第10話 「支えられない男の手」
十二月の半ば、冷え込みが本格的になった。
朝、窓の外に白い息が見える季節。
アパートの廊下に出ると、手すりが金属の冷たさで指に刺さる。
空は晴れているが、その青は薄くて遠い。
太陽が低い位置にあるから、昼間でも影が長く伸びる。
光があっても、温もりが届かない季節。
翔太は最近、昼前には起きるようになっていた。
完全に整ったわけじゃない。
眠れない夜もある。
でも以前のように午後二時三時まで眠り続けることは、減った。
朝の光が部屋に差し込む時間帯に、目が開くことが増えた。
七海との通話は続いていたが、先週から少し変わった。
七海からの連絡が、夜遅くなることがある。
以前は仕事が終わった夜八時九時ごろに来ることが多かったが、最近は十一時を過ぎることがある。
遅い日は翌朝に短いメッセージだけ来る。
「昨日は疲れてて、そのまま寝ちゃった。ごめん」
謝らなくていい、と翔太は思う。
でも「謝らなくていい」と言うのも、なんか違う気がして、いつも返し方に迷う。
「ゆっくり休めた?」
と返すのが、最近の定型になっていた。
七海の父親の状態が、少しずつ悪くなっているらしかった。
直接詳しく聞いたわけじゃない。
でも通話の中で、断片的に出てくる。
「お母さんがまた電話してきて」
「夜中に起き上がれなくなってるって」
「施設の話、また保留になったって」。
そういう言葉が、会話の隙間に混じる。
翔太は、そのたびに何かを言おうとした。
言えなかった、とは少し違う。
言葉は出てくる。
でも出てきた言葉が、全部どこか薄い気がした。
「大変だな」
「つらいな」
「何かできることあれば」——どれも嘘じゃないが、何かが足りない。
ある夜、翔太は介護のことを調べた。
嚥下障害の対処法。
訪問介護のサービス。
要介護認定の手順。
地域の介護支援センターの探し方。
スマホで検索して、スクリーンショットを撮って、七海に送った。
「これ、参考になるかもしれない」
七海から返ってきた。
「ありがとう。調べてくれたんだね」
「少し役に立てばと思って」
「うん、見てみる」
それで終わった。
翔太はスマホを置いて、少し考えた。
役に立った、のかもしれない。
でも何か、手応えがない。
情報を送ること自体は正しかったと思う。
でもそれが七海に届いているかどうか、分からない。
その夜の通話で、七海の声は穏やかだったが、どこか遠かった。
「介護の情報、送ってくれてありがとう」と七海は言った。
「参考になりそう?」と翔太は聞いた。
「うん、訪問介護のところは知らなかったから、ちょっと調べてみようと思う」
「そっか、よかった」
少し間があって、七海が「翔太くん」と言った。
「ん?」
「私のことより、自分のこと考えてよ」
翔太は一瞬、意味が取れなかった。
「どういう意味?」
「翔太くん、最近すごく私のことを気にしてくれてるじゃない。介護の情報調べてくれたり、毎日連絡くれたり」
「それは、七海が大変そうだから」
「うん、分かってる」と七海は言った。
「嬉しいよ、本当に。でもね」
少し間があった。
「翔太くん自身はどうなの? 最近、自分のことで何か考えてる?」
翔太は答えに詰まった。
自分のこと。
最近、自分のことを考えていたか。
外には出るようになった。
昼間に起きるようになった。
でも「次」のことは、考えていなかった。
仕事のこと。
社会復帰のこと。
これからのこと。
七海と話す時間が増えて、それが一日の中心になっていて、その周りのことはあまり考えていなかった。
「あんまり考えてないかもしれない」と翔太は言った。
「そうだと思って」と七海は言った。
責める声ではなかった。
でも、はっきりした声だった。
「翔太くんが前に進んでくれることが、私は嬉しいんだよ。私のことは、私がどうにかするから」
翔太は黙っていた。
「私に寄りかかってていいけど」と七海は続けた。
「私を支えようとしなくていいよ。今の翔太くんには、まず自分を立たせることのほうが大事だと思うから」
その言葉は、優しかった。
優しかったから、余計に刺さった。
支えようとしなくていい。
翔太は、その言葉の意味を飲み込みながら、自分が何をしていたのかを考えた。
七海が大変そうだから、役に立ちたかった。
それは本当だ。
でも同時に——役に立つことで、翔太自身が「何かをしている人間」でいられた。
動けない自分が、少なくとも七海に対しては何かできる人間でいられた。
その快感があった。
翔太はそれに気づいて、少し息が詰まった。
「俺、七海の問題から目を逸らしてたのかもな」と翔太は言った。
「え?」
「自分の問題から、じゃなくて。七海のことを心配することで、自分が何者かでいようとしてたかもしれない」
電話の向こうで、七海が少し黙った。
「……それ、気づくのすごいね」と七海は言った。
「すごくない。最悪だ」
「最悪じゃないよ」と七海は言った。
「誰でもそういうことするから。気づいてるだけ、ちゃんとしてる」
「気づいても、じゃあどうすればいいか分からないけど」
「それはこれから考えればいい」と七海は言った。
「一個だけ、聞いていい?」
「うん」
「翔太くん、支援プログラムとか、就職相談とか、そういうの調べたことある?」
翔太は少し黙った。
「ない」
「調べてみてよ」と七海は言った。
「私の介護の情報を調べる前に、そっちを調べてほしかった」
言い方は穏やかだった。
でも、言っていることは真っ直ぐだった。
翔太は「分かった」と言った。
「うん」と七海は言った。
それから少し間があって、「翔太くんが自分の足で立ってるところ、見たい」と言った。
その言葉は、静かだったが、重さがあった。
電話を切った後、翔太はしばらくそのままでいた。
支えようとして、空回りしていた。
それが分かった。
でも、分かったからといって、すぐに何かが変わるわけじゃない。
分かることと、できることの間には、まだ距離がある。
翔太は日記を開いた。
七海に言われた。
自分のことを考えろと。
俺は七海を支えようとしていた。
でも本当は、支える側に回ることで、自分の無力さから目を逸らそうとしていた。
誰かを心配することで、自分が「まともな人間」でいようとしていた。
それに気づいたら、すごく恥ずかしかった。
——でも七海は「最悪じゃない」と言った。
あの人は、なぜそういうことが言えるんだろう。
書いて、少し止まった。
明日、就労支援のことを調べてみる。
調べるだけなら、できる気がする。
閉じた。
外では、十二月の夜風が鳴っていた。
窓が、かすかに揺れている。
翔太はスマホを手に取って、検索アプリを開いた。
「就労支援 引きこもり」と打って、少し止まった。
「引きこもり」という言葉を、自分に使ったのはいつ以来だろう、と思った。
そうだ。
俺は引きこもっている。
今更確認するような話じゃない。
でも言葉として自分に貼り付けることを、ずっと避けていた。
「休んでいる」とか「立て直し中」とか、そういう曖昧な言い方をしていた。
検索ボタンを押した。
画面に、いくつかのサイトが並んだ。
翔太はその夜、二時間かけてそれを読んだ。




