第15話 「面接室の椅子」
二月に入った。
空気が一年で一番乾いている季節だ。
息をするたびに、喉の奥がかさつく感じがする。
朝、窓ガラスに結露が張りついて、指で触れると冷たい。
外の寒さが、ガラス一枚を隔てて、すぐそこにある。
翔太が面接の日程を入れたのは、一月の終わりだった。
木村からもらった名刺の会社——「リスタート・パートナーズ」——に連絡を入れたのは、名刺をもらってから五日後だった。
三日間は触らないと思っていたが、実際には五日かかった。
それでも、捨てなかった。
最初はオンラインでの相談から始まった。
支援員の田所という男性が担当についた。
三十代の半ばくらいで、穏やかな話し方をする人だった。
翔太の状況を聞いて、「焦らなくていいですよ」と言った。
翔太は「焦っていないのが問題なんです」と言った。
田所は少し笑って、「それが分かってるなら大丈夫です」と言った。
その言い方が、木村の言葉と少し似ていた。
断言しない。
でも、否定もしない。
相談を三回重ねて、田所から「一社、紹介できる会社があります」と言われた。
中小のIT関連企業。
社員数三十人。
業務システムの保守と、社内ヘルプデスク的な業務を担当する部署。
翔太の元の職種とは少し違う。
でも「人と関わりながら、でも極端な数字のプレッシャーはない仕事です」と田所は言った。
「試しに受けてみますか」と田所は言った。
「試しに、か」と翔太は思った。
試しに、という言い方が翔太には合っていた。
「絶対ここじゃなきゃ」ではなく、「試しに」。
それくらいの重さのほうが、今の翔太には動きやすかった。
「受けてみます」と翔太は言った。
面接の日程が決まった。
二月の第二週、水曜日の午後二時。
その日の朝、翔太は六時半に目が覚めた。
アラームは七時にセットしていた。
でも体が先に目を覚ました。
天井を見た。
いつものシミ。
羽を広げた鳥みたいな形。
でも今朝は、そのシミを見ていられなかった。
視線が落ち着かない。
天井から壁へ、壁から窓へ、
窓からまた天井へ。
目が、どこにも定まらない。
胃が、重かった。
昨夜はあまり食べられなかった。
悦子が作った夕食を、半分ほど残した。
悦子は何も言わなかった。
でも翔太の皿を見て、少し何かを言いかけて、止まった。
その「言いかけて止めた」が、翔太には逆に優しかった。
起き上がって、洗面所へ行った。
鏡を見た。
顔色が悪い。
眠れなかったわけじゃないが、眠りが浅かった。
目の下が、少し青い。
水で顔を洗った。
冷たかった。
二月の水道水は、刃みたいに冷たい。
でもその冷たさが、少しだけ頭を覚醒させた。
シャワーを浴びた。
いつもより長く浴びた。
特に意味はない。
ただ、出たくなかった。
シャワーの中にいる間は、何も考えなくていい気がした。
スーツを着た。
在職中に買ったスーツ。
三年ぶりに袖を通した。
サイズは変わっていなかった。
少し引きこもってから体重が落ちていたが、その後少し戻った。
ジャケットのボタンは閉まる。
鏡の前に立った。
スーツを着た自分を見るのが、久しぶりすぎた。
別人みたいだ、と翔太は思った。
でも別人じゃない。
三年前の自分でもない。
今の自分が、スーツを着ている。
それだけのことだ。
台所に行くと、悦子がいた。
今日は早番のパートがある日だったが、翔太より先に起きていた。
テーブルに朝食が並んでいた。
トーストと、スクランブルエッグと、コーヒー。
いつもより品数が多かった。
翔太はそれを見て、少し胸が詰まった。
「食べられるだけでいいから」と悦子は言った。
翔太は「うん」と言って、席に座った。
コーヒーを飲んだ。
温かかった。
スクランブルエッグを少し食べた。
トーストを半分食べた。
それが限界だった。
「これで十分」と悦子は言った。
自分に言い聞かせるような言い方だった。
翔太に言っているのか、自分に言っているのか、どちらか分からなかった。
「行ってきます」と翔太は言った。
悦子が翔太を見た。
「うん」と言った。
それから少し間があって、「大丈夫だよ」と言った。
大丈夫だよ。
翔太は、その言葉を受け取った。
保証じゃない。
事実でもない。
ただ悦子が、そう思いたいと思っている言葉だ。
でも翔太には、それで十分だった。
「行ってきます」と翔太はもう一度言って、ドアを開けた。
二月の冷気が、顔に来た。
空は晴れていた。
電車に乗った。
通勤時間帯を外しているから、車内は混んでいなかった。
座れた。
窓の外を見た。
街が流れていく。
住宅地、商店街、川、工場の建物、また住宅地。
普通の景色。
でも翔太の目には、いつもと少し違って見えた。
これだけの人間が、毎日外で動いている。
それが、今日の翔太には少し眩しかった。
眩しい、というより——遠い。
自分がその中に混じって動いていいのか、まだよく分からない感覚がある。
でも電車は動いている。
翔太を乗せたまま、目的地へ向かっている。
降りる駅が来た。
翔太は立ち上がって、ドアから出た。
改札を抜けて、地図を確認した。
会社のビルまで徒歩八分。
田所から事前に送ってもらった地図通りに歩いた。
道を歩きながら、翔太はいくつかのことを考えた。
何を聞かれるか。
退職理由をどう説明するか。
ブランクの二年以上をどう話すか。
田所と何度も練習した。
「正直に、でも前向きに」という言い方で。
「失敗の経験から学んだこと」として話す。
嘘はつかない。
でも全部さらけ出す必要もない。
分かっている。
練習した。
でも頭が、少し白くなっていた。
練習した言葉が、どこかに消えている感じ。
ビルが見えた。
六階建ての、古いビル。
一階にコンビニが入っている。
翔太は入り口の前で少し止まった。
深呼吸をした。
冷たい空気が、肺に入ってきた。
入った。
エレベーターで四階へ。
廊下を歩いて、会社のドアの前に立った。
インターフォンを押した。
「お世話になります。田中と申します。本日二時にお約束いただいておりまして」
自分の声が、少し上ずっていた。
「はい、少々お待ちください」
待合のソファに座って待った。
五分ほどで、中年の男性が出てきた。
人事担当と名刺に書いてあった。
四十代くらい。
眼鏡をかけた、穏やかそうな顔の人だった。
「田中さんですね。お待ちしていました」
会議室に通された。
白いテーブル。向かいに二脚の椅子。
窓から、冬の空が見えた。
翔太は椅子に座った。
背筋を伸ばした。
伸ばしたら、少し震えた。
震えていることに気づいて、余計に意識した。
人事担当の他に、もう一人入ってきた。
三十代の女性。
現場のリーダーだという。
「よろしくお願いします」と翔太は言った。
「こちらこそ」と人事担当は言った。
「緊張しないでください」
緊張しないでください、という言葉ほど、緊張を増すものはない。
翔太は内心そう思いながら、「はい」と言った。
面接が始まった。
最初は簡単な自己紹介から。翔太は準備した通りに話した。
名前、年齢、前職の業種。
言葉が出てきた。
練習した言葉が、ちゃんとそこにあった。
「前職を退職されたのが三年ほど前ということで」と人事担当が言った。
「その後のことを聞かせていただけますか」
来た、と翔太は思った。
一番答えにくい、でも一番聞かれる質問。
翔太は少し間を置いた。
逃げない、と思った。
「退職後、体調を崩しまして」と翔太は言った。
「しばらく、思うように動けない時期が続きました」
「体調、というのは」と人事担当が聞いた。
「精神的なものです」と翔太は言った。
言い切った。
「前職での失敗をきっかけに、自分への信頼感を失って、社会との接点が持てなくなりました。引きこもり、と言っていい状態でした」
部屋が、少し静かになった。
翔太は続けた。
「その時間の中で、自分の失敗の原因を考え続けました。能力の問題じゃなかったと思います。評価されることへの執着が、判断を歪めた。そう気づいた時、それが一番つらかった」
人事担当が、メモを取っていた。
でも顔は、翔太を見ていた。
「今は?」と現場リーダーの女性が聞いた。
「少しずつ、動いています」と翔太は言った。
「就労支援の機関を利用して、こうして外に出てきました。完全に回復した、とは言えないかもしれません。でも、止まっていたいとは思っていません」
「それを聞いてよかったです」と人事担当は言った。
翔太は少し、拍子抜けした。
責められなかった。
引きこもっていたことを話して、責められなかった。
当たり前かもしれない。
面接でそんなことを言う人間はいない。
でも翔太には、責められる覚悟があった。
だから、責められなかったことが少し意外だった。
質問が続いた。
前職での具体的な業務内容。
得意なこと、苦手なこと。
この会社で何がしたいか。
「得意なこと」を聞かれて、翔太は少し詰まった。
得意なこと。
在職中は「人と話すこと」と言っていた。
でも今の翔太には、それが本当に得意だったのか、分からない。
得意だったのか、得意なふりをしていたのか。
「正直に言うと」と翔太は言った。
「今は、得意なことを言い切る自信がありません」
人事担当が少し眉を上げた。
「でも」と翔太は続けた。
「人の話を聞くことは、以前より上手くなったと思います。自分が話すより、聞く方が大事だということが、ようやく分かってきました」
現場リーダーが、小さく頷いた。
「それで十分です」と人事担当は言った。
面接は三十分ほどで終わった。
「結果は一週間以内にご連絡します」と言われた。
翔太はお辞儀をして、部屋を出た。
廊下を歩いて、エレベーターを待った。
完璧な面接じゃなかった。
詰まった場面があった。
答えが薄かった質問があった。
「引きこもり」という言葉を使ったことが、よかったのか悪かったのか分からない。
でも、嘘はなかった。
それだけは確かだった。
一階に降りた。
コンビニが目に入った。
翔太は吸い込まれるように入った。
缶コーヒーのコーナーに行って、HOTを一本取った。
レジで精算した。
外に出た。
缶コーヒーを一口飲んだ。
甘くて、少し苦い。
いつもの味。
翔太はふと、七海に連絡しようとして、止まった。
報告したい気持ちがあった。
「終わったよ」と伝えたい。
でも——少し待った。
まず、自分の中で確かめたかった。
今日ここに来たのは、誰のためか。
七海のためじゃない。
悦子のためでもない。
木村のためでもない。
俺のためだ。
俺が、俺の足で、ここに来た。
翔太はその確認を、静かに自分の中でした。
それから缶コーヒーをもう一口飲んで、駅へ向かって歩き始めた。
二月の空は、高くて、青くて、冷たかった。
でも今日の空は、翔太にはそんなに遠くなかった。
帰りの電車の中で、翔太は七海にメッセージを送った。
「終わった」
すぐに返ってきた。
「どうだった」
「完璧じゃなかった。でも、嘘はなかった」
少し間があって、七海から返ってきた。
「それが一番大事だよ」
翔太はその言葉を読んで、窓の外を見た。
冬の景色が流れていた。




