第4章 黒海の休日
第4章 黒海の休日
黒海沿岸の町へ入ったころには、もう夜でした。
オリビアたちは海辺のホテルへ入り、予約なしで泊まれる部屋があるかを聞きました。遅い時間でしたが、五人が泊まれる空きは残っています。
ミズーリがボスポラス海峡を抜けて黒海へ入ったことまでは、帝都側も把握しています。その先は夜になり、巨大な戦艦は沖合で姿を消し、オリビアたちは飛行魔法で陸へ移りました。港への入港記録も宿への先触れもないため、帝国側が行方を追っても、この夜に五人がどの町のどのホテルへ入ったかまでは分かりませんでした。
オリビアたちは、普通に部屋へ荷物を置き、風呂を使い、寝ました。
*
翌朝、ホテルの食堂には、この地方らしい食べ物がいくつも並んでいました。
オリビアが最初に取ったのは、山羊乳で作ったヨーグルトです。
牛乳のものより香りが少し強く、濃さがあります。そこへ砕いたナッツを載せた甘いケーキを少し取り、大きくねじった焼きパンも一つ皿へ載せました。
その焼きパンは、前世の感覚なら巨大なプレッツェルに近く見えます。
別の大皿には、薄い生地とほうれん草を何層にも重ねて焼いた料理がありました。切り分けると層がはっきり見え、オリビアには大きなほうれん草入りのラザニアのようにも見えます。
「これ、おいしいです」
タマが言いました。
チャトラも同じ料理を皿へ取っています。
「朝から大きいですね」
「五人いるから大丈夫だよ」
ミミは山羊乳のヨーグルトを一口食べ、少し考えてから、もう一口食べました。
「いつものと味が違う」
「山羊のお乳だからね」
ベラミラ先生は、窓の外へ目を向けました。
ホテルの向こうには黒海が見えます。反対側には、昨夜オリビアが手を入れた森林地帯が広がっていました。
「今日はどうしますか?」
チャトラが聞きました。
ベラミラ先生は、ホテルで借りた周辺図を開きます。
「私は南側の湿原を見てきます。海のすぐ近くに、森と水辺がつながっているところがあるそうです」
「先生らしいですね」
オリビアが言いました。
「オリビアさんは?」
「私はプールのところにいるよ」
それを聞いた三人は、ほとんど同時に海の方を見ました。
「じゃあ、私たちはビーチへ行きます」
「行っておいで」
朝食を終えると、五人はそれぞれ好きなところへ向かいました。
この帝国の海辺では女性も普通に泳ぎ、皇帝も進歩的なので、海水浴や水辺の遊びはごく普通の娯楽として受け入れられています。一方、宗教や生活文化の感覚としては露出を抑えた服装が好まれ、前世のビキニや、体の線がはっきり出る競泳用のワンピース水着をそのまま持ち込めば、この場所ではかなり目立ちます。
ホテルで水辺を楽しむ人たちは、肩や腹を覆い、脚もある程度隠れる、動きやすい水遊び着を使っていました。
チャトラ、タマ、ミミも、その雰囲気に合わせた格好でビーチへ出ました。
三人は波打ち際を走り、浅いところへ入っては戻り、また少し深いところまで進みます。
チャトラは波が来るたびに少し跳び、タマは海の中から砂浜へ向かって水を飛ばしました。
「冷たい!」
ミミが逃げます。
「海なんだから濡れるよ」
「そういう問題じゃないよ」
三人の声は、波の音に混じっていきました。
ホテルのプールサイドでは、オリビアが日陰の椅子に座っていました。
昨夜はミズーリから一人で森へ入り、広い涵養林を復元し、迷いの森の魔法までかけ直しています。
今日は、何もしない時間にしました。
水面を眺め、飲み物を少しずつ飲み、ときどきビーチの方へ目を向けます。
遠くではチャトラたちがまだ遊んでいました。
南側へ出かけたベラミラ先生は、湿地と森の境を歩いていました。
黒海沿岸の低い土地には水がたまり、森の中へ入り込むように湿地が続いています。草地、水面、木立が短い距離で入れ替わり、場所によって足元の水深も違います。
ベラミラ先生は、植物の種類と水の流れを見ながら、ゆっくり歩きました。
森そのものを昨夜オリビアが変えたことは知っています。今日は調査任務ではなく、先生自身が見たい湿地と植物をゆっくり見て歩く休日でした。
*
昼になると、五人はホテルのビーチサイドレストランへ集まりました。
炭火の匂いがしています。
「これにします」
チャトラが選んだのは、串に刺した肉を焼いたケバブでした。
タマとミミも同じものを頼みます。
焼いた肉に野菜とパンが付き、山羊乳のヨーグルトを使った冷たい添え物も出てきました。
「朝も食べたよね」
ミミがヨーグルトを見ます。
「味が違うからいいんじゃない?」
タマがもう肉を食べ始めている横で、ベラミラ先生は湿原の話をしました。
「海のすぐそばなのに、水の溜まり方で植物がずいぶん変わりますね。森の中へ入る水と、海へ抜ける水の境目が面白いです」
「先生、午前中ずっと見てたんですか?」
「はい。まだ見ていないところもあります」
「午後も行くんですか?」
「少しだけ」
オリビアは笑いました。
「先生の休日も、先生らしいね」
食後には、朝にもあったナッツを使った甘いケーキを追加しました。
午後も、それぞれ好きなところで過ごします。
チャトラたちはもう一度ビーチへ行き、オリビアはプールサイドへ戻りました。
帝国の宮殿では、オリビアの行き先を調べようとしている者がいるかもしれません。
本人は、そのころホテルの日陰でのんびりしていました。
*
夕方が近づくと、五人は部屋へ戻り、出発の準備をしました。
オリビアはホテルへ料理を多めに注文しました。
パン、焼いた肉、野菜料理、甘い菓子、ヨーグルトなどを、持ち運べる形にしてもらいます。
受け取った料理は収納へ入れました。
そこには、ミズーリで調理担当の聖霊たちが作ってくれた食事もまだ残っています。今夜は船の上で、保存してある料理を並べれば十分です。
日が傾くころ、一行はホテルのビーチへ出ました。
砂浜から海へ向かって桟橋が伸びています。
朝から遊んでいた宿泊客もまだ残り、ホテルの従業員も行き来していました。
今日は、人目のある桟橋でそのまま船を出します。到着時に大きな変わった船を見せれば一日中人が集まって、ビーチ遊びどころではなくなったでしょうが、今はもう出発する時間でした。
「ここで出すね」
オリビアが桟橋の先へ歩きました。
海面の水を、これから船体が占める分だけ先に収納します。その水も、生物を含んだまま別の場所へ持ち運ばないよう、プランクトンや卵、幼生などを除いた状態で保持しました。
次の瞬間、桟橋の横へ白い大型艇が現れました。
Lexus LY 650です。
全長は約十九・九四メートル、幅は約五・七六メートル。帆もマストもなく、低く滑らかな船体に大きな窓が続き、帆船ばかりを見慣れた人には、何に見立てればいいのか分からない形をしています。
桟橋にいた人たちの動きが止まりました。
「船……ですか?」
ホテルの従業員が、思わず聞きました。
「はい。これで出ます」
オリビアは普通に答えます。
五人が乗り込むころには、ビーチからも人が集まり始めていました。
ただし、見物人が増えるころには出港です。
LY 650は桟橋を離れ、黒海へ出ました。
*
船内は、外観以上にこの世界の船と違っていました。
白を基調にした明るいサロンの前方には操船席とソファがあり、後方にはギャレーがあります。サロンの下には三つの客室があり、合わせて六人が眠れます。それぞれの客室には専用のシャワー付きの設備まであり、五人で一泊するには十分な広さでした。
オリビアが前世で実際に使っていたのは、このLY 650です。
次には新しいLY 680へ買い換える予定でしたが、その前にこちらの世界へ来ています。だから召喚できるのは、実際に使ったことのあるLY 650の方でした。
チャトラがサロンを見回しました。
「ミズーリより小さいのに、こっちの方が家みたいですね」
「そういう船だからね」
戦うためのミズーリに対して、こちらは海の上でくつろいだり泊まったりするために作られたプレジャーヨットでした。
日が沈むと、周囲は暗くなりました。
操船席では航海灯とレーダーを使い、黒海を行き交う船の位置を確かめながら進みます。帆船の灯りは小さくても、レーダーには船影が出ます。
夕食は、ホテルで買ってきた料理と、ミズーリで作ってもらった料理を並べました。
「これ、まだあったんですね」
チャトラがミズーリの料理を見つけます。
「作ってもらった分、けっこう残してあるよ」
「じゃあ、ホテルのも出しましょう」
タマが言いました。
食卓には、海辺のホテルの料理と、淡い緑色の聖霊たちが作ったミズーリの食事が一緒に並びました。
夜が深くなる前に、オリビアは海岸沿いの小さな船溜まりへLY 650を入れました。
そこは、低い防波堤と小さな桟橋があり、地元の帆船や漁船が数隻泊まっているだけの、鄙びた小さな船溜まりでした。
そこへ、真っ白なLY 650が一隻入りました。
何人かには見られましたが、もう夜です。
五人は上陸して宿を探すこともなく、そのまま船内へ泊まりました。
三つの客室へ分かれ、シャワーを使い、ベッドへ入ります。
外では小さな波が船体へ当たり続けていました。
*
翌朝、LY 650は早い時間に船溜まりを出ました。
黒海沿岸を南へ進むにつれて、海上の船が増えていきます。
やがてボスポラス海峡の入口へ入りました。
昨日までミズーリが通った海峡を、今日は約二十メートルの白いプレジャーヨットで進みます。前世の地図ならイスタンブールに重なる帝都へ近づくほど、帆船、渡し船、小型の荷船が増え、岸には建物が連続して見えるようになりました。
船着き場はいくつもあります。
「どこにします?」
ベラミラ先生が聞きました。
「空いてるところでいいかな」
オリビアは、海峡沿いの人通りが多い普通の船着き場を一つ選び、LY 650を寄せます。
帆もない白い船が近づいてきたため、岸では何人もこちらを見ています。
オリビアは係留し、五人が順に上陸しました。
荷物もすべて収納へ入っています。
最後にオリビアが艇を降り、桟橋から少し離れます。
LY 650を召喚したときに取り除き、生物を除去した状態で保持していた水を、今度は船体が消える体積へ戻しました。
白い艇が消え、水面がほぼ同時に埋まります。
岸で見ていた人たちから声が上がりました。
オリビアは振り返りませんでした。
「行こうか」
「はい」
五人は船着き場を離れ、そのまま帝都の人混みへ入っていきました。
帝国側が数日前から『オリビアが来るかもしれない』と構えていたころ、本人たちは迎賓の列にも宮殿の門にも向かわず、普通の旅行者のように帝都の雑踏へ紛れていました。




