第5章 帝都のグランバザール
第5章 帝都のグランバザール
BGM:Mendelssohn: Violin Concerto in E Minor, Op. 64, MWV O 14: III. Allegro molto vivace
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船着き場を離れた5人は、そのまま帝都の人混みへ入りました。
少し歩いたところで、オリビアが声を落とします。
「市場に、私たちを待っている人がいるみたい」
「帝国の人ですか」
チャトラが聞きました。
「うん。歓迎したいみたい。かなり準備してる」
「会います?」
「今日は買い物したいな」
ベラミラ先生が笑いました。
「それなら、買い物を優先しましょう」
グランバザールへ入ると、屋根の下に通路が何本も伸びていました。織物、革製品、金銀細工、香辛料、菓子、陶器、宝石、金属製品。店先の商品が通路へ迫り、その間を人が絶えず行き来しています。
入口から少し入ったところで、オリビアが振り返りました。
「帰るときは、ここに戻ろう」
「分かりました」
「じゃあ、見てきます」
チャトラが最初に人混みへ入りました。
「私も」
タマが別の通路へ向かいます。
ミミは布屋の並ぶ方を見ていました。
「私はこっち」
「気をつけてね」
「はい」
3人の小さな背中が、それぞれ違う通路へ消えました。
ベラミラ先生は、もう金属製品の店を見ています。
「先生はこちらなんですね」
「この辺りは工具もありそうです」
「では、行きましょう」
2人も歩き始めました。
*
帝国側の接触役は、すでにグランバザールへ入っていました。
「3人が分かれました」
「女王陛下は」
「研究者の女性と一緒です。金属製品の通りへ向かっています」
「近づきすぎないでください。自然に声を掛けられる位置まで回りましょう」
「承知しました」
市場の中では、足の速さより先回りの方が大切です。ところが、最初に接触役の1人を見つけたのはチャトラでした。香辛料の店で小さな包みを見ていたチャトラが通路の向こうを見ると、昨日まで見たことのない身なりの良い男が、店より人の顔を見ています。目が合いました。
「あ」
チャトラは買おうとしていた包みを店の人へ渡しました。
「これください」
代金を払い、包みを受け取ると、男がこちらへ歩き出しました。チャトラも歩き出し、少しだけ足を速めます。
男も少し早くなり、チャトラは角を曲がりました。
男が同じ角を曲がったとき、チャトラの姿はもう消えていました。
「……速いな」
細い横道の先で、チャトラは1度だけ後ろを見て、別の通りへ抜けました。
*
ミミは布を見ていました。
「これ、触ってもいいですか」
「どうぞ」
店の人が広げた布を指先で確かめます。
「柔らかい」
「それ、好きそう」
隣から声がしました。
「タマ」
「向こうのお店から見えたから来た」
2人で布を見ていると、通路の向こうから別の接触役が現れました。
タマが先に気づきました。
「ミミ」
「うん」
それだけで通じました。ミミは選んだ布を買い、タマも小さな金属飾りを1つ買います。店を出ると、接触役が近づいてきました。
2人は走りました。
「待ってください!」
声が後ろから来ます。
待ちません。
2人とも小柄です。人と人の間を抜け、荷物を運ぶ男の横を通り、細い通路へ入ります。
追う側が同じ場所へ入ったときには、ミミとタマは次の通りへ出ていました。
「こっち」
「うん」
また走ります。
少し先でチャトラが菓子を食べていました。
「あ、いた」
「2人も見つかった?」
「見つかった」
「私も」
3人は顔を見合わせました。
通路の向こうから、また1人来ます。
「じゃあ、またあとで」
「うん」
3人が三方向へ散りました。
*
オリビアは店先の鉢植えから、その様子を聞いていました。
「3人とも楽しそう」
「何をしているんです?」
ベラミラ先生は工具を手に取ったままです。
「走っています」
「市場の中を?」
「はい」
「ぶつからないようにしてほしいですね」
「そこは大丈夫そうです」
先生は手にしていた工具へ視線を戻しました。
「これ、刃の付け方が少し違います」
「買っておきますか?」
「1本ほしいです」
オリビアが代金を払っている間に、鉢植えからまた知らせが来ました。接触役がこちらの通りへ回ってきています。オリビアは入口を見ました。
「先生、そのままで大丈夫です」
「はい」
前に丘の上町の冒険者ギルドで使ったのと同じように、オリビアは、周囲の空気の可視光線に対する屈折率を変えました。
今回は隣にいるベラミラ先生まで範囲へ入れます。処理するのは通路側から見える方向だけです。2人のいる場所へ、その向こうの棚が続いて見えるように光を曲げました。
店の中からは、オリビアもベラミラ先生も普通に見えています。
「来ました?」
「もう店の前です」
接触役が入口の前で足を止め、店内を見ました。店主の向こうには棚があり、工具が並んでいます。探している2人の姿だけが見えません。
「こちらではないようです」
男は通路へ戻りました。
ベラミラ先生が手元の工具を持ち上げます。
「これは買います」
「はい」
オリビアは光を元へ戻しました。
*
しばらくすると、5人は最初に決めた場所へ1人ずつ戻ってきました。
最初はミミでした。
「買えた?」
「はい。布」
次にタマが来ました。
「これ買いました」
小さな金属飾りを見せます。
チャトラは最後に戻ってきました。
「お菓子、まだあります」
「食べながら戻ってきたんだ」
「おいしかったので」
ベラミラ先生も工具の包みを持っています。
「先生も買ったんですね」
「ええ。明日見ても、たぶん欲しくなるので」
「では、出ましょうか」
5人はグランバザールの東側へ向かい、ヌールオスマニエ・ジャミーに近い出口から外へ出ました。帝国側が出口を確認したころには、もう坂を下っています。
*
次に入ったのはエジプシャンバザールです。
こちらでは香辛料、乾物、菓子、果物が目立ちます。
「匂いが全然違う」
ミミが鼻を動かしました。
「さっきより食べ物が多いからかな」
チャトラは干した果物を見ています。
「これ、味見していいそうです」
「じゃあ1つ」
タマも横から手を出しました。
「私も」
オリビアは香辛料をいくつか買いました。
ベラミラ先生は赤い唐辛子を見て、少しうれしそうです。
「先生、それも買っておきますか?」
「お願いします」
「かなり辛いものですよ」
「だからです」
オリビアは1袋追加しました。市場を抜けてシルケジ寄りの通りへ出ると、大きな菓子店があり、店先の窓には丸いケーキや焼き菓子、蜜を使った菓子が何段にも並んでいます。オリビアが足を止めました。
「ここ、入る」
「ケーキですか」
タマが言いました。
「うん」
店の中で、オリビアは丸いケーキを1つずつ見ていきました。
どれも大きめです。前世の日本なら、菓子店が12等分して1切れずつ売るようなホールの大きさで、高さもあります。ナッツをたっぷり使ったもの、クリームを厚く重ねたもの、蜜を使ったものが並んでいました。
「これと、これ。こっちも」
店員が包み始めます。
「まだあります」
「うん。これも」
チャトラが数え始めました。
「10個です」
「まだ半分くらい」
「半分?」
ミミが振り返ります。
結局、ホールのケーキを21個買いました。
「全部持って帰るんですか」
「1つはここで食べよう。残りは収納に入るから」
ナッツをたっぷり使った1台を12等分します。チャトラ、タマ、ミミは3切れずつ、オリビアは1切れ、ベラミラ先生は2切れ取りました。
「大きいのに、なくなりました」
タマが空になった台紙を見ます。
「3人ともよく食べたね」
「歩きましたから」
チャトラが答え、ミミもうなずきました。
代金を払い、残った20個の包みをオリビアは順に収納へ入れます。
店員は、積み上がっていた箱が次々消えていくのを黙って見ていました。
「これで終わり?」
チャトラが聞きました。
「今日はね」
「今日は、なんですね」
*
5人はそのままエミニョニュの水辺へ出ました。渡し船や荷船が行き交い、桟橋には人が絶えません。オリビアは岸から少し離れた水面を見ました。
「ここなら出せる」
「またあの船ですね」
チャトラが言いました。
「うん」
水面の上へ白い船体が現れました。
Lexus LY 650です。
オリビアは重力魔法で船体を支え、ゆっくり海面へ下ろしました。船底が水へ入り、喫水まで沈んだところで支えを戻します。
桟橋にいた人が一斉にこちらを見ました。
「乗ろう」
5人が乗り込みます。
係留索を取る前に、タマが隣を指さしました。
「あれ、魚です」
小さな船で鯖をさばき、焼いて、パンへ挟んで売っています。頭と中骨を外した半身が鉄板の上で焼かれ、皮にはところどころ焦げ目がついていました。パンからはみ出すくらい大きな半身もあります。
さばいたあとのアラや骨を船員が海へ放ると、すぐに海鳥が降り、海面にも魚が集まりました。浮いたまま残るものはほとんどありません。
少し離れた別の売り船では、形のそろった鯖のフィレを焼いています。挟む野菜も店ごとに違い、玉ねぎと香りの強い青菜を使う店、青唐辛子を入れる店、赤いソースを添える店もありました。
チャトラも身を乗り出しました。
「食べたいです」
「じゃあ寄ろう」
LY 650をゆっくり横へ寄せました。
白い大型艇と、小さな売り船が並びます。
「5つください」
焼いた鯖の半身と玉ねぎ、青菜を挟んだパンが、船から船へ渡されました。
ミミがすぐに1口食べます。
「おいしい」
チャトラも食べました。
「私も好きです」
タマもうなずいています。
オリビアは3人を見ました。
「3人とも魚、好きなんだ」
「好きですよ」
「私も」
「私もです」
「みんな同じだ」
チャトラがオリビアを見ます。
「今、私とタマがネコ系だからって考えました?」
「ちょっとだけ。ミミまで好きだったから面白くて」
「魚、おいしいです」
ミミは気にせず鯖サンドを食べています。
オリビアも自分の鯖サンドを食べました。
「……辛い」
青唐辛子が入っています。
もう1口食べてみました。
「やっぱり辛い」
隣にいたベラミラ先生へ差し出します。
「先生、これはいかがですか?」
「辛い方ですか」
「はい。辛い方です」
「いただきます」
先生はそのまま受け取り、1口味わいました。
「おいしいですよ」
「先生は平気なんですね」
「これくらいなら、まだ大丈夫です」
オリビアは自分用に辛くないものをもう1つ買い、さらに5個を持ち帰り用に包んでもらって収納へ入れました。
岸の方では、ようやく接触役の1人が5人を見つけました。
「いました。船です」
「どの船です?」
「あの白い船です」
「接触できます?」
「もう離れます」
LY 650は売り船から離れました。5人が鯖サンドを食べている間に、船は桟橋の列を抜け、半島の先へ向かいます。




