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第3章 帝都の湾


第3章 帝都の湾



 皇帝は、丘の上に建つ宮殿の窓から細長い湾を見下ろしていました。


 帝都の港の沖では、何隻もの軍艦が公試運航を続けています。並んでいるのは、東方戦役より前から帝国海軍にいた船体を引き上げ、浸水したところを直し、倒れたマストを立て、新しい索具と帆を取り付けて、航海できる状態まで戻した艦です。


 あの一連の被害では、麻、木綿、シュロなどがまとめて失われました。帆も索具もなくなり、船板の継ぎ目へ詰めてあった材料まで消えたため、軍艦の多くが浸水し、浅瀬へ寄せられたり、半ば沈んだ状態で残されたりしました。


 港の魔法が解除されたあと、帝国海軍は保管していた予備品と同型艦の図面を使い、以前から増産していた部材も投入して修理を一気に進めました。


 帆と索具の復旧に加えて、船体を持ち上げたり入渠させたりした艦では、水線下まで点検が進みました。船板の傷みが見つかれば補修し、継ぎ目を詰め直し、ついでにフナクイムシの食害も調べました。被害を受けた部分は削り、必要な板は交換し、船底まで手を入れています。


 その結果、妙なことが起きました。


 帝国海軍のかなりの数の軍艦で、大規模な整備の時期が一度に揃ってしまったのです。


 甲板では水兵たちも、その副作用を歓迎していました。古びていたハンモックが新しくなり、寝具のリネン類も更新され、日常的に使う布製品のかなりの部分が新品へ替わっています。船体は以前から使ってきた軍艦でも、乗り込んだ水兵から見れば、寝床も帆も索具も新しくなって戻ってきた船でした。


 湾の中央を走る一隻が、風を受けて大きく帆を膨らませます。


 皇帝は望遠鏡を目に当てました。


 新しい帆は、遠くから見ても驚くほど白く見えます。


「ずいぶん白く見えるな」


 皇帝が言いました。


 そばにいた海軍司令長官が、同じ艦を見ました。


「ほぼ全部、新しく張った帆です。索具もほとんど張り直しました。船底まで開けた艦では、フナクイムシの処置も終えています。水兵には、ハンモックまで新しくなったと好評です」


 皇帝は望遠鏡を下ろしました。


「あれだけひどい目に遭ったのに、水兵には前より評判がいいのか」


 もう一人、造船所と工廠を担当する高級将官が答えました。


「寝具やリネン類まで更新されましたから。十四隻を除く艦は帝国へ戻り、その多くが順に海へ復帰しています。船体を一から造らずに済んだことも大きいです」


 木造軍艦を何十隻も船体から造り直せば、必要になる木材は莫大です。帝国は何百年も海軍用材を必要としてきましたが、その伐採が森林と水源へ与えた影響も古くから抱えています。


 約四百年前には、黒海側の広大な森を預かっていたハイエルフが、海軍向けの伐採量が増え、雨水を蓄えて沢や地下水を保つ涵養林まで減っていくのを見て、領地を帝国へ返しました。その人物は帝国を離れ、長い旅の末、現在は東の大国で侯爵になっています。


 その席は四百年近く空いたままです。旧領は皇帝直轄領となり、森林を長い時間で守る領主がいなくなったあと、海軍用材を求める伐採は必要に応じて続けられてきました。


 今回、残存する船体を使って艦隊を復旧できたため、新造のために森林へかける圧力はかなり抑えられています。


 皇帝はもう一度、湾へ望遠鏡を向けました。


 白い帆が、また一枚開きました。


 気づけば、皇帝の口元が少し緩んでいます。


「陛下、今日はずいぶんご機嫌ですね」


 海軍司令長官が、湾を見たまま言いました。


「そんなに顔に出ているか」


「はい。白い帆が増えるたびに、望遠鏡をお上げになっています」


 皇帝はもう一度、湾の軍艦を見ました。


「それは仕方がないだろう。あれだけ沈みかけた船が、また自分の帆で走っている。見ていて悪い気はしない」


 半ば沈んでいた軍艦がもう一度走り、その帆が以前より白い。それだけでも、ここ数か月の騒ぎがようやく後ろへ遠ざかり始めたように見えます。


 向こうの大陸の問題も、同じように落ち着きつつありました。


 発端は、南北の国との戦いが終わったあと、東の大国が国境線を明確にする方針を示したことでした。それまで租借地だった港と周辺の必要な土地を、帝国の軍事征服ではなく、東の大国の仲介によって正式な帝国領として整理することになりました。


 帝国には似たような海外領や飛び地の前例があります。行政官たちは、既存の制度を比較しながら、現地の街を本国制度へどこまで組み込むか、複数の領域を一つの海外行政区としてまとめるか、自治をどの程度残すかを実務者の間で詰めていました。議論は大枠を越え、条文と管轄を整える段階へ入っています。


 海軍は十四隻を除く艦艇を取り戻し、戻った艦はまとめて大修理を受けました。向こうの大陸では、東の大国の方針と仲介によって、帝国領の境界まで正式に認められています。


 最初の経緯だけを思えば、帝国にとって大失敗でした。


 ところが結果を並べると、どうにも奇妙です。


「こうして見ると、結局かなりの数が戻ったな」


 皇帝が言いました。


「艦隊については、そう申し上げてよいところまで来ました。ただ、全部が同じ時期に大修理を受けたので、今後の整備計画では少々困ります」


 海軍司令長官は慎重に答えます。


 皇帝は小さく笑いました。


「整備の時期まで揃ってしまったのか。次からは順番に休ませないと、また一度に造船所へ入ることになるな」


「はい。次の定期整備から意図して時期をずらしていきます」


 ちょうどそのとき、港へ一隻の商船が入ってきました。


 細身の船体に大きめの帆を張った、高速のスループ型商船です。向こうの大陸と帝国本国を結ぶ船の中でも足が速く、急ぎの書簡や値の高い荷物を運ぶことがあります。


 その船は、オリビアたちが出発するより前、まだ話が確定していない段階で向こうの大陸を出ていました。


 しばらくして、商船が持ち帰った文書が宮殿へ上がってきます。


 実務側近が文書を読み、皇帝へ差し出しました。


「向こうの大陸から戻った商船が、気になる情報を持ち帰りました。ただ、まだ確報ではありません」


「それなら、まず内容を聞こう」


「マリア・サロメア・スクウォドフスカ陛下が、帝国へ来られるかもしれないとのことです」


 それは、普段「オリビア」と呼ばれている彼女の、人間にも発音できるように寄せた本名でした。


 本来のエルフ語名は、

 ^~=+::^~ ~=^^+_=/~ ::^~=+~^=

 と記されます。エルフには名前として読めても、人間の耳では音をうまく拾えず、口の形や発音の仕組みも違うため、そのまま繰り返すことができません。そこで人間社会では「マリア・サロメア・スクウォドフスカ」という形が使われ、日常ではさらに「オリビア」という通称が広く使われています。


 スクウォドフスカはエルフ国の王家を示す家名です。帝国の宮廷へ上げる正式な報告でその名が使われれば、それだけで王族についての情報だと分かります。


 皇帝は文書を受け取り、しばらく黙って読みました。頭をよぎったのは、北の租借地で船を失ったときのことと、本国の軍港まで同じ現象が広がったときのことです。反射的には、また何か起きるのかと思いました。


 けれども今回は、条約後の処理が進み、東の大国との関係も平穏です。皇帝のところまで届いている報告を見ても、オリビアの機嫌を損ねるような事件は起きていませんでした。


「念のため確認するが、条約のあと、こちらから東の大国へ問題になるようなことはしていないな」


「はい。外交でも現地行政でも、陛下へ報告すべき問題は起きていません」


「なら、来訪と報復を最初から結びつけるのはやめよう。目的も分からないうちから騒いでも仕方がない。続報を待つ」


「承知しました。向こうの大陸から入る情報を続けて確認します」


 皇帝は窓の外へ目を向けました。湾では、白い帆を張った軍艦が公試運航を続けています。


 マリア・サロメア・スクウォドフスカ陛下が帝国へ来るかもしれない。分かったのは、そこまででした。


 その日、来訪の目的までは分かりませんでした。



          *

挿絵(By みてみん)


 数日後、答えの一部だけは、帝国の海からやってきました。


 最初に巨大な灰色の船を見たのは、ダーダネルス海峡沿岸の見張りでした。


 見張りが目を疑ったのは、帆を一本も持たない巨大船が、自力で進み、煙突から煙を出しながら海峡を北へ抜けていく姿でした。帝国海軍のどの軍艦よりも大きく、船体の前後には巨大な砲塔が載っています。


 沿岸から報告が送られましたが、巨大な船の方も進み続けました。


 ダーダネルス海峡を抜け、マルマラ海へ入ります。


 そのままマルマラ海を横切り、帝都へ近づきました。


 丘の上の宮殿から海を見ていた皇帝は、報告を待つまでもなく、その船を自分の目で見ることになりました。


「あの船が、そうなのか」


 皇帝は望遠鏡を上げました。巨大な灰色の船体が視野へ入ります。


 帆船が行き交う海面の中で、その船だけがまるで別の時代から切り取って置かれたように見えました。長い船首、巨大な三連装砲塔、低く続く上部構造、煙突、そして帆のない船体。


 それはミズーリでした。オリビアが前世で真珠湾に保存されていた姿を見て、実際に乗ったことのある、近代化後の戦艦です。


 ミズーリは帝都の前で速度を落として接岸することもなく、そのままボスポラス海峡へ入ります。


 海峡を北へ抜け、黒海側へ向かっていきました。


「どうやら、本当に来られたらしいな」


 皇帝が言いました。


「はい。沿岸から入った報告とも一致します。あの大きさなら、別の船と見間違えることもないでしょう」


 実務側近も、窓の外を見ています。


「帝都へ寄港する様子はないな。このまま通り過ぎるつもりだろうか」


「今のところ速度を保ったままです。そのままボスポラス海峡を抜けて、黒海へ向かうように見えます」


 皇帝はしばらく灰色の船を追っていましたが、やがて建物と海岸線の向こうへ見えなくなりました。


 数日前まで『来るかもしれない』だった話は、これで『来た』に変わりました。


 ただし、オリビアが何をしに来たのかは、まだ分かりません。



          *



 ミズーリは黒海へ入り、ヨーロッパ側の海岸を北西へ進みました。


 その先に、現在の皇帝直轄領となっている広い森林地帯があります。前世の地図でいえば、ブルガリア南東部からトルコ側へ続くストランジャの森に重なる地域です。


 約四百年前、ここを領地としていたハイエルフは、海軍用の木材を求める伐採が増え、涵養林まで痩せていくのを見て、領地を帝国へ返しました。


 それ以前、約五百年前には、前代のピュアエルフがこの地域にいました。


 帝国の古い記録には、そのころの森が今よりはるかに広く、水が豊かで、黒海側から内陸を通ってマルマラ海側へ緑が連なっていたことが残っています。


 森には『迷いの森』の魔法もかかっていました。


 長い年月の間に、その魔法は弱っています。


 夜になり、ミズーリが海岸から離れた黒海上に停泊すると、オリビアは一人で甲板へ出ました。


「少し行ってくるね」


 ベラミラ先生が聞きます。


「お一人で大丈夫ですか?」


「うん。森の仕事だから」


 チャトラたちは、もう夜の海岸が暗くなっているのを窓越しに見ました。


「どれくらいですか?」


「終わったら戻るよ」


 オリビアは飛行魔法で艦を離れました。


 黒い海面の上を越え、海岸へ入り、そのまま森へ向かいます。


 残っている森へ触れると、弱くなった魔法の広がりが分かりました。迷いの森の仕組みそのものは生きています。ただ、何百年も維持されてきた出力が落ち、ところどころ薄くなっていました。


 それ以上に目立つのは、森の外側に広がる乾燥した荒れ地です。


 木を失った斜面では雨が一度に流れ、土が乾き、水を長く蓄えられません。沢へ水を送る森が減れば、森そのものも次第に育ちにくくなります。


 オリビアは、残っている森林と、かつて森林だった乾燥荒廃地へ魔力を広げていきました。


 基準にしたのは、前代のピュアエルフがいた約五百年前の状態です。


 土に水分が戻り、失われていた植生がつながっていきます。雨を受け止め、ゆっくり地下へ送り、沢や湿地を支える涵養林が復元されます。黒海側から始まった緑は、谷と水源域をつなぎながら内陸へ伸び、マルマラ海側へ向かって広がっていきました。


 オリビアは、現在の人間の暮らしを残したまま、森だけを五百年前の状態へ近づけていきました。現在の村には空間を残します。耕している農地もそのまま残し、主要な道と生活路には十分な幅を取ります。人が使っている場所をつないだまま、その間に残る森林と乾燥した荒れ地を、古い森の姿へ戻していきました。


 もし五百年前の森をそのまま連続させれば、帝都はヨーロッパ側から迷いの森によって切り離されかねません。そこで街道と集落の回廊は明確に外し、人の移動経路を保ったまま、森林部分だけをつなげます。


 最後に、オリビアは弱っていた迷いの森の魔法へ手を入れました。


 古い魔法の範囲を確かめ、復元した森林部分へつなぎ直し、以前より出力を上げます。街道、村、農地には魔法をかけず、その外側の森へ入ろうとした者だけが、いつの間にか方向を失い、深いところへ簡単には進めないようにしました。


 これで、森林へ伐採隊を入れて奥から好きなだけ木を持ち出すことは難しくなります。


 森そのものも変わっていました。


 帝国の古い記録に書かれていた、水の多い森。沢と湿地を抱え、黒海側から内陸へ厚く続いていた森。五百年前、前代のピュアエルフがいたころの姿が、現在の村や道を避けながら戻っています。


 その変化は植物どうしの通信を通して、遠く東の大国にいるハイエルフ侯爵へも刻一刻と伝わっていました。土が再び水を抱え、森がつながり、涵養林が戻り、迷いの森の魔法がもう一度強くなっていく過程まで、植物の側から順番に届いています。


 旅人として遠い土地のことまで知る侯爵にとっても、自分が四百年前に返した旧領の変化は特別でした。帝国の政治情報が届くより早く、植物の側から、昔の森が戻っていく現在進行形の情報が届いています。


 オリビアは最後に森全体を確認しました。村と農地はそのまま使え、街道も通れます。その周囲では、森が水を蓄えながら育っていける状態へ戻っていました。


「これでいいかな」


 オリビアは小さく言いました。


 これで仕事は終わりです。オリビアは飛行魔法で黒海へ戻り、沖合のミズーリへ降りました。


「ただいま」


「お帰りなさい」


 ベラミラ先生が迎えると、チャトラが聞きました。


「終わったんですか?」


「うん。森は大丈夫」


 その説明だけで、オリビアは食堂へ向かいました。


 森が五百年前の姿へ戻ったことも、帝国の直轄領で弱っていた迷いの森の魔法を強くかけ直したことも、宮殿へ報告しに行く予定はありません。



          *



 その夜のうちに、一行はミズーリを降りました。


 オリビアが四人を飛行魔法で岸まで運び、全員が陸へ移ったことを確認します。


 沖には、巨大なミズーリが暗い海面に浮かんでいました。


 ミズーリを最初に海へ呼び出したとき、オリビアは船体が押しのける分の海水を先に収納していました。満載排水量を約五万八千ロングトンとして計算すると、船体が占める海水は約五・七万立方メートルになります。


 その水は、回収した時点でプランクトン、微小生物、卵や幼生などを取り除き、外来生物を別の海域へ持ち込まない状態で保持していました。


 オリビアがミズーリを収納します。


 巨大な船体が消えるのとほぼ同時に、保管していた約五・七万立方メートルの水を、その船体が占めていた空間へ戻しました。


 船体が消えた体積へ水をほぼ同時に戻したため、海面は急激に落ち込まず、周囲から海水がなだれ込む大きな流れも起こりませんでした。


 黒海の沖から、ミズーリの姿が消えました。


 昼間に帝都の宮殿から見えた巨大な灰色の船は、夜にはもう海上に残っていません。


 オリビアたちは、そのまま黒海沿岸の町へ向かいました。


 前世の地図なら、İğneadaのあたりです。


 予約なしのまま夜の町へ入り、海辺のホテルで空いている部屋を尋ねます。


 帝国側が巨大なミズーリの行方を探していたころ、五人はもう、普通の旅行者として一泊目の宿を決めようとしていました。

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