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第14話 「母の、迷惑じゃない」

 一月の半ば、翔太は就労支援機関のオンライン面談を受けた。


 画面越しに、三十代くらいの支援員が話を聞いてくれた。

 責めなかった。

 急かさなかった。

「今、どんな状況ですか」と聞いて、翔太が話すのを、ただ聞いた。


 面談は四十分だった。

 終わった後、翔太はしばらくパソコンの前に座っていた。

 泣いたわけじゃない。

 特別な感情があったわけでもない。

 ただ、四十分間、自分のことを話し続けた。

 誰かに向かって、自分の状況を言葉にし続けた。

 それがどういうことか、終わってから少しだけ分かった。


 重かった。

 でも、重さが外に出た分だけ、少し軽くなった。

 その夜の夕食は、珍しく悦子が少し早く帰ってきた。

 台所で夕食を作る音がした。

 包丁の音。

 フライパンの音。

 換気扇の音。

 翔太はそれを聞きながら、部屋でスマホを見ていた。


 七海からメッセージが来ていた。

「今日、面談どうだった?」

 翔太は先週、七海に面談のことを話していた。

「終わった。なんか、疲れた」

「それは、いい疲れ?」

 翔太は少し考えた。

「たぶん」

「よかった。ゆっくり休んで」


 悦子が「ご飯できたよ」と廊下から声をかけた。

 翔太はスマホを置いて、台所へ行った。

 今夜は肉野菜炒めと、豆腐の味噌汁と、ご飯だった。

 悦子が先にテーブルについていた。

 翔太は向かいに座った。

 箸を取った。

「いただきます」と翔太は言った。

「いただきます」と悦子も言った。

 しばらく、二人で食べた。

 テレビはついていなかった。

 最近、夕食の時にテレビをつけないことが増えた。

 誰が決めたわけでもない。ただ、気づいたらそうなっていた。


「今日、外出したの?」と悦子が言った。

「オンライン面談だったから、家の中で」と翔太は言った。

「そうか」と悦子は言った。

 それから少し間があって、「面談って、就職の?」と聞いた。

 翔太は少し驚いた。

「就労支援のやつ。就職に向けての相談みたいな感じ」

「そう」と悦子は言った。

 箸を動かしながら、少し黙っていた。

 翔太も食べた。


「翔太」と悦子が言った。

 名前を呼ばれた。

 悦子が翔太の名前を呼ぶのは、珍しかった。

「あんた」でも「ねえ」でもなく、「翔太」と呼ぶのは。

「うん」と翔太は言った。

「迷惑かけてごめん」と翔太は言った。

 なぜそれが口から出たのか、翔太自身も分からなかった。

 面談の話になって、何か言わなければという気持ちが、その言葉を引き出した。

 二年以上、ずっと思っていたことだった。


 悦子は箸を止めた。

 少し間があった。

 翔太はその間の長さを、数えるように感じた。

「迷惑とは思ってない」と悦子は言った。

 短い言葉だった。

 でも、はっきりしていた。

 翔太は悦子の顔を見た。

 悦子は箸を持ったまま、味噌汁のほうを向いていた。

 翔太と目を合わせなかった。

 でも、声は揺れていなかった。

「でも」と翔太は言った。

「生活費も、全部母さんに出してもらってて」

「それは、今は仕方ない」と悦子は言った。

「仕方なくはない」

「今は、そういう時期だから」


 翔太は、その言葉の意味を測った。

「そういう時期」という言い方が、責めていないだけじゃなく、翔太の状況を「あってはいけないこと」として扱っていないように聞こえた。

「母さんは」と翔太は言った。

「俺がこうなった時、何を思ってたの」

 悦子は、少し止まった。

 箸を置いた。

 珍しかった。

 食事の途中で箸を置く人じゃなかった。

「心配してた」と悦子は言った。

「それだけ?」

 少し間があった。

「あんたが、お父さんみたいになるんじゃないかと思って、怖かった」


 翔太は、息が少し止まった。

 お父さん。

 田中浩一。

 翔太が十四歳の時にいなくなった人。

 失敗して、少しずつ薄くなって、静かに消えた人。

「俺が、父さんみたいに見えた?」と翔太は言った。

 悦子は少し間を置いてから、「似てた」と言った。

「部屋にこもって、出てこなくて。あの人も、最後はそうだったから」

 翔太は、その言葉を受け取った。

 悦子が「怖かった」と言った。

 この人が「怖かった」と言うのを、翔太は初めて聞いた。

 感情を言葉にしない人が、「怖かった」と言った。


「ごめん」と翔太は言った。

「謝らなくていい」と悦子は言った。

「ただ、怖かったから」

「でも、俺は父さんとは違う」と翔太は言った。

 自分で言って、少し驚いた。

 言い切れた。


「俺は消えない」

 悦子が翔太を見た。

 初めて、ちゃんと目が合った。

 悦子の目が、少し揺れた。

 泣いているわけじゃない。

 でも、何かが動いた目だった。

「うん」と悦子は言った。

 それだけだった。

 でも翔太には、その「うん」に、色々なものが入っていた気がした。

 安堵と、長い時間と、言えなかった言葉と、それでも待っていた時間と。


 二人でまた食べ始めた。

 テレビのない、静かな台所だった。

 でも今夜の静けさは、以前と違った。

 言えないことが多すぎる沈黙ではなく、言わなくてもいいことを、言わないでいる沈黙だった。

 食べ終わって、翔太が食器を洗い始めた。

 いつもは悦子が洗う。

 でも今夜は、翔太が立った。

 悦子は少し驚いた顔をして、でも何も言わなかった。


 食器を洗いながら、翔太は窓の外を見た。

 一月の夜は暗い。

 でも空に星が出ていた。

 都会の空だから多くはないが、いくつかはっきり見える星があった。

「翔太」と悦子が言った。

「うん」

「面談、どうだった」

「疲れた」と翔太は言った。

「でも、よかった気がする」

「そう」と悦子は言った。

 少し間があって、「頑張ってるね」と言った。

 翔太は手を止めた。

 頑張ってるね。

 この人が、そういう言葉を言った。

「まあ」と翔太は言った。「少しずつ」

「うん」と悦子は言った。

 それだけだった。

 でも翔太には、十分だった。


 食器を洗い終わって、部屋に戻った。

 日記を開いた。

 今日、面談を受けた。

 夜、悦子に「迷惑かけてごめん」と言った。

「迷惑とは思ってない」と言われた。

「怖かった」とも言われた。

 俺が父さんみたいになるんじゃないかと。

 俺は「俺は消えない」と言った。

 言い切れた。

 母が「頑張ってるね」と言った。

 母が何を考えているのか、俺にはわからない、と昔書いた。

 今夜は少しだけ、分かった気がした。

 ——分かることと、分かり合えることは、違うかもしれない。

 でも、今夜の「うん」は、本物だったと思う。


 閉じた。

 外では、一月の風が静かに鳴っていた。

 翔太は電気を消して、布団に入った。

 目を閉じると、悦子の「うん」が、まだ耳に残っていた。

 短い言葉だった。

 でも、長い時間が、その一音の中に入っていた気がした。

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