第9章 オリビアは鹿の魔物を狩ります。
第9章 オリビアは鹿の魔物を狩ります
冒険者ギルドを出たオリビアは、受付のお姉さんにもらった地図を確認しながら町の外へ向かいます。
鹿の魔物が頻繁に出る地域までは約4kmです。
4kmは歩けばそれなりの距離ですが、自転車ならすぐです。
建物が少なくなり、町の人にいきなり見られて驚かせる心配がなくなったところで、オリビアは前世に通学で使っていたマウンテンバイクを召喚しました。
「タロン」
出てきたのは、毎日のように学校へ乗っていったGIANT TALONです。
通学用なので、盗難されたときのことを考えて、あまり高価すぎる自転車にはしていませんでした。サドルは長時間の通学でも使いやすい女性向けの物へ交換してあります。
ところが、今の身体で横に立つと少し変です。
「小さい」
エルフの身体になって身長が伸びたので、前世の自分に合わせたフレームでは微妙に小さくなっています。
サドルの高さだけなら工具を使わずに変えられます。それでもフレームそのものの長さは変わりませんし、ハンドルも近くて低めになります。
ハンドル周辺を本格的に調整しようとすれば、アーレンキーや規格の合う調整部品が要ります。この世界の町で、現代の自転車に使える工具鋼のアーレンキーやステム周辺の部品を探せるとは思えません。
「神様、これ、今の身体に合わせられませんか?」
頭の中へ、神様の声が返ってきました。
『本だって、移転先に合わせて内容まで調整したでしょう。自転車もこれからは靴や衣類と同じ扱いにするよ』
「自転車が衣類扱いなんだ」
『今の身体で使う物だからね。フレームは今の体格に合う大きさへ直しておいたよ。前より背が高いから、男の子向けのサイズに近いかな。サドルは、あなたが通学用に選んだ女性向けの物をそのまま残してあるよ』
目の前のTALONを見ると、さっきまで微妙に小さかったフレームが、今のオリビアに合う寸法になっています。
『細かく調整するときの部品と工具も収納へ入れておいたからね。坂の多い場所を走るときみたいに、サドルやハンドルの位置を自分で変えたいこともあるでしょう』
「ありがとうございます」
収納を確認すると、必要な調整用パーツとアーレンキーも増えています。
これからは自転車も靴や衣類と同じように、召喚したときの基本寸法が現在の身体へ合うよう調整されます。そのうえで、走る場所に応じた細かな位置は自分で変えられます。
オリビアはTALONへまたがります。
前世で使っていた女性向けの通学用サドルもそのままです。
ペダルを踏みます。
「エルフが自転車……シュールだなあ」
長い耳のエルフが、異世界の町外れでGIANTのマウンテンバイクをこいでいます。
自分でやっていることなのに、なろう系のアニメにこんな場面が出てきたら少し笑うかもしれません。
そこから、別の魔法を思い出しました。
「そういえば、クリーンって便利そう」
なろう系のアニメでは、身体や服の汚れを一度に落としてしまうクリーン系の魔法がよく登場していました。
昨日の光魔法と同じように、この世界で研究された仕組みを使えば、自分でも扱えるかもしれません。
汚れていない状態を基準として固定し、そこから増えた泥、汗、皮脂、血液などを不要な物として識別して除去するところまでは想像できます。
そこで疑問が出ます。
「取った汚れって、どこへ行くんだろう」
泥なら鉱物です。汗には水と塩類があり、皮脂や血液も物質です。除去したあと、それらをどこへ移してどう処理するのかまで決める必要があります。
病原体が含まれている場合は、安全な処理先まで決めておく必要があります。
「これは研究した人に頼ろう」
魔力波も人工魔石も、長い研究の積み重ねで安全な利用法が作られています。洗浄魔法にも、除去した物質をどう処理するかまで研究された方法があるはずです。
今は狩場へ向かっている途中です。新しい魔法の実験は帰ってから本を開いて行うことにしました。
道は町から離れるにつれて荒くなります。
土の部分が増え、轍や小石もあります。
「ロードバイクにしなくてよかった」
通学用にTALONを選んだときは、こんな場所を走ることになるとは思っていませんでした。それでも、狩場へ向かう今は細いタイヤのロードバイクよりずっと気楽です。
約4kmはすぐに終わりました。
オリビアは地図で示された地域へ入ると、周囲を見ながら速度を落とします。
ほどなくして、2頭の鹿らしい姿を見つけました。
「いた。つがいかな」
最初はそう思いました。
次に、周囲の木と比べて大きさを見ます。
「……大きくない?」
前世の感覚では、競走馬が400kg前後です。
目の前にいる鹿の魔物は、それよりはるかに大きく、胴も脚も太く見えます。
「どう見ても2tくらいある」
1頭で約2tなら、2頭合わせて約4tです。
依頼書に、武器や防具の破損と怪我は自己負担と書いてあった理由が急に分かってきました。
オリビアはすぐに射ちません。
200m離れて射ったとしても、相手が15秒ほどで自分のところまで来るなら、平均で毎秒13m以上です。最初の矢が致命傷になっても、身体が止まるまでの時間と慣性があります。
2射目に何本も必要になったり、十分に加速してから致命傷を与えたりすれば、倒れた2tの身体そのものが自分まで届く可能性があります。
「見つからないところから撃って、2頭目もできるだけ早く射たないと駄目だ」
ただし、つがいのもう1頭がどの方向へ動くかは、1射目を放つまで分かりません。十分に加速してから2射目を受ける可能性まで考えると、致命傷を与えたあとに残る運動を止められる頑丈な柵か障害物も欲しいところです。
大型のトラバサミなら脚を止められるかもしれません。ただし、設置したあとで別の冒険者や住民、普通の動物が踏めば大事故になります。
「それは怖い」
周囲を見ます。
地盤はかなり固そうです。
そこで、昨日の光魔法で使った範囲指定を収納魔法へ応用してみます。
鹿と自分の間に、幅1m、長さ5m、深さ0.5mの直方体を指定しました。
「収納」
地面が、その形のまま消えます。
掘り抜いた体積は2.5m³です。固い岩に近い地盤なので、取り出した直方体の質量は7tほどありそうですが、収納魔法は一度で扱えました。
その岩塊を、穴の自分側へそのまま排出します。
鹿の側から見ると、幅1m、深さ0.5mの溝があります。その向こう側には、掘り出した岩塊の高さが加わります。
こちらへ突進してくれば、溝へ0.5m下がったあと、さらに自分側の岩塊まで合わせて約1mの高低差を処理しなければなりません。
幅は1mなので、2t級の大きな鹿から見ても飛び越えられそうな寸法です。
2t級の大きな鹿から見れば、十分に飛び越えられそうに見えます。
「これなら、避けないと思う」
最初から深い落とし穴を作れば、警戒されて横へ避けられるかもしれません。今回の穴は、致命傷を受けても残る巨体の運動を最後に止めるための地形として作っています。
オリビアはTALONを収納し、自分の姿を見つけられにくい場所へ移動します。
弓と狩猟用の矢を出します。
2頭の位置を見ます。
1射目を放ちます。
矢は頸部へ命中しました。
鹿の魔物が崩れます。
「一発……」
高圧CO₂を使う狩猟用の矢は、想像していた以上に強力でした。
もう1頭が、一瞬だけ動きを止めます。
次の瞬間、こちらへ向きを変えました。
オリビアはすでに2射目をつがえています。
距離は約20mです。
200mほど離れた位置で1射目を放ってから、もうここまで詰められています。すでに十分な速度が乗っていて、このままならあと1秒少々でオリビアのところへ届きます。
すぐに2射目を放ちます。矢は首の下へ入ります。
頭部を避けました。この世界の魔物の頭蓋骨がどの程度硬いのか分からないため、確実に通せる首の下を選びます。
首の下へ入った矢で心臓は止まったように見えます。
それでも身体はすぐには止まりません。
2tほどの巨体が、そのままこちらへ進みます。
鹿の魔物は幅1mの溝を越えようとして踏み込み、そこで体勢を崩しました。
脚が溝へ落ち、巨体が前へ傾きます。
そのまま転倒し、自分側に置いた岩塊との約1mの段差へ引っ掛かって止まりました。
「……穴、作っておいてよかった」
致命傷を与えたあとでも、身体には慣性があります。
2射目が命中したことと、2tの身体がその場で停止することは別でした。
越えられそうな幅に見えるからこそ直進してきて、最後に体勢を崩してくれたのも狙いどおりです。
オリビアはしばらく2頭の動きを確認してから近づきました。
2頭とも死亡しています。
「これ、普通の人はどうやって持って帰るんだろう」
約2tが2頭なので、合わせて約4tです。
依頼の討伐証明が両耳になっていた理由がよく分かります。収納魔法がなければ、丸ごと持ち帰るだけでも大仕事です。
狩猟用の矢が作った傷口は小さく、毛皮の裂けも限られています。外へ出た血液も少量です。
本来なら食肉として早く血抜きした方がよさそうですが、ここから町までは約4kmで、ギルドへも1時間以内に着けます。現場で慣れない解体をして皮へ余計な傷を増やすより、そのまま専門の解体場へ持っていくことにしました。
昨夜考えた魔石の比較実験も行いません。
2頭とも収納へ入れますが、食材として自動時間停止されないよう、今回は明示的に時間を進める設定へ切り替えます。
これならギルドへ戻るまで、死亡後の魔力組織が働き、魔法形成核を中心とした魔石の成長も続きます。
最後に7tほどの岩塊をもう一度収納し、掘り抜いた場所へ戻します。
危険な穴を残したままにすれば、他の冒険者や動物が落ちるかもしれません。
「今日はもう帰ろう」
ここは鹿の魔物が頻繁に出る地域です。
さらに怖い魔物が現れる前に離れた方がいいに決まっています。
オリビアはTALONを出し、町へ向けてペダルを踏みました。
約4tの鹿は収納の中なので、自転車には何の荷重も増えていません。
4kmほどの道をさっさと戻り、町の門が見えてきたところでTALONを収納します。
朝に徒歩で出ていったオリビアが、午前中のうちにまた何も背負わず歩いて戻ってきたので、門番さんも気づきました。
「おや、もう戻ったのかい。鹿はどうだった?」
「2頭仕留めました。これからギルドへ行ってきます」
「2頭か。そりゃ早かったな」
オリビアは門番さんへ挨拶をして、そのまま徒歩で門を通りました。討伐証明は1頭につき両耳です。門番さんには、2頭分の両耳4つだけを持ち帰り、残りは狩場に置いてきたように見えるでしょう。
オリビアは収納について触れませんでした。勤務中の門番さんへ余分な情報を背負わせれば、あとで出入りした人について説明を求められたとき、門番さんの面倒を増やしてしまいます。
そのまま冒険者ギルドへ向かいます。
朝に依頼を受けて出てきたばかりですが、もう鹿の魔物を2頭、丸ごと持って帰ってきました。




