく見ると、肩が少しこっているのか、右側だけわずかに上がっている。


 翔太は部屋に戻った。

 自分の部屋のドアを閉めて、布団に座った。

 天井を見る。

 電気代のことを考えた。

 生活費のことを考えた。

 悦子が自転車でパートに行く姿を考えた。

 それから、考えるのをやめた。

 考え続けると、息ができなくなる。

 代わりに、別のことを考えた。

 父のことを。


 田中浩一。

 翔太が十四歳のとき、いなくなった人。

 正確には「いなくなった」のではない。

 離婚して、出ていった。

 でも翔太の記憶の中では、父は「いなくなった人」として整理されている。


 印刷会社を経営していた。

 小さな会社で、社員は数人しかいなかった。

 翔太が中学に入る頃から、父の帰りが遅くなり始めた。

 遅いのではなく、帰ってこないことが増えた。

 どこにいるのか、誰も聞かなかった。

 怒鳴り声を聞いた記憶は、ない。

 茶碗が飛んだとか、母が泣いていたとか、そういう記憶もない。

 ただ、父が少しずつ「薄く」なっていった。

 食卓にいても、存在感が薄い。

 何かを聞いても、答えが短い。

 笑わない。

 怒らない。

 どこか遠くを見ている。


 ある夜、父が「少し外す」と言って出ていった。

 翔太は宿題をしながら、テレビの音を聞いていた。

 父は翌朝も帰ってこなかった。

 その後のことは、細かくは覚えていない。

 弁護士が来たとか、書類にサインしたとか、大人の話が部屋の外で続いていた。

 翔太は自分の部屋にいた。


 悦子は泣かなかった。

 少なくとも、翔太の前では。

 翔太は日記アプリを開いた。

 父のことを考えた。

 あの人は、失敗してから少しずつ消えていった。

 音を立てずに、静かに。

 俺はあの夜から、誰かがいなくなることを、そんなに驚かなくなった。

 ——驚かなくなったのか、驚き方を忘れたのか、どっちだろう。

 書いて、スマホを伏せた。


 外では風が出てきていた。

 カーテンが、わずかに揺れる。

 窓を少し開けていたのを、翔太は忘れていた。

 金木犀の匂いが、また入ってきた。

 甘くて、少し重い匂い。

 秋が来ている。

 翔太が部屋の中で止まっている間も、外では季節が動いている。

 翔太はカーテンを閉めなかった。

 その夜は、少しだけ長く、窓の外の暗さを見ていた。

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