『オリビア』第2部 海の向こうの帝国編 第1章 海の向こうへ
『オリビア』第2部 海の向こうの帝国編
第1章 海の向こうへ
長期休暇に入り、学校の授業も休みに入りました。
オリビアの通信課程も、チャトラたちの夜間休日課程も、この期間は授業が止まります。遠くへ出かけても欠席にはならず、スクーリングの回数が足りなくなって単位が取れなくなる心配もありません。
ギルドの受付には、きなこが戻っていました。
2年間の職業学校を終えて帰ってきたばかりなので、制服の着方も帳簿の扱いも一通り分かっています。それでも、学校で習ったことと、この町のギルドが毎日どう動いているのかは同じではありません。
受付のお姉さんは、きなこの横に立っていました。
「この依頼は、こっちへ回します。討伐の報告が先に来ても、素材の査定が終わるまでは精算を閉じないでください」
「はい」
「それから、同じ依頼人が続けて来ても、前の依頼とまとめないこと。契約が別なら帳簿も別です」
きなこが真面目に書き留めています。
オリビアは少し離れたところからそれを見て、それからチャトラ、タマ、ミミの3人を振り返りました。
「ちょっと相談があるんだけど」
「何ですか?」
チャトラが先に返事をしました。
「海の向こうの帝国、行ってみない?」
3人が一度にこちらを見ました。
「海の向こうって、あの帝国ですか?」
「うん」
「行きたいです」
今度はチャトラの返事が早かった。
タマもすぐにうなずきました。
「外国まで行くんですよね。冒険みたいです」
「みたい、じゃなくて冒険じゃない?」
ミミが言ってから、自分で少し考えます。
「私たち、冒険者なのに、こういう冒険ってあまりしてませんよね」
同じことは、ほかの冒険者にも言えます。
冒険者ギルドに登録していても、実際に遠い土地を目指し、知らない町へ入り、地図の外側を歩くような冒険をしている人はごくわずかです。多くの冒険者は、町の周辺で採取をし、魔物を討伐し、商人の護衛をし、荷物を運びます。それで生活は成り立ちますし、危険を増やしてまで遠くへ行く理由もありません。
それでも、チャトラたちは冒険者になりました。
冒険者なら、一度くらい、本当に遠くへ行ってみたかった。
「学校も休みですし」
チャトラが言いました。
「うん。今回はそれもある。授業がある時期だと、みんな単位が取れなくなるからね」
受付のお姉さんが話を聞きながら笑いました。
「冒険者らしい話をしていますね」
「お姉さんも行く?」
「行きたいですけど、今回はこっちです」
そう言って、隣のきなこを見ました。
きなこも自分のことだと気づいて、姿勢を正します。
「学校を出て戻ってきたばかりですから。最初のうちは、実際の窓口を一緒に見た方がいいです」
ギルドには年次有給休暇とは別に、年に1度、連続10日間のヴァケーション休暇があります。受付のお姉さんがそれを使えば、旅行へ同行すること自体はできます。
ただ、きなこが戻った今だからこそ、最初に教えることがあります。
「次に買い付けへ行くときはお願いするかも」
「そのときは、休暇で行くか、職員の指名依頼で行くか考えます。国外での価格交渉や査定補助なら、仕事として受ける形にもできますから」
「じゃあ、今回は4人……」
そこでオリビアはベラミラ先生の顔を思い浮かべました。
「5人かな」
*
ベラミラ先生には、その日のうちに話しました。
ベラミラ先生は人間ですから、オリビアにとって数年は「あとで」にできる時間でも、先生にとって同じ意味ではありません。
新しい土地には、まだ見たことのない鉱物があるかもしれない。別の植物があるかもしれない。魔力波への反応が違う物質があるかもしれない。
見つけてから、いつか先生に教えればいい。
以前なら、そう考えたかもしれません。
今は、先生が研究に使える時間を考えるようになりました。5年後に知らせれば研究の開始は5年遅れます。10年後なら10年です。オリビアの「あとで」が、そのまま先生から失われる時間になることがあります。
「だから、最初から一緒に行きませんか?」
オリビアがそう言うと、ベラミラ先生は少し黙りました。
「旅行のお誘いというより、研究時間まで考えて誘ってくださっているんですね」
「うん。向こうで何があるか、まだ分からないから」
「分かりました。行きます」
こうして、最初の国外旅行は5人になりました。
*
海へ出る日、オリビアは沖合の水深を測りました。
呼び出す船はミズーリです。
USS Missouri、艦番号BB-63。アメリカ海軍のアイオワ級戦艦で、全長は約270m。16インチ砲を3門ずつ収めた三連装砲塔を3基、合計9門の主砲を備えています。1945年9月2日には、日本の降伏文書調印式がこの艦の甲板上で行われました。
ただし、オリビアが呼び出すミズーリは1945年当時の姿ではありません。召喚されるのは、オリビア自身が真珠湾で乗ったときの、近代化改装を受けた後の姿です。
オリビアがこの船を呼び出せるのには理由があります。前世で家族とハワイの別荘に滞在していたとき、真珠湾へ出かけ、保存艦となっていたミズーリへ実際に乗って見学したことがありました。召喚できる乗り物は、オリビア自身が乗った経験のあるものです。巨大な戦艦であっても、その条件は同じでした。
喫水線より下で船体が占める場所には、今は海水があります。全長270mを超える戦艦をその海水へ一瞬で重ねれば、船体が占める体積の水が周囲へ押し出されます。港内でそれをやれば、数万立方メートルの海水が洪水のように岸壁へ押し寄せ、小舟や港の施設だけでなく港町まで壊しかねません。
オリビアは、満載状態で呼び出すミズーリの排水量から必要な体積を計算しました。
真珠湾で乗った時点の、近代化後のミズーリの満載排水量は約5万8千ロングトン。
1ロングトンは約1.016メートルトン。海水の密度は、1立方メートルあたり約1.025メートルトンです。
5.8×10^4×1.016÷1.025。
船体が押しのける海水は、約5.7万立方メートルになります。
「……これだけの水を一気に押し出したら、そりゃ駄目だよね」
「何が駄目なんですか?」
タマが聞きました。
「船を出す場所の海水。船体と同じ場所にある分を、先にどけないといけないの」
オリビアは、喫水線より下の船体形状をそのまま型にして、そこに重なる海水を収納対象に指定しました。
収納と召喚のタイミングも重要です。約5.7万立方メートルもの海水だけを先に収納すると、水中にできた空洞へ周囲の海水が一気に流れ込みます。
そこで、船体形状に合わせた海水を収納へ移す処理と、同じ場所へ船体を召喚する処理を、ほとんど同時に行います。
「出すよ」
海面の一部が消えたように見えました。
その空間へ、灰色の巨大な船体が重なります。
船体の周囲に広がったのは小さな波だけで、巨大なミズーリは静かにそこへ浮かびました。
チャトラたちは、しばらく何も言いませんでした。
「……大きい」
ミミが最初に言いました。
近くから見ると、船というより建物です。
甲板の上にさらに建物が積み重なり、その前後に巨大な砲塔があります。一本だけでも人間の胴よりはるかに太い砲身が、三本ずつ並んでいます。
そして艦内に、淡い緑色の光が増え始めました。
現れたものは人の形をして制服を着ており、帽子をかぶっている者もいました。頭部も手も人間と同じ形なのに、顔も髪の毛もありません。皮膚の細部もなく、全身は半透明で、淡い緑色が内側からわずかに光っています。
その一人が、オリビアたちの前まで来て敬礼しました。
「乗艦を確認しました。出港準備を進めます」
普通にしゃべりました。
チャトラが一歩だけ後ろへ下がります。
「しゃべった」
緑色の乗員が両手を少し広げました。
「しゃべります」
声に、少し困ったような調子がありました。
感情は、声の調子や身振りにはっきり出ています。首を傾け、肩をすくめ、指を差し、手を広げながら話し、別の乗員同士も通路の向こうで声を掛け合っています。
「機関、出港準備」
「了解」
「前部、係留なし。周囲の小舟なし」
「確認しました」
艦橋にも、機関区画にも、見張りにも、必要な場所へ淡い緑色の乗員が散っていきます。
大型艦の運航には、操舵だけでなく、見張り、機関、通信、現在位置の確認、針路と速力の伝達、そして交代当直まで、多くの役割が必要です。
オリビアは、目の前の一人を見ました。
「少し聞いてもいい? あなたたちは、どういう存在なの?」
緑色の乗員は少し考えるように首を傾けました。
「乗員です」
「うん。それは分かるんだけど、普通の人間とは違うよね。船を呼び出したら一緒に現れたし、どういうものなのか知りたいの」
乗員は自分の半透明の手を見てから、両手を少し広げました。
「私たち自身にも、ミズーリの乗員であること以外は、うまく説明できません」
ミミが、その答えに少し笑いました。
ベラミラ先生は笑わず、興味深そうに見ています。
「召喚された人間ではないですね。魔力のまとまり方が、人間とも精霊とも少し違います」
「先生には、どういう存在に見える?」
「船と一緒に現れ、この船を動かすことを自分たちの役割として理解している。聖霊に近いのかもしれません」
オリビアはもう一度、淡く光る乗員を見ました。
「ミズーリの聖霊?」
乗員は胸へ手を当て、大きくうなずきました。
「その呼び方は悪くありません」
顔がなくても、得意そうなのが分かりました。
*
出港前に、オリビアは食材を厨房へ運びました。
収納から野菜、肉、魚、卵、穀物、調味料を出していきます。
「5人分。何日か海にいるから、足りなくなったら言って」
調理担当の緑色の乗員が、渡された物を一つずつ確認します。
「承知しました。食べられない物、苦手な物はありますか」
「私は特にない。みんなは?」
5人の希望を聞き、調理担当は帳面へ書き込んでいきました。
それを見たタマが、また不思議そうな顔をします。
「この人たち、料理もするんですね」
「します」
調理担当が答えました。
「寝るんですか?」
「寝ます」
チャトラが今度こそ驚きました。
「寝るんですか?」
「当直を交代しますので」
別の乗員が通路の向こうから、
「寝ないと勤務になりません」
と口を挟みました。
調理担当がそちらを向いて手を振りました。
「余計なことを言わなくていい」
「事実です」
顔のない二人が言い合っています。
ミミが笑い始めました。
淡い緑色で半透明でも、船の中では完全に乗組員でした。
*
艦橋へ上がると、さらに船らしくなりました。
航海艦橋には操舵位置があり、方位、速力、現在位置の情報が集まります。窓の向こうには艦首から海が広がり、そのさらに前に巨大な第1、第2砲塔が見えました。
「ここから動かすんですか?」
チャトラが聞きました。
「航海中の指揮はここですね」
当直の聖霊が答えました。
「操舵そのものを行う場所、見張り、機関、通信、測距、火器管制は別にあります。ここへ報告が集まります」
すぐ後ろで声が飛びます。
「針路、予定線上」
「機関、前進準備完了」
「左右、障害物ありません」
この船は、多くの乗員が別々の場所を見て報告し、その情報をつなげることで一隻として動いています。
艦橋の近くには、航海中に艦長が使う洋上用の艦長室もあります。
洋上用の艦長室は広い客間ではなく、航海中に何かあればすぐ艦橋へ出られる位置にあることが優先されています。
さらに艦内へ降りると、上級士官食堂がありました。長いテーブルと固定された椅子が並び、その周囲にはラウンジ、士官用の部屋、厨房があります。
別に、寄港中に艦長が使う艦長室もありました。こちらは洋上用よりずっと広く、食堂、居間、寝室、浴室までまとまっています。
「艦長室が二つあるんですか?」
ミミが聞きました。
「航海中と港にいる時で、必要な場所が違うんだと思う」
オリビアが答えると、案内していた聖霊がうなずきました。
「航海中は艦橋へすぐ出られることが重要です。寄港中は来客への対応もあります」
チャトラたちは寄港時用の艦長室をのぞき、そのあと上級士官食堂へ戻りました。
「ここで食べる?」
オリビアが聞くと、タマがテーブルの端から端まで見ました。
「5人だと、すごく余りますね」
「好きなところ使えばいいよ」
寝る場所は、空いている士官用の部屋を使うことになりました。
ミズーリの中には、人が食べ、眠り、勤務を交代しながら何日も海上で暮らすための空間があります。
淡い緑色の聖霊たちも同じでした。
勤務を終えた者が通路を歩いて居住区へ向かい、代わりの者が艦橋や機関区画へ上がってきます。
「交代します」
「引き継ぎ、異常なし」
「了解。おやすみ」
「おやすみ」
勤務を終え、眠そうに肩を回しながら居住区へ向かう者までいました。
チャトラがそれを見送ります。
「本当に寝るんですね」
「さっき本人が言ってたでしょ」
「見てもまだ不思議です」
やがて、ミズーリは沖へ向かって動き始めました。
帆を一本も持たない巨大な灰色の船体が、煙突から煙を流しながら海を進みます。
チャトラ、タマ、ミミにとって、学校の長期休暇に始まった最初の大旅行です。
そして3人が望んでいた、本当の意味での冒険も、この先に待っていました。
第二部が始まります。 毎朝7時10分頃更新です。




