第18話(エピローグ) 「外に出る日、君はいない」
駅前は、夕方の光で満ちていた。
三月の夕暮れは、二月より少し遅い。
五時を過ぎてもまだ明るくて、空の端がオレンジに染まっている。
その光の中に、人の流れがあった。
仕事帰りの人、買い物帰りの人、待ち合わせの人。
みんなが速く、どこかへ向かっている。
翔太は、その流れの外側に、少し取り残されたように立っていた。
新しい靴が、足の甲を圧迫している。
まだ硬い。
でも、履いてここまで来た。
七海が来た。
改札から出てくる人の流れの中に、七海の姿を見つけた。
紺色のコート。
肩より少し短い髪。
歩き方が、翔太の想像通りだった。
落ち着いた、急がない歩き方。
目が合った。
七海が少し笑った。
翔太も少し笑った。
「久しぶり」と七海は言った。
「久しぶり」と翔太は言った。
初めて会うのに、久しぶりという感じがした。
声は知っている。
話し方は知っている。
笑い声も知っている。
でも顔を見るのは、今日が初めてだ。
「なんか、想像通りだった」と七海は言った。
「俺も」と翔太は言った。
二人で少し笑った。
「どこか座ろうか」と翔太は言った。
「うん」と七海は言った。
駅の近くのコーヒーショップに入った。
窓際の席に向かい合って座った。
注文して、少しの間、どちらも黙っていた。
気まずいわけじゃなかった。
ただ、声じゃなく顔を見て話すことへの、少しの慣れなさがあった。
「採用、おめでとう」と七海が言った。
「ありがとう」と翔太は言った。
「七海のおかげもある」
「私は何もしてない」
「してるよ」と翔太は言った。
「ずっと、外に引っ張ってくれてた」
七海は少し視線を落とした。
「私ね」と七海は言った。
「翔太くんに言わなきゃいけないことがあって」
翔太は七海を見た。
「お母さんから、正式に言われた。帰ってきてほしいって」
翔太は少し黙った。
「いつ?」と翔太は言った。
「来月」と七海は言った。
「仕事は、今月末で辞める。引き継ぎがあるから、それが終わったら」
「そうか」
「ごめん、急に」
「謝らなくていい」と翔太は言った。
「七海の家のことだから」
七海は少し翔太を見た。
「怒ってない?」
「怒らない」と翔太は言った。
「ただ、寂しいけど」
「……うん」と七海は言った。
コーヒーが運ばれてきた。
二人でカップを持った。
窓の外で、夕暮れが続いていた。
オレンジの光が、少しずつ藍色に変わっていく。
「翔太くんに、一個だけ聞いていい?」と七海が言った。
「うん」
「私がいなくなっても、大丈夫?」
翔太は少し間を置いた。
大丈夫か。
正直に答えようと思った。
「大丈夫じゃないかもしれない」と翔太は言った。
「七海がいなくなったら、寂しくなる。それは本当だと思う」
七海が翔太を見た。
「でも」と翔太は続けた。
「七海がいるから大丈夫、ではなくなってきてると思う。少しずつ、俺が俺のために動けるようになってきてるから」
七海は少しの間、翔太を見ていた。
それから「よかった」と言った。
静かな、本物の声だった。
「俺も、七海に言わなきゃいけないことがあって」と翔太は言った。
スマホを取り出した。
日記アプリを開いた。
「これ」と言って、スマホを七海に渡した。
「何?」と七海は言った。
「日記。一年以上、書いてた」
七海はスマホを受け取って、画面を見た。
最初のページから読み始めた。
翔太はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。
七海が読んでいる間、翔太は何も言わなかった。
しばらくして、七海が顔を上げた。
目が、少し赤かった。
「全部、読んでいい?」と七海は言った。
「いい」と翔太は言った。
「後で、送ってもらえる?」
「送る」
七海はスマホを翔太に返した。
「翔太くん」と七海は言った。
「うん」
「ちゃんと、生きてたんだね」
その言葉が、翔太には少し意外だった。
「生きてた、か」
「うん。ここに全部ある。消えなかった証拠」
翔太はその言葉を、少しの間受け取った。
消えなかった。
父みたいに消えなかった。
部屋の中で止まりながらも、言葉を積み上げ続けた。
誰にも見せない場所で、ちゃんとそこにいた。
「俺も消えない、って言い切れた日があった」と翔太は言った。
「母に。その時、初めて本当にそう思えた」
「知ってる」と七海は言った。
「日記に書いてあった」
翔太は少し笑った。
二人でコーヒーを飲んだ。
話は続いた。
七海の鹿児島の話。
父の状態のこと、母の疲れ方のこと、帰ることへの怖さと、でも帰らないという選択はもうない、ということ。
翔太は聞いた。
聞きながら、以前と違うことに気づいた。
以前の翔太なら、七海の話を聞きながら「何かしなければ」と焦っていた。
役に立てないことへの焦り。でも今は、焦りがなかった。
ただ聞いていた。それでいいと思えた。
聞くことが、今の翔太にできることだった。
それで十分だった。
窓の外が、すっかり暗くなった。
街灯が灯り、店の明かりが道路に落ちている。
三月の夜は、まだ冷たい。
でもその冷たさは、もう刃ではない。
「そろそろ行くね」と七海が言った。
二人で外に出た。
駅前の広場に、人の流れがあった。
翔太は新しい靴の硬さを感じながら、七海の隣に立った。
七海が翔太の足元を見た。
「新しい靴だ」と言った。
「今日買った」と翔太は言った。
「似合ってる」
「そうかな」
「うん」と七海は言った。
「ちゃんと外を歩く人の靴」
軽い冗談のはずだった。
でも翔太には、その言葉がどこかに引っかかった。
ちゃんと外を歩く人。
俺は、そうなったのか。
まだ分からない。
でも、なろうとしている。
それだけは確かだった。
少し沈黙が落ちた。
電車がホームに滑り込む音が、遠くで響いた。
翔太はポケットの中で、指を握ったり開いたりした。
言うべきことは、もう決まっているはずだった。
でも言葉が、うまく形にならない。
七海のほうが先に口を開いた。
「……決まったんだよね、仕事」
「ああ」
「よかったね」
その「よかったね」に、どこにも嘘がなかった。
だからこそ、痛かった。
翔太は視線を少しだけ逸らした。
「怖いけどな」と翔太は言った。
「うん、知ってる」と七海は言った。
「でも、行くんだよね」
確認じゃない。
もう分かっている言い方だった。
翔太は短く息を吐いた。
「……うん」
また少し沈黙。
人の流れが二人の横をすり抜けていく。
「ねえ、翔太くん」と七海が言った。
「ん?」
「たぶんさ」
少しだけ、言葉を探す間。
「このままでも、一緒にいようと思えば、いられるよね」
翔太の胸が、わずかに揺れた。
それは、ずっと心のどこかで願っていた選択肢だった。
何も変えなければいい。
画面越しに、同じ時間を繰り返せばいい。
でも。
翔太は足元の靴を見た。
まだ硬い感触。
外に出た証拠。
「……たぶん、いられる」と翔太は言った。
正直に。
七海は、ふっと息を吐いて、少しだけ笑った。
「でも、それじゃダメなんだよね」
その言葉は、優しかった。
責める響きは、どこにもない。
翔太はうなずくしかなかった。
「うん」
喉が、少しだけ詰まる。
七海は視線をまっすぐに向けた。
「私ね」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
「ちゃんと、自分の生活を生きたい」
静かな声だった。
でも、揺らがなかった。
「翔太くんがいなくても、じゃなくて」
「翔太くんがいなくなるから、でもなくて」
「ちゃんと、自分で選んだ場所で」
翔太は、その言葉を受け止めた。
逃げ道はない。
でも、それでいいと思えた。
「……そっか」と翔太は言った。
それしか言えなかった。
七海は小さくうなずいた。
「翔太くんもでしょ」
問いじゃない。
確認でもない。
ただの事実みたいに。
翔太はゆっくりと息を吸った。
「うん」
今度は、迷いはなかった。
電車の発車ベルが鳴る。
七海が、一歩だけ後ろに下がった。
「じゃあね」
「……うん」
「元気で」
「七海も」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
七海は振り返らずに、人の流れの中へ消えていく。
翔太は、その背中を追わなかった。
追えば、戻ってしまう気がしたから。
しばらくその場に立ち尽くしてから、ゆっくりと歩き出した。
足に、まだ馴染まない靴の感触。
でも、止まらない。
振り返らない。
それから数ヶ月が経った。
六月の朝は、光が早い。
五時を過ぎると空が白み始めて、六時には蝉が鳴き始める。
梅雨の合間の晴れた日は、空気が洗われたように透明だ。
翔太は、仕事帰りに少し遠回りをして帰ることが増えた。
急いで帰る理由が、特にない。
それが今は、いいことに思える。
急がなくていい時間を、急がずに使える。
引きこもっていた頃とは違う。
あの頃の「何もない時間」は、空虚だった。
今の「急がない時間」は、ただそこにある時間だ。
商店街を抜けて、川沿いの道を歩いた。
六月の川は、水量が多い。
雨の後だから、少し濁っているが、流れは速い。
川沿いの草が、青々としている。
夏が来ようとしている匂いがした。
仕事は、うまくいっているとは言えない。
まだミスをする。
分からないことが多い。
帰宅後に疲れて、夕食後すぐ眠ってしまう日がある。
でも、行っている。
毎朝、新しい靴を履いて、駅に向かっている。
靴は少しずつ馴染んできた。
最初の硬さが、だいぶ和らいだ。
足に沿った形になってきた。
スマホに通知が来た。
七海からだった。
「鹿児島、梅雨明けが早そう。こっちは暑い」
翔太は歩きながら読んだ。
七海が鹿児島に帰ってから、三ヶ月が経つ。
連絡は続いている。
毎日ではない。
週に一度か二度、短いメッセージが行き来する。
長い通話はしなくなった。
それが自然な距離になっていた。
「こっちはまだ梅雨。でも悪くない」
と翔太は打って、送信した。
川沿いを歩きながら、七海のことを考えた。
今頃、鹿児島の家で、父の介護をしているのだろう。
一人でやることの大変さと、でも帰ってよかったという気持ちが、七海の中でどう混在しているか、翔太には分からない。
分からなくていい、と翔太は思う。
七海の生活は、七海のものだ。
翔太の生活は、翔太のものだ。
それが、今の二人の形だった。
橋の上に来た。
川の上で、少し立ち止まった。
欄干に手をかけて、水面を見た。
六月の水は、光を受けてきらきらしている。
その光が、川面でいくつにも割れて、揺れている。
翔太は、七海のことを思った。
会えなくなって、寂しいか。
寂しい。
本当のことだ。
でも、七海がいないことで、翔太が止まるわけじゃない。
それが一番の変化だと思う。
誰かがいなくなっても、自分はここにいる。
父がいなくなっても。
七海がいなくなっても。
俺は消えない。
翔太は欄干から手を離して、歩き始めた。
橋を渡って、住宅地に入る。
見慣れた道。
見慣れた風景。
でも毎日、少しずつ違う光の中にある。
アパートが見えてきた。
六月の夕方の光が、建物の壁を横から照らしている。
部屋の窓が見えた。
カーテンが開いていた。
翔太が出かける前に、開けてきた。
帰ってきた時に、光が入っているほうがいいと思うようになったから。
いつからそうするようになったか、正確には覚えていない。
でも、気づいたらそうなっていた。
鍵を取り出した。
ドアを開けた。
「ただいま」と言った。
誰もいない部屋に向かって言った。
悦子は今日もパートだ。
帰りはまだ先だろう。
でも翔太は、誰もいなくても「ただいま」と言うようになっていた。
部屋に戻ってきた、ということを、声に出して確かめる。
それが今の翔太の、帰り方だった。
コートを脱いで、靴を脱いだ。
靴箱にしまおうとして、少し止まった。
靴を見た。
三月に買ったレザーシューズ。
最初は硬かった。
でも三ヶ月履いて、すっかり馴染んでいた。
翔太の足の形に、なっていた。
翔太はその靴を靴箱にしまって、部屋に入った。
窓から、六月の光が入っていた。
部屋が、明るかった。
スマホを見た。
七海から返信が来ていた。
「悪くないってなんか翔太くんっぽい言い方」
翔太は少し笑った。
「そうかな」
「うん。褒めてるよ」
翔太はその言葉を読んで、窓の外を見た。
六月の空は、雲が多い。でも雲の切れ間から、青が見えていた。
夏が来る。
また季節が変わる。
翔太が部屋の中で止まっている間も、外では季節が変わり続けていた。
あの頃は、その変化が遠かった。
今は近い。
翔太もその変化の中にいる。
同じ速さで、流れていく時間の中にいる。
スマホを置いて、台所へ行った。
冷蔵庫を開けた。
悦子が昨夜仕込んでおいてくれた肉じゃがが、タッパーに入っていた。
翔太はそれを電子レンジに入れた。
ハンガーに、エプロンがかかっていた。
よれた、ベージュのエプロン。
翔太はそれを見て、目を逸らさなかった。
以前は、見ると胸が痛かった。
今は、ただそこにある。
悦子がここで生活している証拠として、ある。
レンジが鳴った。
肉じゃがを出して、椅子に座った。
食べながら、窓の外を見た。
空が、少しずつ暮れていく。
雲の向こうで、太陽が沈もうとしている。
翔太は肉じゃがを食べた。
甘くて、温かかった。
その先に、七海はいない。
でも、翔太はここにいる。
確かに、ここにいる。
外に出る日が来た。
そしてその日は、まだ続いている。




