第17話 「母の封筒」
三月に入った。
朝の空気が、少しだけ変わった。
まだ冷たい。
コートなしでは外に出られない。
でも二月の冷気とは質が違う。
尖った冷たさではなく、どこか丸みのある冷たさ。
風の中に、土の匂いが混じり始めている。
どこかで何かが芽吹こうとしている匂い。
冬が終わるとき、世界はこういう匂いを出すのだと、翔太は久しぶりに思い出した。
七海と会う約束は、土曜日の午後だった。
その前日の金曜日の夜、翔太は部屋で入社に向けての準備をしていた。
田所から送られてきた書類を確認する。
雇用保険の手続き、住民票の取得、健康診断の予約。
ひとつひとつは大した作業じゃない。
でも全部合わせると、それなりの量になる。
翔太はリストを作って、一個ずつチェックしていった。
リストを作る、ということ自体が、以前は苦手だった。
リストを作ると、できていないことが可視化される。
できていないことが並ぶと、自己嫌悪が来る。
だから作らないほうが楽だった。
でも今は、リストを作ることが「管理している」という感覚に変わっていた。
同じ行為が、別の意味を持つようになっていた。
一通りチェックして、スマホを置いた。
あと一つ、やろうと思っていることがあった。
日記アプリを開いた。
「明日、七海に会いに行く」と書いた最後のページ。
そこからさらに下に、新しいページを開いた。
翔太は少し考えてから、書き始めた。
七海に、この日記を見せようと思っている。
全部じゃない。
一部だけ。
最初の頃の言葉と、七海が登場してからの言葉と、最後のこのページ。
それを見せることが、なぜ必要なのか、自分でもうまく言えない。
ただ、俺はずっと言葉を持てなかった人間だった。
言いたいことを言えなかった。
言い方が分からなかった。
言う場所がなかった。
その俺が、この一年間、ここに言葉を積み上げた。
それを七海に見せることが、俺にできる一番正直な自己紹介な気がする。
「これが俺だった」という。
過去形になっていることに、今気づいた。
「これが俺だった」——今の俺は、少し違う。
それを、七海に知っていてほしい。
書いて、アプリを閉じた。
削除しない。閉じるだけ。
それで十分だ、と翔太は思った。
廊下で物音がした。
悦子が、台所から自分の部屋へ戻る気配だった。
翔太はドアを開けた。
「母さん」と呼んだ。
悦子が廊下で振り返った。
パジャマ姿で、手に本を持っていた。
「何?」
「明日、外出する」と翔太は言った。
「七海さんに会いに行く」
悦子は少し翔太を見た。
「七海さん、というのは」
「オンラインで知り合った人。色々、支えてもらった」
悦子は少し黙った。
「そう」と言った。
それから、「待って」と言って、自分の部屋に入った。
翔太は廊下で待った。
少しして、悦子が戻ってきた。
手に、白い封筒を持っていた。
「これ」と悦子は言って、翔太に差し出した。
翔太は受け取った。
封筒の口は閉じていなかった。中を見た。
お金が入っていた。
何枚か重なっていた。
数えると、十万円だった。
「何これ」と翔太は言った。
「スーツ代とか、最初の交通費とか、色々かかるでしょ」と悦子は言った。
「少しずつ貯めてた」
翔太は封筒を持ったまま、悦子を見た。
「少しずつ、いつから?」
悦子は少し間を置いた。
「あんたが会社辞めた頃から」
翔太は、その言葉の重さを測った。
三年前から。
翔太が引きこもり始めた頃から、悦子は少しずつ貯めていた。
いつか翔太が動き出す日のために。
それをずっと、言わずにいた。
「受け取れない」と翔太は言った。
「母さんのパート代から貯めたんだろ」
「だから何」と悦子は言った。
「俺のために使いすぎてる」
「親が子どものために使って、何が悪いの」
翔太は言葉に詰まった。
「でも」と言いかけた。
「受け取って」と悦子は言った。
静かな声だったが、有無を言わせない声だった。
翔太はもう一度封筒の中を見た。
十万円。
この金額の重さが、悦子のパート代の積み重ねの重さが、翔太には分かった。
自転車で通って、七時間レジを打って、よれたエプロンを洗って——その時間の積み重ねが、ここに入っている。
「……ありがとう」と翔太は言った。
悦子は少し頷いた。
「新しい靴、買いなさい」と悦子は言った。「ちゃんとした靴」
「靴か」と翔太は言った。
「スーツに合う靴。古いやつじゃなくて」
「分かった」
翔太は封筒をコートのポケットに入れた。
悦子がまた何か言いかけて、止まった。
翔太は待った。
「翔太」と悦子は言った。
「うん」
「戻ってきてくれてよかった」
「戻ってきた」という言葉を、悦子はこの前も使った。
社会に、ではなく。
この家に、この台所に、この人の隣に、という意味で使う言葉だということが、今の翔太には分かった。
「俺も」と翔太は言った。
「ここに戻ってきてよかった」
悦子は何も言わなかった。
でも、目が少し揺れた。
この前みたいに涙は落ちなかった。
でも、揺れた。
それで十分だった。
「おやすみ」と翔太は言った。
「おやすみ」と悦子は言った。
ドアが閉まった。
翔太は自分の部屋に戻った。
封筒をデスクの上に置いた。
しばらくそれを見ていた。
翌朝、翔太は早起きした。
七時前に目が覚めた。
外はまだ薄暗かったが、窓の向こうの空が少しずつ白んでいた。
夜明けが、少し早くなっていた。三月の夜明けは、二月より確実に早い。
翔太は着替えて、外に出た。
駅前の商店街に、靴屋が一軒ある。
開店は十時だから、まだ時間がある。
翔太は近所を少し歩いた。
朝の空気は冷たかったが、きれいだった。
誰もいない時間の街は、静かで、どこか別の場所みたいだった。
犬を連れた老人が一人、遠くを歩いていた。
パン屋の換気扇から、焼きたての匂いが漏れていた。
自動販売機が、一人で光っていた。
翔太はその光を見て、少しだけ立ち止まった。
この街に、ずっといた。
引きこもっている間も、ずっとここにいた。
でも見えていなかった。
パン屋の匂いも、自動販売機の光も、犬を連れた老人も、全部そこにあったのに、カーテンの向こうにしていた。
見えるようになった、と翔太は思った。
少しずつ、見えるようになった。
十時になって、靴屋が開いた。
翔太は入って、スーツに合う靴を選んだ。
黒の、シンプルなレザーシューズ。
試着した。
足に入れた瞬間、硬かった。
新しい靴の、当然の硬さ。
「いかがですか」と店員が言った。
「硬いですね」と翔太は言った。
「履いていけば馴染みますよ」と店員は言った。
「最初はそんなもんです」
翔太はもう一度、足の中の硬さを確かめた。
これでいい、と思った。
馴染んでいない靴を履いて、外に出る。
それが今の翔太には、合っている気がした。
レジで精算した。
悦子の封筒から、お金を出した。
店を出て、靴の箱を持って歩いた。
午後の約束まで、まだ時間がある。
翔太はコーヒーショップに入って、窓際の席に座った。
コーヒーを注文した。
窓の外を、人が歩いていく。
買い物袋を持った女性。
スマホを見ながら歩く男性。
手をつないだ老夫婦。
子どもを連れた若い父親。
みんな、どこかへ向かっている。
翔太も今日、どこかへ向かっている。
七海に会いに行く。
何を話すか、決めていない。
でも、持っていくものは決まっていた。
スマホの中の、日記。
「これが俺だった」と言えるもの。
コーヒーを一口飲んだ。
苦くて、温かかった。




