第13話 「元上司の名刺」
一月の朝は、光が遅い。
七時を過ぎてもまだ暗く、八時になってようやく空が白み始める。
冬の夜明けは、渋々やってくる感じがある。
急がない。
時間をかけて、少しずつ明るくなる。
翔太は約束の二時間前に目が覚めた。
眠れなかったわけじゃない。
ちゃんと眠った。
でも体が先に起きた。
緊張、と呼ぶのが正確なのかもしれないが、翔太にはその感覚が久しぶりすぎて、最初は何なのか分からなかった。
胃のあたりが、少し重い。
今日、木村と会う。
年末に電話が来てから、二週間が経っていた。
その間、翔太は木村のことを考えない日がなかった。
正確には、考えないようにしていたが、考えてしまう日が続いた。
何を言われるのか。
何を言えばいいのか。
「あの件、俺にも落ち度があった」と木村は電話で言っていなかった。
ただ「話しておきたかった」と言っただけだ。
その言葉の意味を、翔太は何十回も反芻した。
責められるのかもしれない。
今更になって、損害のことを言われるのかもしれない。
あるいは——もっと翔太が扱いにくい何かを、言われるのかもしれない。
翔太はシャワーを浴びた。
引きこもってから、シャワーを浴びる頻度が落ちていた時期がある。
二日に一度、三日に一度。
体を洗うことへの気力が、どこかへ行ってしまっていた。
今は毎日浴びている。
それだけのことが、以前は難しかった。
着替えた。
クローゼットの奥に、スーツが一着ある。
在職中に買ったやつ。
今日はスーツじゃなくていい。
でも、それなりの格好をしようと思った。
きちんとした服を着ることが、気持ちの準備になる気がした。
チノパンと、ネイビーのジャケット。
鏡を見た。
やつれているとは思わない。
でも、三年前に比べると、顔から何かが抜けている気がした。
ハリ、と呼ぶのか、張り詰めた感じ、と呼ぶのか。
在職中の翔太は、常に何かに追われているような顔をしていた。
今はその追われ感がない。
それが良いことなのか、悪いことなのか、翔太には判断できなかった。
台所に行くと、悦子がいた。
今日は珍しくパートが休みの日で、朝食を作っていた。
卵焼きと、味噌汁と、ご飯。
「早いね」と悦子が言った。
「今日、外出するから」と翔太は言った。
悦子が振り返った。
「木村さんとのやつ?」
「うん」
悦子は少し翔太を見た。
ジャケットを着ていることに気づいたのかもしれない。
何か言いかけて、止まった。
「ご飯、食べていきなよ」と悦子は言った。
「食べる」と翔太は言った。
二人で朝食を食べた。
テレビはついていなかった。
静かな朝だった。
悦子が味噌汁を注いでくれた。
翔太は「ありがとう」と言った。
悦子は「うん」と言った。
それだけだったが、その「うん」がいつもより少し温かかった気がした。
食べ終わって、翔太がコートを羽織っていると、悦子が台所から言った。
「気をつけて」
翔太は少し止まった。
「行ってきます」と翔太は言った。
「うん」と悦子は言った。
ドアを開けると、一月の冷気が顔に来た。
空は晴れていた。
雲一つない、冬の青空。
低い位置にある太陽が、アパートの壁を白く照らしている。
影が長く伸びていた。
翔太は駅に向かって歩いた。
久しぶりに電車に乗った。
改札を通って、ホームに立って、電車を待つ。
それだけのことが、少し新鮮だった。
ホームには人がいた。
スーツ姿のサラリーマン。
制服を着た学生。
スマホを見ながら立っている人、イヤホンをしている人。
みんなそれぞれの用事で、それぞれの場所へ向かっている。
翔太もその中の一人として立っていた。
それがどういう感じなのか——目立たない、ということの安堵と、溶け込めている、ということの奇妙な感覚が、同時にあった。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外を、冬の街が流れていった。
待ち合わせのファミレスは、駅から徒歩五分の場所にあった。
チェーンの、どこにでもあるファミレス。
入り口のガラス越しに、赤いシートが見える。
平日の午前中だから、客は少なかった。
翔太は五分前に着いた。
店内に入って、窓際の四人席に座った。
コートを脱いで、メニューを手に取った。
何も入ってこなかった。
文字を見ているが、読めていない。
約束の時間ちょうどに、木村が入ってきた。
翔太はすぐに分かった。
変わっていなかった。
髪が少し白くなっているかもしれない。
でも体格も、歩き方も、あの会議室の人と同じだった。
コートを脱ぎながら翔太のほうへ歩いてくる。
目が合った。
木村が軽く頷いた。
翔太も頷いた。
「待たせたか」と木村は言った。
「いえ、今来たところです」
木村は向かいの席に座った。
近くで見ると、確かに老けていた。
目の下に、三年前よりはっきりした疲れがある。
四十代後半の、現役管理職の疲れ。
翔太が在職中に見ていた木村より、少し重くなった感じがした。
店員が来て、コーヒーを二つ頼んだ。
しばらく、どちらも黙っていた。
翔太は、何かを先に言うべきか考えた。
謝罪か。
それとも「なぜ連絡してきたんですか」と直接聞くか。
でも口が動かなかった。
木村が先に口を開いた。
「田中、元気にしてるか」
翔太は少し考えた。
「まあ、なんとか」と翔太は言った。
「そうか」と木村は言った。
それ以上聞かなかった。
コーヒーが来た。
二人でカップを持った。
木村がブラックで飲んだ。
翔太もブラックにした。
特に理由はなかったが、ミルクを入れる気になれなかった。
「急に連絡して、驚いたか」と木村が言った。
「驚きました」と翔太は正直に言った。
「そうだろうな」木村はカップを置いた。
「三年、経ったな」
「はい」
「俺も、色々あった」と木村は言った。
「部署が変わって、人間関係も変わって。あの時のメンバーは、もう半分以上いない」
翔太は黙って聞いた。
「田中が辞めた後、俺はしばらく、お前のことが頭から離れなかった」
翔太は少し身構えた。
ここから責められる、と思った。
やはりそういう話だ。
三年越しに、言いたかったことを言いに来た。
「あの件の後、田中に対して俺のやり方が正しかったのかどうか、ずっと考えてた」
翔太は、木村の言葉の意味を測った。
「……どういう意味ですか」と翔太は言った。
木村は少し間を置いた。
「あの時、俺は田中に『どういう確認をしていたんだ』と言った。覚えてるか」
「覚えています」
「あの言い方は、正しくなかった」と木村は言った。
「田中一人の問題じゃなかった。俺がもっと早く進捗を確認していれば、あそこまでこじれなかった。田中が焦っていたのも、俺が結果を求めるプレッシャーをかけていたからかもしれない」
翔太は、その言葉を聞いた。
聞いて、すぐには何も言えなかった。
謝罪、だった。
三年前の上司が、翔太に謝っている。
翔太は頭の中が、少し白くなる感じがした。
この展開を、想定していなかった。
責められる準備はしてきた。
怒鳴られるかもしれないという覚悟もあった。
でも、謝られる準備は、できていなかった。
「あの件、俺にも落ち度があった」と木村は言った。
はっきりとした言葉だった。
翔太はカップを持ったまま、動けなかった。
「……いえ」と翔太は言った。
「俺が確認を怠ったのは事実です。俺の判断ミスです」
「そうだ」と木村は言った。
「でも、それだけじゃなかった、という話をしている」
「でも」と翔太は言いかけて、止まった。
でも、何だ。
でも俺が悪かった。
でも俺のせいだ。
でも俺が謝らなければならない。
そういう言葉が、喉の奥にある。
三年間、そう思い続けてきたから。
自分が悪かった、という結論が、翔太の中で固まりすぎていた。
そこに「俺にも落ち度があった」という言葉を差し込まれても、受け取る場所がない。
「田中」と木村が言った。
「はい」
「お前は、自分が全部悪かったと思ってるだろう」
翔太は答えなかった。
答えが、肯定になるから。
「その思い込みが、お前を止めてるんじゃないかと思って、来た」と木村は言った。
翔太は、木村を見た。
木村の顔は、いつもと同じように、感情が読みにくい顔だった。
でも目が、あの会議室の時と違った。
あの時の木村の目は、冷静だったが遠かった。
今は、少し近い。
「俺はお前に、ちゃんと言わなかった」と木村は続けた。
「あの時、田中のやったことは確かに問題だった。でも、それ以上でもそれ以下でもなかった。能力がない人間がやることじゃなかった。ただの失敗だった」
「ただの失敗」という言葉が、翔太の中で響いた。
ただの失敗。
三年間、翔太はあの出来事を「ただの失敗」として処理できなかった。
もっと大きな何かとして、自分の全否定として、抱えてきた。
それが「ただの失敗だった」と言われると、どう受け取ればいいか分からない。
「……俺は」と翔太は言った。
声が、少しかすれた。
「あの後、二年以上、何もできませんでした」
「知ってる」と木村は言った。
「知ってたんですか」
「同期から少し聞いた」
翔太は少し黙った。
同期。
誰だろう。
翔太が辞めた後も、気にしていた人間がいたということか。
「申し訳なかった」と木村は言った。
「俺がもっと早く連絡すべきだったかもしれない。でも、お前が連絡を望まないかもしれないとも思って、躊躇してた」
翔太は、木村の言葉を聞きながら、自分の中の何かが、少しずつほぐれていく感じがした。
ほぐれる、というより——緩む感じ。
三年間、固く結んでいた何かが、少し緩む。
でも、緩んだからといって、すぐに楽になるわけじゃなかった。
緩んだ分だけ、代わりに何かが出てくる気がした。
悲しみ、とも違う。
怒り、とも違う。
ただ、長い時間をかけて抱えてきたものが、少しだけ動いた感覚。
「……俺は」と翔太は言った。
「木村さんに責められに来たつもりでした」
木村は少し表情を動かした。
「そうか」
「謝られる準備が、できていなかった」
「それはそうだろう」と木村は言った。
「急に連絡して、悪かった」
「いえ」と翔太は言った。
「来てよかったと思います。たぶん」
「たぶん、か」と木村は言った。
「まだ、受け取りきれていないので」
木村は少し笑った。
笑った顔を、翔太は初めて見た気がした。
会議室では笑わない人だったから。
「正直だな、お前は」と木村は言った。
「昔から?」
「いや、昔はもっと取り繕ってた。今のほうが正直だ」
翔太は、その言葉を聞いた。
昔より正直になった。
引きこもって、二年以上、何もできなかった時間の中で、それだけは変わったのかもしれない。
取り繕う体力がなくなって、正直になるしかなかっただけかもしれないが。
コーヒーが、半分以下になっていた。
「今、どうしてるんだ」と木村が聞いた。
「少しずつ、動こうとしています」と翔太は言った。
「就労支援のことを調べていて、問い合わせも送りました。まだ面談の日程は決めていないですが」
「そうか」と木村は言った。頷いた。
それ以上は聞かなかった。
急かすことも、アドバイスをすることも、しなかった。
ただ「そうか」と言って、頷いた。
その受け取り方が、翔太には少し楽だった。
しばらく、二人で窓の外を見た。
一月の街が、白い光の中にあった。
人が歩いている。
車が通る。
自転車が一台、風を切って走っていく。
何でもない昼前の、何でもない街の風景。
「そろそろ行くか」と木村が立ち上がった。
コートを羽織って、財布を出した。
「割り勘で」と翔太は言った。
「いい。俺が呼んだんだから」と木村は言った。
レジへ向かいながら、木村がコートのポケットから何かを取り出した。
名刺だった。
翔太に差し出した。
受け取って、見た。
木村の名刺ではなかった。
別の会社の名刺。
「株式会社リスタート・パートナーズ」という社名。
「就労移行支援・再就職支援」という文字が、その下にあった。
「知り合いがやってる会社だ」と木村は言った。
「中途採用の支援が専門で、ブランクがある人間の対応に慣れてる。行くかどうかはお前次第だ」
翔太は名刺を見た。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」と木村は言った。
「使うかどうかも、強制じゃない。ただ、一つの選択肢として持っておけ」
店を出た。
一月の冷気が、また顔に来た。
木村が「じゃあ、元気でな」と言った。
「はい」と翔太は言った。
「今日は、ありがとうございました」
木村は軽く頷いて、駅と反対方向へ歩いていった。
翔太はしばらく、その背中を見た。
大きくも小さくもない背中。
普通の、中年男性の背中。
三年間、翔太の頭の中で「あの会議室の人」として固まっていた像が、今日少し変わった。
木村は怪物じゃなかった。
翔太を壊した人間じゃなかった。
ただの、管理職の人間だった。
落ち度もあって、後悔もあって、三年越しに言いに来た。
それだけの人だった。
翔太はコートのポケットに名刺を入れた。
硬い紙の感触が、指に残った。
駅へ向かって歩き始めた。
一月の光が、低い角度で街を照らしていた。
影が長く伸びている。
でも今日の影は、いつもより少し薄い気がした。
気のせいかもしれない。
でも翔太は、その影を踏みながら、少しだけ背筋を伸ばして歩いた。
帰りの電車の中で、日記アプリを開いた。
木村と会った。
謝られた。
受け取る準備ができていなかった。
「ただの失敗だった」と言われた。
その言葉の意味を、まだ全部は飲み込めていない。
でも、何かが少し緩んだ気がした。
名刺をもらった。
再就職支援の会社の名刺。
ポケットに入れた。
三日間は、触らないかもしれない。
でも、捨てない。
書いて、スマホを伏せた。
電車の窓に、冬の景色が流れていた。




