第1話 プロローグ 「声を探していた夜」
八月の終わりは、音がなかった。
正確には、音はある。
エアコンの低いうなり。
冷蔵庫の、規則正しい振動。
遠くで、誰かのバイクが路地を曲がっていく音。
でも翔太にとって、それらは「音」ではなかった。
背景だった。
世界が動いていることの、ただの証拠だった。
部屋のカーテンは閉まったままだ。
いつから閉めているのか、もう覚えていない。
最初は「日差しが眩しいから」という理由があった。
今は理由もない。
ただ閉まっている。
外の光が差し込まないほうが、時間の感覚が曖昧になる。
曖昧なほうが、楽だった。
翔太は布団の上に寝転んで、スマホの画面を顔に向けていた。
午前三時十七分。
起きているのか、眠れないのか、もはやその区別もない。
昼間に眠って、夜中に目が覚める。
そういう生活が、いつからか「普通」になっていた。
スマホをスクロールする。
ニュースは読まない。
読むと腹が立つ。
「若者の雇用回復傾向」
「転職市場は活況」
——そういう見出しが流れてくるたびに、翔太は舌の奥に苦いものを感じる。
お前らの話じゃない、と思う。
でも、じゃあ俺の話をしてくれる場所があるかというと、それもない。
だから翔太はここ数週間、匿名の掲示板を眺めることが増えていた。
誰でも書ける場所。
名前もない、顔もない、立場もない。
「元営業、二年以上無職」という肩書きも、そこでは関係ない。
ただの文字列として、誰かの隣に置いてもらえる。
それだけで、少しだけ息ができた。
その夜も、翔太はスクロールしながら、ある投稿の前で指を止めた。
「仕事できない人間って、生きてる意味あるんですかね」
コメントが並んでいた。
「そんなことないよ」
「気にしすぎ」
「俺もそう思う時ある」
——どれも悪意はない。でも、どれも翔太には届かない言葉だった。
届かない、ということは分かる。
でも何が届くのかは、分からない。
翔太はしばらく考えてから、別のスレッドに移った。
そして、気づいたら打っていた。
"働けないのって、そんなに悪いことですか"
送信してから、少し後悔した。
こういうことを書くと、二通りの反応が来る。
「甘えるな」か「頑張れ」か。
どちらも要らない。
でもどちらかが来る。
それが分かっていて、なぜ書いたのか。
翔太は天井を見た。
薄汚れたシミが、ぼんやりと浮かんでいる。
引っ越してきた時からあるシミで、形がいつも微妙に違って見える。
今夜は、羽を広げた鳥みたいだった。
通知音が鳴った。
見慣れないアカウント名。
「nm_77」。
「さっきの書き込み、少し気になって」
翔太は画面を見つめた。
どうせ正論か説教か、軽い励ましだ。
それでも、指は勝手に動いた。
「気になるって?」
少し間があって、返信が来る。
「うまく言えないけど、"諦めてる感じ"がしなかったから」
翔太は、思わず小さく息を吐いた。
諦めてる感じがしない。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
というか、そんなふうに見てもらったことが、あっただろうか。
「諦めてるよ。たぶん」
打って、消して、また打つ。
「いや、もうどうでもいいって感じかな」
既読がつく。
少し長めの間があった。
画面の向こうで、相手が言葉を選んでいる。
その気配が、なぜか伝わってくる。
「じゃあ、"どうでもいい"のに、なんで書いたの?」
指が、止まる。
部屋の中は静かで、エアコンの音だけが続いている。
翔太は画面から目を離して、天井のシミを見た。
羽を広げた鳥は、さっきより少し大きく見えた。
なんで書いたのか。
考えたことも、なかった。
「……誰かに見てほしかっただけかも」
送信してから、少しだけ恥ずかしかった。
三十近い男が言う言葉じゃない気がした。
でも消せなかった。
すぐには返ってこなかった。
十秒。
二十秒。
もう返ってこないかもしれない、と思い始めた頃、ぽつりと表示される。
「じゃあ、見てるよ」
その一文は、驚くほどあっさりしていた。
重くもなく、軽くもなく。
励ましでもなく、同情でもなく。
ただ「見てる」という、それだけの言葉。
翔太は、しばらく画面を見ていた。
部屋の空気が、何かわずかに変わった気がした。
気のせいかもしれない。
エアコンの風向きが変わっただけかもしれない。
「あなたは?」
「七海」
名前が、画面に浮かぶ。
ただそれだけのことなのに。
外では、八月の夜が、音もなく続いていた。
街灯の光が、閉まったカーテンの隙間から、細く一本だけ差し込んでいた。
翔太はそれに気づかないまま、スマホを持つ手に、少しだけ力を込めた。




