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第2話 「止まった部屋の履歴書」

 九月になっても、暑さは居座っていた。


 夏が終わったふりをしながら、実際にはどこにも行っていない。

 朝から気温が上がり、午後には蝉がまだ鳴いている。

 翔太にとって季節の変わり目は、カーテンの向こうの話だった。


 目が覚めると、午後一時を過ぎていた。

 天井を見る。

 いつものシミ。

 今日は形が変わって見えない。

 ただの染みだ。

 翔太は布団の中で、しばらく動かなかった。

 起きなければならない理由が、ない。

 これが一番こたえる——「ない」という事実そのものより、それを「こたえる」と感じている自分が、まだいるということが。

 諦めきれていない証拠だから。

 諦めきれているなら、こたえない。


 ようやく身を起こして、台所へ行く。

 悦子はもうパートに出ていた。

 流しは綺麗に片付いていて、テーブルの上に皿がある。

 ラップをかけた、昨夜の残りの肉じゃが。

 翔太はそれを電子レンジに入れて、ぼんやりと待った。


 ハンガーに、エプロンがかかっている。

 薄いベージュの、スーパーの制服のエプロン。

 何度も洗ったせいで少しよれていて、肩の部分がわずかに歪んでいる。

 翔太はそれをちらりと見て、目を逸らした。

 母が週四日、自転車で十五分かけてパートに出ている。

 七時間立ちっぱなしで、レジを打っている。

 そういう現実を、翔太は知っている。

 知っていて、見ないようにしている。

 見てしまうと、動けなくなるから。

 いや、違う。

 見てしまうと、動かなければならなくなるから。


 レンジが鳴った。

 肉じゃがを食べながら、スマホを見た。

 七海からのメッセージはなかった。

 昨夜少しやり取りして、「おやすみ」で終わっていた。

 それだけのことなのに、画面を開くときに少し身構えている自分がいる。

 返信がなかったときの、小さな落下感。

 翔太はスマホを伏せた。

 食べ終わって、特にすることがなかった。

 テレビをつける気にはなれない。

 昼間のバラエティも情報番組も、どれも翔太には「自分と関係のない世界の音」に聞こえる。

 出演者たちが笑っている。

 スタジオが明るい。それが翔太には、なぜか攻撃的に感じられることがある。


 お前らは普通に生きているな。

 羨ましいのか、腹が立つのか、自分でも分からない。

 たぶん両方だ。

 翔太は部屋に戻って、引き出しを開けた。

 特に理由はなかった。

 手が動いた、というだけだ。

 引き出しの奥に、封筒がある。

 A4サイズの、茶封筒。

 中身は分かっている。

 履歴書だ。

 二年以上前に書きかけて、途中で止めたもの。

「志望動機」の欄に、三行だけ書いてある。

「私は営業職での経験を活かし……」——そこで止まっている。


 あの頃はまだ、次の仕事を探そうとしていた。

 退職して最初の数ヶ月は、そういう気力があった。

 失敗の痛みはあったけれど、「次がある」という感覚も、まだあった。

 それがいつ、消えたのか。

 翔太は封筒を手に持ったまま、しばらくそこに立っていた。

 捨てよう、と思った。

 ゴミ袋に入れれば終わる。

 それだけのことだ。

 でも、できなかった。

 なぜ捨てられないのか、自分でもよく分からない。

 捨てたら何かが終わる気がする。

 何が終わるのかも、分からない。

 ただ、捨てられない。

 翔太は封筒を引き出しの奥に戻して、そっと閉めた。

 その後、二時間ほどスマホをいじって、また眠った。


 夕方に目が覚めると、悦子が帰ってきていた。

 台所で夕食の支度をしている音がする。

 包丁のリズム。

 換気扇の音。

 翔太は部屋から出なかった。


 夜、悦子が「ご飯だよ」とドアの向こうから言った。

「あとで食べる」と翔太は答えた。

 返事はなかった。

 足音が遠ざかっていく。

 翔太はスマホの日記アプリを開いた。

 毎日書いているわけじゃない。

 書く気になった時だけ開く。

 今日は何かを書きたい気分だった——正確には、書かないといられない気分、というほうが近い。


 指を動かす。

 今日も何もしなかった。

 履歴書を見た。

 捨てられなかった。

 なぜ捨てられないのか、自分でもわからない。

 書いて、止まる。

 もう少し書こうとして、言葉が出てこなかった。


 外では、九月の夕暮れが静かに暮れていく。

 カーテンの隙間から、夕焼けの色が少しだけ滲んでいた。

 赤みがかった橙色が、部屋の壁に薄く落ちている。

 翔太はそれに気づいて、カーテンをほんの少しだけ開けた。

 空が、燃えるように赤かった。

 こんな色だったか、と翔太は思った。

 三秒ほど見て、カーテンを元に戻した。

 夕食は、日付が変わる頃に一人で食べた。

 肉じゃがは、まだ残っていた。

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