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第16話 「日記の最後のページ」

 二月の終わり、採用の連絡が来た。

 メールだった。

 件名:「選考結果のご連絡」。


 翔太はその件名を見て、一呼吸置いてから開いた。

「このたびは弊社の選考にご応募いただきありがとうございます。慎重に検討いたしました結果、ぜひ田中様にご入社いただきたく——」

 翔太は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 採用された。

 その事実が、すぐには飲み込めなかった。

 うれしい、という感情が来るかと思ったが、来なかった。

 かといって、何も感じないわけじゃない。

 何かはある。

 ただ、その何かに名前がつけられなかった。

 長い時間をかけて、ようやく一歩が形になった、という感覚。

 でもその一歩の重さを、まだ体が処理できていない感じ。

 翔太はしばらくスマホを持ったまま座っていた。


 それから、七海に電話した。

 コール音が三回鳴って、繋がった。

「もしもし」と七海が言った。

「採用された」と翔太は言った。

 少し間があった。

「……よかった」と七海は言った。

 その「よかった」は、静かだった。

 大きな喜びの声ではなかった。

 でも本物だった。

 どこにも嘘がなかった。

 だからこそ翔太には、その静かさが、騒がしい喜びより深く届いた。

「怖いけどな」と翔太は言った。

「うん、知ってる」と七海は言った。

「ちゃんとやれるか、分からない」

「うん」

「でも、行かないという選択は、もうない気がする」

 電話の向こうで、七海が少し息を吐いた。

「うん」と七海は言った。

「行くんだよね」

 確認じゃなかった。

 もう分かっている言い方だった。

「……うん」と翔太は言った。


 少し沈黙があった。

 二人とも、何も言わなかった。

 でもその沈黙は、重くなかった。

 何かを言えない沈黙ではなく、言葉より先に、お互いが分かっている沈黙だった。

「翔太くん」と七海が言った。

「うん」

「一度、会えない?」

 翔太は少し驚いた。

 七海から「会いたい」と言ってきたのは、初めてだった。

「会える」と翔太は言った。

「じゃあ、来週末にでも」

「うん」

「場所は、また連絡する」

「分かった」


 電話を切った。

 翔太はスマホを持ったまま、部屋を見回した。

 片付いていた。

 完全にきれいなわけじゃない。

 でも、あの頃の「足の踏み場もない」状態ではなくなっていた。

 積み上げていた本は段ボールに整理した。

 使っていないトレーニングマットは、押し入れに入れた。

 床が見えている。

 この部屋が、少し変わった。

 翔太が変わったから、部屋が変わった。

 あるいは、部屋を変えることで、翔太が変わっていった。

 どちらが先か分からないが、どちらでもいい気がした。


 その夜。

 翔太は日記アプリを開いた。

 最初に書いたのは、引きこもりを始めてから数ヶ月後だった。

「今日も何もしなかった」という一文から始まった日記。

 それからずっと書き続けてきた。

 翔太はスクロールした。

 最初の頃の言葉が流れていく。

 今日も何もしなかった。

 履歴書を見た。

 捨てられなかった。


 父のことを考えた。

 あの人は、失敗してから少しずつ消えていった。

 俺はあの夜から、誰かがいなくなることを、そんなに驚かなくなった。


 七海という人と話した。

 声が落ち着いていた。

 コンビニに行った。

 靴を久しぶりに履いた。

 少し硬かった。

 月が出ていた。

 このままでいい、と思った。

 でも、これは前進なのか、停止なのか、分からない。


 木村に会った。

 謝られた。

 受け取る準備ができていなかった。

「俺は消えない」と言った。

 言い切れた。


 流れていく言葉を、翔太は読んだ。

 全部、自分が書いた言葉だった。

 この一年で、自分はずいぶん色々なことを考えていた。

 考えて、書いて、また考えた。

 書くことで、整理できたこともあった。

 書いても整理できなかったこともあった。

 でもどちらも、翔太がそこにいた証拠だった。

 書き続けていた。

 消えなかった。


 翔太は新しいページを開いた。

 指を動かした。

 採用された。

 来週、七海に会う。

 書いて、少し止まった。

 次の言葉を探した。

 この日記を、もうすぐやめようと思う。

 やめる理由は、書くことに飽きたからじゃない。

 書かなくても、ここにいられる気がしてきたから。

 言葉に逃げなくていい、と初めて思えた夜が、少し前にあった。

 七海と電話した後の夜だった。

 あの夜、日記を書かなかった。

 書く代わりに、天井を見ていた。

 それで十分だった。

 俺はずっと、日記に向かって話しかけていた。

 誰にも言えないことを、画面の中の自分に向かって言い続けた。

 それが必要な時間だったと思う。

 でも、もう少し先へ行けるかもしれない。

 書いて、また止まった。


 窓の外から、風の音がした。

 二月の終わりの風。

 まだ冷たいが、三月の気配が少し混じっている。

 冬が、終わろうとしている。

 翔太は続きを書いた。

 七海に、この日記を見せようかと思っている。

 全部じゃない。

 でも、少しだけ。

 俺がどんな場所にいたか。

 どんなことを考えていたか。

 それを見せることが、俺にできる、最後の正直さな気がする。

 ——七海に会ったら、決める。

 書いて、スマホを置いた。


 台所から、悦子の気配がした。

 夜のお茶を淹れているのかもしれない。

 電気ポットの音がした。

 翔太は立ち上がって、台所へ行った。

 悦子がポットの前に立っていた。

 翔太が来ると振り返った。

「お茶、飲む?」と悦子が言った。

「飲む」と翔太は言った。

 悦子がカップを二つ出した。

 二人で、台所のテーブルに座った。

 お茶を飲んだ。


「採用、されました」と翔太は言った。

 悦子はカップを持ったまま、翔太を見た。

 少し間があった。

「そう」と悦子は言った。

 それから悦子は、カップをテーブルに置いた。

 何も言わなかった。

 翔太は悦子の顔を見た。

 悦子の目が、揺れていた。

 泣いているわけじゃない。

 でも、目の縁が、かすかに赤くなっていた。

 唇を少し結んで、何かをこらえているような顔だった。

 この人がこういう顔をするのを、翔太は見たことがなかった。


「母さん」と翔太は言った。

「……よかった」と悦子は言った。

 声が、少しかすれた。

 いつもの「よかった」とは違った。

 短い言葉の中に、二年以上の時間が入っていた。

 眠れなかった夜が、言えなかった言葉が、父親の背中と重ねて見ていた恐怖が、全部その二文字に押し込められているような声だった。

 翔太は、喉が少し詰まった。

「怖かったんだよね」と翔太は言った。

「俺のこと」

 悦子は答えなかった。

 でも、目から一粒だけ、涙が落ちた。

 拭かなかった。

 拭く間もなく、ただ落ちた。

 悦子はそれを、そのままにした。

「……うん」と、少しして言った。

 それだけだった。

 翔太は何も言えなかった。

 言葉が出てこなかったのではなく、言葉が要らなかった。

 二人で、お茶が冷めていくのを、しばらくそのままにしていた。


 翔太は「怖いけど」と言った。

「うん」と悦子は言った。

「怖くて当然だよ」

 翔太は少し驚いた。

「怖くて当然」という言い方は、悦子らしくなかった。

 いつもなら「大丈夫」か「うん」で終わる人だ。

 でも今夜は「怖くて当然だよ」と言った。

「母さんも、怖かったことある?」と翔太は聞いた。

 悦子は少し考えた。

「いっぱいあるよ」と言った。「一人で育てていく時も、怖かった。仕事を変えた時も。あんたが生まれた時も」

「生まれた時も?」

「子どもを育てることが、怖かった」と悦子は言った。

「うまくできるか分からなかった」

 翔太は、その言葉を聞いた。

 悦子がそういうことを話すのを、初めて聞いた。

「うまくできたと思う?」と翔太は聞いた。

 悦子は少し黙った。

「分からない」と言った。

「でも、翔太が戻ってきたから」

「戻ってきた、か」

「うん」


 翔太は、その「戻ってきた」という言葉を、今度はすぐに受け取れた。

 社会に、ではなく。

 この家に、この台所に、この人の隣に。

「ありがとう」と翔太は言った。

 悦子は少し驚いた顔をした。

「何が」

「待ってくれてたから」

 悦子はカップを持って、お茶を一口飲んだ。

 何も言わなかった。

 でも翔太には、その沈黙の意味が分かった。

 言葉にしなくていい、という沈黙だった。

 二人でお茶を飲み終えた。

「おやすみ」と翔太は言った。

「おやすみ」と悦子は言った。


 翔太は部屋に戻った。

 日記アプリを開いた。

 最後のページ。

 さっき書きかけた文章の続きに、一行だけ加えた。

 明日、七海に会いに行く。

 そして、アプリを閉じた。

 削除はしなかった。

 ただ、閉じた。

 それで十分だった。

 布団に入った。

 電気を消した。

 暗い部屋の中で、翔太は目を開けたまま、少しの間天井を見た。

 羽を広げた鳥みたいなシミ。

 ずっと見てきたシミ。

 今夜は、そのシミに、少し別れを告げる気分だった。

 さよなら、ではない。

 ただ、もうそんなに長く見ていなくていい、という感じ。


 翔太は目を閉じた。

 外では、二月の終わりの風が鳴っていた。

 冷たい中に、かすかに春の気配がある。

 まだ寒い。でも、確かにそこにある。

 翔太はその気配を感じながら、眠った。

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