第12話 「元上司からの不意打ち」
十二月の終わり、年の瀬が来た。
街はカウントダウンに向けて加速していく。
大掃除、年賀状、帰省の準備——そういう「年末らしいこと」が、世の中に満ちている。
テレビをつければ今年の振り返り特集。
コンビニに行けばおせちの予約受付。
世界が「一年をまとめる」方向に動いている。
翔太にとって、この一年はどんな年だったか。
就労支援の情報を調べ始めてから、二週間が経った。
調べるだけでなく、実際に一つの民間支援機関に問い合わせメールを送った。
それだけで一日かかった。
文章を書いては消し、書いては消し、最終的に五行の短いメールを送るのに、三時間使った。
返信は翌日来た。
「ご連絡ありがとうございます。まずはオンライン面談から始めることもできますので、お気軽にご相談ください」という内容だった。
翔太はその「お気軽に」という言葉を少し眺めた。
気軽にはなれない。
でも、動けないわけじゃない。
オンライン面談の日程を、まだ返信していなかった。
でも、返信する気がなくなったわけでもなかった。
ただ、もう少し考えてから、と思って、画面を閉じたまま数日経っていた。
その朝、スマホに見知らぬ番号から着信が来た。
翔太は画面を見た。
非通知ではない。
普通の番号。
でも登録されていない。
最近は知らない番号には出ない。
どうせ営業か、何かの勧誘だ。
翔太は画面が暗くなるまで待った。
着信が止んだ。
数分後、同じ番号からもう一度来た。
翔太は少し考えて、出た。
「はい」
「田中か?」
男の声だった。
低くて、落ち着いた声。
翔太は一瞬、誰か分からなかった。
でも次の言葉で分かった。
「木村だ。前の会社の」
翔太は、固まった。
木村誠。
元上司。
翔太が「自主退職」する前、会議室で向かい合った人。
あの蛍光灯の白さ。
「どういう確認をしていたんだ」という問い。
「……はい」と翔太は言った。
声が、少しかすれた。
「急に連絡してすまない。番号は、以前の名簿から」
「はあ」
「今、少し話せるか」
話せるか、と聞かれた。
翔太には断る理由がなかった。
正確には、断れなかった。
体が固まっていた。
「大丈夫です」と翔太は言った。
「そうか」と木村は言った。
「近々、お前の地元のほうに行く用事があってな。もしよければ、少し会えないかと思って」
翔太は、その言葉の意味を測った。
会う。
木村と、会う。
なぜ。
「何の用ですか」と翔太は聞いた。
直接的な聞き方だったが、他に聞き方が分からなかった。
木村は少し間を置いた。
「用というほどのことじゃない。ただ、一度話しておきたかった」
「話す、とは」
「会ってから話す」と木村は言った。
「電話で言えることじゃない」
翔太は黙っていた。
「嫌なら断っていい」と木村は言った。
「強制じゃない。ただ、俺が話したいと思った」
断れ、と翔太は自分に言った。
断っていい。
木村の都合で、こちらが合わせる必要はない。
三年前のことを蒸し返されるなら、会わなくていい。
会ったって、何も変わらない。
でも翔太の口は、別のことを言った。
「……いつですか」
自分でも、なぜそう言ったか分からなかった。
木村が日程を言った。
年明けの一月初旬。
翔太のアパートから電車で三十分ほどの場所に来るという。
「場所は、そっちで決めていい。ファミレスでも喫茶店でも」と木村は言った。
「分かりました」と翔太は言った。
「じゃあ、また連絡する」
電話が切れた。
翔太はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。
木村誠。
翔太の記憶の中で、木村は「あの会議室の人」だ。
怒鳴らなかった。
感情的にならなかった。
ただ静かに「どういう確認をしていたんだ」と言った。
その静けさが、翔太には一番堪えた。
怒鳴られたほうが、まだ楽だった気がする。
なぜ今頃、連絡してきたのか。
「一度話しておきたかった」という言葉の意味が、分からない。
謝罪なのか。
それとも何か別の用件があるのか。
「電話で言えることじゃない」という言い方が、翔太には少し怖かった。
七海に、連絡しようかと思った。
スマホを持って、少し止まった。
七海に話す前に、少し自分の中で整理したかった。
七海に話すと、七海が心配する。
七海が心配することで、翔太が安心しようとする——それが「支えてもらう」ではなく「七海を使う」になってしまうかもしれない。
翔太は日記を開いた。
木村から電話が来た。
会うことになった。
なぜ会うと言ったのか、自分でも分からない。
怖い、と思っている。
でも怖いのが何かは分からない。
木村が怖いのか。
過去が怖いのか。
それとも、また自分の失敗と向き合わなければならないことが怖いのか。
書いて、少し止まった。
たぶん、全部だ。
でも、会わない選択をしなかった。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
閉じた。
台所に行って、水を飲んだ。
冷たかった。
十二月の水道水は、氷みたいに冷たい。
悦子の部屋から、テレビの音が聞こえた。
年末の特番だろう。
にぎやかな笑い声が、ドア越しに聞こえてくる。
翔太はコップを置いて、悦子の部屋のドアをノックした。
「何?」と悦子の声がした。
翔太はドアを開けた。
悦子がこたつに入って、テレビを見ていた。
「ちょっといい?」と翔太は言った。
悦子がテレビのリモコンを手に持ったまま、翔太を見た。
「どうしたの」
「前の会社の上司から電話が来た」と翔太は言った。「会うことにした」
悦子は、一瞬だけ表情が動いた。
驚いた、のではなかった。
何かを確かめるような、あるいは何かをこらえているような、微妙な表情だった。
でもすぐに、元に戻った。
「そう」と悦子は言った。
それから少し間があって、「大丈夫?」と言った。
翔太は少し驚いた。
悦子が「大丈夫?」と聞くのは、珍しかった。
心配していても、それを言葉にすることは、ほとんどなかった人だ。
「大丈夫かどうか、まだ分からない」と翔太は正直に言った。
悦子は少し頷いた。
「そう」と言った。
テレビの笑い声が、また聞こえてきた。
「こたつ、入る?」と悦子が言った。
翔太は少し驚いた。
「いい」と言いかけて、少し止まった。
「……入る」と翔太は言った。
悦子がこたつの反対側をめくった。
翔太はそこに足を入れた。
温かかった。
二人でテレビを見た。
大して面白くない年末特番だった。
でも悦子が時々「この人、知ってる?」と聞いてきた。
翔太が「知らない」と言うと、悦子が「最近の人は分からないね」と言った。
それだけの会話だった。
でも翔太は、こたつの温かさの中で、少し息が楽になった。
年末の夜が、静かに更けていった。




