第91章 オリビアはペストで亡くなった科学者を調べます。
第91章 オリビアはペストで亡くなった科学者を調べます
科学館の資料室は、展示室よりずっと静かでした。
大きな机が何列も並び、壁際には目録と索引が置かれています。研究者向けの閲覧席もあり、必要な資料は係の人が書庫から持ってきてくれます。
オリビアが申し込んだのは、展示に名前が出ていた科学者たちの詳しい伝記と、当時の疫病記録でした。
最初に届いた伝記を開きます。
若いころに測量を学び、のちに光学へ進んだこと。大学で教えながら測定器を改良し、別の地方の研究者とも手紙を交換していたこと。植物の分布にも興味を持ち、旅行中の記録を残したこと。
科学館の展示よりずっと詳しい。
そして最後に、病気についての記述があります。
『共通暦――年、当地に流行したペストに罹患し死亡』
次の人も同じでした。
研究内容は違います。こちらは流体と熱、さらに鉱山の排水設備を研究しています。ところが最後は、やはりペストです。
3冊目も、4冊目も、死因は同じでした。
オリビアは疫病史の資料も開きます。
そこには、その年に本当にペストが流行していたことが記録されていました。都市だけでなく周辺の村にも感染が広がり、交易や移動が制限された地域があります。死亡者数が増え、家財や衣類を焼いた記録も残っています。
「ペスト自体は、本当にあったんだ」
その点には疑う余地がなさそうです。
オリビアは伝記を戻して、研究歴をもう1度追いました。
伝記を追うと、光学、鉱物、植物、熱、流体、測定器まで、研究対象は驚くほど広がっています。それだけ多方面へ手を伸ばしている人たちなのに、魔力に関する記述だけが妙に薄くなっています。
科学館の展示では、初期の魔力研究者として同じ名前が出ています。ところが詳しい伝記になると、その研究は数行で終わり、途中から消えます。
この世界へ来て間もないころに読んだ神様版の世界史では、大きな権威を持つ司祭と対立した研究者や、研究費を失った研究者、大学を去った研究者が出ていました。
そのときのオリビアは、権威との対立で研究が止まったのだと思っていました。
今見ると、それだけでは説明しにくい。
対立したあとも、その研究者は別分野の成果を出しています。完全に学問から追放された人ばかりでもありません。
それなのに、魔力に関する研究だけが後世へ残っていない。
しかも、同じ時期にペストで亡くなっている。
オリビアは椅子へ深く座り直しました。
「これ、偶然なのかな」
資料室の記録だけを見れば、筋は通っています。ペストが流行し、研究者たちもその時期に亡くなり、研究が途切れた。伝記と疫病史は互いに矛盾せず、資料室からたどれる道はそこでいったん途切れました。
◇ ◇ ◇
科学館の中庭には、植栽された木が何本もあります。
オリビアは人通りの少ない場所まで歩き、1本の木のそばで立ち止まりました。
植物通信そのものは、これまでにも何度も使っています。
植物から植物へ情報を渡し、遠くへ伝える方法です。
今、オリビアが聞きたい相手はユグドラシルでした。
エルフ国の神殿で王位を継いだとき、神様からユグドラシルの根について知らされました。神殿の下で大きく分かれた根は、国境を越え、山や平原の地下を通り、海の向こうへも枝分かれしながら、世界中へ広がっています。
その根が世界中へ広がっているからこそ、遠い場所で起きたことも知っている可能性があります。
オリビアは木の幹へ手を当てました。
「ユグドラシル。少し聞きたいことがあるんだけど」
葉がわずかに揺れました。
科学館で調べた研究者たちのことを伝えます。
約200年前に魔力を測ろうとした研究があり、それが途中で途切れていること、研究者たちの没年が近く、伝記では全員がペストで亡くなったこと、そしてペスト流行そのものは実際にあったことを順に伝えました。
「この人たち、本当にペストで亡くなったの?」
少し間がありました。
それから、答えが返ってきます。
『あなたが生まれる少し前に火あぶりになっていますよ』
オリビアは幹に置いた手を動かしませんでした。
「火あぶり?」
『エルフの世界ではみんな知っています』
科学館の静かな中庭で、遠くから子どもの声が聞こえます。
オリビアは自分が聞いた言葉を、頭の中でもう1度確認しました。
「どうして、みんな知ってるのに気にしてないの?」
返事はとても静かでした。
『自分たちエルフよりも1000年早く死ぬ人間が1030年早く死んだからと言って何か変わる物でもない。それほど気にしていないのです。』
オリビアはしばらく黙りました。
エルフの時間感覚です。
自分も今はエルフです。けれど、もともとは人間として生きていました。
30年は長い。
高校生だった自分から見れば、30年は今まで生きた時間よりずっと長い。研究者にとって30年あれば、何本の論文を書けるか、何人の学生を育てられるか、どれだけ装置を改良できるか分かりません。
「誰が火あぶりにしたのですか?」
『教会です』
答えはすぐに返ってきました。
ペストの流行は実際に起きていました。
教会は感染防止を理由に村を閉鎖し、人の出入りを止めました。ペストで亡くなった人の遺体だけでなく、毛布や衣類、家にいる鼠やノミまで焼く方針を取った地域があります。
その仕組みを利用して、研究者がいた村そのものを閉鎖した。
そして火を掛けた。
研究機材も資料も、人も一緒に焼いた。
「……村ごと」
『はい』
オリビアは科学館の建物を振り返りました。
さっきまで見ていた科学史の空白が、急に形を持ちました。研究者本人だけでなく、続きへ進むための資料と道具まで一緒に消されたことで、後世の研究者が同じ地点から再開する道も失われています。
「エルフは、その教会と争わなかったの?」
『相手にしていません』
返事があまりに短かったので、オリビアはもう少し聞きました。
「人間の国では、かなり大きな力を持っていたんですよね。薬も治療も教会が押さえていたのに?」
『それは人間に対して力を持っていた、ということです』
ユグドラシルから返ってきた答えで、オリビアはようやく意味をつかみました。
病気や怪我を治したい人間にとって、薬と治療を握る教会は簡単には無視できません。治療を受けるために教会へ頼り、教会の施設へ行き、そこで働く司祭や治療師の判断を受ける。治療を独占していれば、それだけでも大きな社会的な力になります。
けれど、エルフ側では事情が違います。
ハイエルフには、薬を使わなくても回復魔法や治癒魔法を使える者がいます。大きな怪我や病気があれば、自分たちの社会の中で治療できます。教会が薬品や治療を独占していても、それはエルフを従わせる力にはなりません。
「治してもらうために、教会へ頭を下げる必要がないんだ」
『そうです』
それだけでも、人間社会から見た教会と、エルフから見た教会では重さがまるで違います。
さらに大きいのは、教会が権威の根拠として語っている歴史そのものです。
教会は救世主の言葉や行いを何百年も前の聖なる出来事として語っています。人間にとっては、文書や伝承を通してしか知ることのできない遠い時代です。
エルフにとっては、必ずしもそうではありません。
その時代に実際に生きていたエルフが、今もいます。
「……本人を知っている人までいる?」
『います。直接会った者もいますし、そのころ何が起きていたかを自分の記憶として持っている者もいます』
そこでユグドラシルの声が、少し沈みました。
『教会のいう救世主そのものが全く違いますし、聖典も完全に偽書ですね。』
いつもの淡々とした返事とは違い、悲しそうな響きがありました。
オリビアはすぐには言葉を返せませんでした。
教会が後世の解釈を少し付け足した、という程度の話ではありません。教会が現在「救世主」として語っている人物像そのものが、実際にその時代を生きた者たちの記憶と一致せず、さらに聖典そのものも、当時を伝える記録として成立していないということです。
「少し違うとか、後から話が増えたとかじゃなくて?」
『はい。全く違います。聖典も、当時の出来事を記録したものとして読むことはできません』
オリビアは木の幹へ置いた手をそのままにして考えました。
人間なら、数百年前の出来事について、後世に残った記録を読み比べて考えます。書かれた資料しか残っていなければ、その資料が宗教的な権威を持つほど、そこに書かれた内容を疑うこと自体が難しくなることもあります。
ところがエルフ社会では、その時代がまだ「昔の文書の中」へ完全には移っていません。
そのころ実際に生きていた者がいます。
直接会った者もいます。
何が起きていたかを、自分の記憶として持っている者までいます。
そういう人たちの前で、何百年もあとに成立した聖典を示して「これが当時の真実です」と言っても、記憶と食い違えばすぐに分かります。
「教会が『これが絶対に正しい歴史です』と言っても、エルフ側には『いや、そのとき生きてたけど違うよ』って言える人がいるんだ」
『そのようなことです』
そう考えると、「相手にしていない」という言葉の意味が分かりました。
教会が人間社会で持っていた2つの大きな力――治療を握っていることと、遠い過去の聖なる出来事を説明する権威――そのどちらも、エルフにはほとんど効いていません。
治療は自分たちでできます。
過去については、生き証人がいます。
だからエルフ側は、教会の教義を論破しようとして争い続けたわけでも、教会から認めてもらおうとしたわけでもありませんでした。自分たちの生活に必要な相手ではないので、教会が何を主張していても、基本的には人間社会内部の話として放っておいたのです。
オリビアはそこで、少し引っかかりました。
「でも、今回の科学者たちは人間ですよね」
『そうです』
「教会を相手にしなくてよかったのはエルフだけで、人間の研究者には教会の力がそのまま届いていた」
『そうなります』
その差が、急に重く見えました。
エルフから見れば、教会の権威は頼る必要も信じる必要もないものだった。けれど人間の研究者たちは、人間社会の中で暮らし、大学で研究し、薬や治療を教会が押さえる社会の中にいたのです。
エルフが気にしなかったことと、人間側で何も起きていなかったことは、同じではありません。
オリビアは木の幹へ置いていた手を、ゆっくり離しました。
知りたいことは増えています。
この事件を知っている長命者が、首都にいるかもしれません。
◇ ◇ ◇
オリビアは近くの植え込みへ視線を向け、植物通信を使いました。
相手はエンシェントエルフ侯爵です。
植物通信は遠距離でも会話できます。ただし、植物から植物へ内容が渡っていく伝言ゲームです。簡単な情報だけでなくかなり詳しい話まで伝わりますが、今回のような事件では、言葉が少しずれただけでも意味が変わります。
まずは確認します。
『約200年前、魔力を研究していた科学者たちが、ペスト流行中に教会によって焼かれた件をご存じですか』
返事は思ったより早く来ました。
『知っています』
続けて、侯爵は当時介入しなかった理由も伝えてきました。
ペストで亡くなった人の遺体は焼いた方がよい。毛布や衣類も焼いた方がよい。できれば家の鼠やノミごとの方がよい。
教会が行っていた防疫の中には、実際に必要なものが含まれていた。
そこでエルフ側が強く介入し、人間社会が「焼却する方針そのものが誤りだった」と受け取れば、ペスト対策全体が緩む危険があった。
さらに当時の魔力研究は、エルフから見ればまだ初歩の段階だった。
研究者を閉じ込めて焼くことは普通の犯罪なので、人間社会の犯罪を取り締まる組織が動くだろうと考えていた。
オリビアはそこまで聞いて、首を傾げました。
植物通信でも十分に話は伝わっています。
ただ、この先はもっと細かく聞きたい。
『今、どちらにいらっしゃいますか』
返事が来ました。
『首都のタウンハウスです』
「近い」
科学館から約10kmです。
『直接うかがってもいいですか。詳しく確認したいです』
『もちろん。お待ちしています』
オリビアは科学館へ戻り、閲覧した資料を返しました。
チャトラたちとは、夜になればそれぞれホテルへ戻る約束です。オリビアはその約束どおり、夕食までにホテルへ戻るつもりでいました。
外へ出ると、午後の首都はまだ明るく、人通りも多いままでした。
オリビアは約10km先の侯爵のタウンハウスへ向かいました。




