第89章 オリビアは海の歴史を見ます。
第89章 オリビアは海の歴史を見ます
特別展示館の入口で、チャトラ、タマ、ミミは朝に作った年パスを見せました。オリビアも賛助会員証を出し、四人はそのまま中へ入ります。
最初に大きな海図がありました。
現在の国境に加えて、古い交易路や港、海軍が行動した範囲まで重ねて描かれています。
チャトラは海図の端から端まで目で追い、少し意外そうな顔をしました。
「帝国から始まるんじゃないんだ」
展示の最初に置かれていたのは、旧ヘタレ国の資料でした。
今では東の大国へ統合された小さな王国ですが、海に面し、港を持ち、何百年も沿岸交易と海運を続けてきた国です。
「学校だと、最後の方の話ばっかりだったよね」
タマが古い帳簿を見ました。
「戦争に負けて、領土を取られて、借金が増えたところ」
「その前も国はずっとあったんだから、海の歴史も長いんだね」
チャトラが答えます。
ケースの中には、共通暦1468年の港湾税簿が開かれていました。入港した船の種類、積んでいた荷、徴収した税が細かな字で記されています。
その先には1597年の軍船勤務規則があり、乗員の当直、食料の配分、船内での火の扱いまで決められていました。
そして一つ先の広い場所に、古い艦砲が据えられています。
「大きい」
ミミが見上げました。
共通暦1681年製の18ポンド砲です。
砲身には使い込まれた跡が残り、砲架の一部は後世に補修されています。床には、発砲したときに砲がどこまで後退するかを示す線が引かれていました。
「こんなに動くんだ」
タマが線の端まで歩きました。
「後ろに人がいたら危ないね」
「だから綱で止めるんだ」
チャトラは砲の横へ回り、太い索具の位置を見ました。
横の図には、装填する人、弾を運ぶ人、砲を戻す人がどこへ立つかまで描かれています。
「学校では『旧王国海軍』で終わってたけど、砲一門でも人がかなりいる」
「船の中でこれを何十門も動かすなら、通る場所まで決めないとぶつかるね」
タマは、砲そのものより周囲の空間を見始めました。
オリビアも同じところを見ました。
大砲は一つの物ですが、実際に使うには弾、火薬、索具、工具、人の動線まで必要です。実物の大きさが分かると、教科書の断面図が急に現実の空間になります。
◇ ◇ ◇
次の部屋は、軍船の中で人がどう暮らしたかを見せる展示でした。
天井から吊り寝床が下がり、その下には食事用の器、水樽、乾燥食品を入れた箱があります。壁際には滑車や索具、修理工具が並び、航海日誌と船医の道具も置かれていました。
中央には、実物の寸法を測って作った砲甲板の一部が再現されています。
四人で中へ入ると、外から見たより狭く感じました。
「ここで寝るの?」
ミミが吊り寝床を見上げました。
「寝るときはこれを広げるみたい」
チャトラが説明を読みます。
「朝になったら畳んで片づけるんだって。そうしないと作業する場所がなくなる」
「砲もここにあるしね」
タマは復元された砲門の位置へ立ちました。
寝る場所、戦う場所、食料を運ぶ場所が、ほとんど同じ甲板へ重なっています。水も食料も弾も修理道具も、長い航海の間は全部船の中へ収めなければなりません。
「何か月もここで暮らすなら、物を置く場所を決めておかないとすぐ動けなくなるね」
「だから勤務表まで細かいんだ」
チャトラが航海日誌の横にある当直表を見ました。
帆の操作、見張り、甲板清掃、砲の訓練、修理。船の一日はかなり細かく区切られています。
オリビアは説明をするより、三人が自分で気づいていくのを横で聞いていました。
◇ ◇ ◇
復元甲板を出た先で、さらに大きな砲が現れました。
旧ヘタレ国の18ポンド砲より明らかに太く、砲身も長い。
説明札には『海の向こうの帝国海軍 32ポンド艦砲 共通暦1812年、東方戦役鹵獲艦より移管』とあります。
「これ、あの船のだ」
チャトラが言いました。
オリビアも砲身を見上げます。
「そうみたい」
横には、実際に使う32ポンドの鉄球が一つ展示されていました。本物には触れられませんが、同じ大きさの軽い模型が置かれています。
タマが模型を両手で持ちました。
「見た目は同じなのに、こっちは軽い」
「本物は持ち上げる体験にしたら危ないだろうね」
チャトラは本物の鉄球を見ました。
断面図には、砲身の奥へ装薬を入れ、詰め物をし、弾を入れて発射する順序が描かれています。反動を受ける綱と滑車も実物でした。
「砲身だけで数トンだって」
ミミが表示を読み上げます。
「それが撃つたびに後ろへ動く」
タマはさっき見た18ポンド砲の床線を思い出したようです。
「動かないように完全に固定するんじゃなくて、決めたところまで下がらせるんだね」
「そうしないと、砲か船の方が壊れるんだと思う」
チャトラが答えました。
三人とも、学校で知っていた『艦砲』という言葉を、目の前の大きさへ置き換えています。
オリビアはそれを見ながら、自分も日本で博物館へ行ったとき、写真で知っていた物の大きさに驚いたことを思い出しました。
◇ ◇ ◇
展示はそこで、急に現在に近づきました。
壁の年表に共通暦1808年が現れ、旧ヘタレ国が東の大国へ統合された経緯がまとめられています。
末期の旧王国は何度も戦争に負け、領土を失い、借金を重ね、爵位まで売っていました。南と北に占領されていた旧王国領は東の大国の仲介で返還され、その翌日、旧王国は東の大国へ統合されます。
その結果、長く内陸大国だった東の大国は、初めて海岸線と港を持ちました。
「ここから私たちも知ってる話だね」
チャトラが年表を追いました。
帝国側は、旧ヘタレ国へ何度も行ってきた懲罰遠征の発想を、そのまま新しい相手へ持ち込みました。港を艦砲射撃し、上陸軍で圧力をかければ、以前のように貢納を再開させられると考えたのです。
ところが、その港の背後にある国家は、すでに東の大国へ変わっていました。
展示は、その判断を『旧王国時代の対処法を、新しい国家関係へ誤って適用した』と説明していました。
オリビアは教科書の同じ部分を開きます。
「こっちは、もう少し分けて書いてある」
「何が違うの?」
タマがのぞきました。
「帝国が東の大国の陸軍力を知らなかったわけじゃないって書いてある。それでも昔の作戦計画を流用したことと、海から港へ圧力をかければ政治的には折れるって考えたことを分けてる」
「博物館はまとめて『相手を取り違えた』なんだ」
「うん。私は、単純な情報不足というより、前に使ってたやり方が残ってた方が大きい気がする。相手が強いことは知ってても、『港を叩けば政治的に困る』って部分だけは前と同じだと思ったんじゃないかな」
「前にうまくいった方法だから?」
「たぶん。書類も訓練も担当する人の考え方も残るから、ゼロから別の作戦を作るより、前の計画を直して使う方が早いでしょう」
「でも、今度は港の後ろが違った」
「そこだと思う」
オリビアは展示札をもう一度読みました。
博物館が間違っているとは思いません。複数ある原因のうち、どこを強く見せるかが違っています。
その違いを考える方が、やはり面白いです。
◇ ◇ ◇
年表の先には、最初に来航した十隻の戦列艦についての記録がありました。
その二か月後には、さらに二十隻が来ています。
合わせて三十隻になります。
地図の横には、各艦がどこで航行能力を失い、どこへ移されたかが一本ずつ線で示されていました。
「三十隻って、図にするとすごいね」
ミミが端から数えています。
少し先には、帝国側が事情を確認するために送った三隻の記録もありました。忠誠度の高い乗員を集めて来航し、そのうち後方の二隻が実体弾の集中砲撃を受け、船体の形を保てないほど破壊されています。先頭艦は帰還し、沈んだ二隻の乗員も相当数が救助されました。
帝国側は当初、先の三十隻が一斉に裏切って引き渡された可能性を疑っていましたが、帰還した艦の報告と買い戻した艦の調査で、その見方を撤回しています。
展示の中央には、鹵獲艦から外した索具や滑車、帆布、金具が並んでいました。
別のケースには火薬と砲弾の管理記録があり、その横に硫黄の試料まで置かれています。
オリビアは、その硫黄だけ少し長く見ました。
「ここ、資料がずいぶん細かい」
タマが言いました。
「軍から実物も記録も来たんだろうね」
オリビアは普通に答えました。
説明文には、三十隻を航行不能にした人物の名前はありません。
『特殊な魔法により航行能力を失った』とだけ書かれています。
オリビアには、そのくらいがちょうどよく思えました。
◇ ◇ ◇
鹵獲した三十隻のうち、東の大国が自国で残したのは研究・訓練用の約十隻でした。
展示では、戦闘のあとに行われた処理まで続いていました。
東の大国には、もともと外洋海軍も遠洋航海をする商船団もありません。船が手に入っただけでは、それを動かす乗員も、維持する仕組みも急には揃いません。
そこで約二十隻を帝国へ売却し、約十隻を研究と訓練のために残しています。
売却価格の計算表も展示されていました。建造時の価格と経過年数を使い、二十年以上たった艦は船価をゼロとして扱っています。
「古い船は無料で返したのもあるんだ」
チャトラが計算表を見ました。
「船としての値段をそう決めたんだね」
その横には、捕虜の扱いについて別の説明があります。
艦船の売却と捕虜の帰国は別会計で、人そのものに船や武器と同じ売却価格を付けません。
「船は物だから値段を付ける。でも人は別」
ミミが読みました。
「戦争の展示だから、そこを一緒にしないように書いてるんだろうね」
タマが答えました。
オリビアも説明の分け方を見ました。
大砲や船具だけを並べれば、戦争は物の話に見えます。けれど、実際にはその船に人が乗り、戦いのあとにも処理が続きます。
博物館は、そこまで含めて一つの出来事として見せていました。
◇ ◇ ◇
最後の大きな部屋では、海図がもう一度広げられていました。
今度は、旧ヘタレ国、南の国、北の国、海の向こうの帝国、それに東の大国が同じ図の上に置かれています。
同じ海へ接していても、国ごとに使い方が違います。
旧ヘタレ国は、港と沿岸交易を生活の基盤にしてきた小さな海洋国家でした。南と北も自国の港を持っていますが、帝国の海軍力に押され、長期の租界を受け入れています。帝国は遠洋海軍を使い、海を越えて租界や航路を維持してきました。
そして東の大国は、1808年まで海岸線そのものを持っていませんでした。
「同じ海でも、全然違うね」
タマが比較図を見ました。
「旧ヘタレ国は海がないと困る。帝国は海があるから遠くまで力を出せる。東の大国は海がなくても大国になってた」
チャトラが指で三つの地域を追いました。
「帝国が旧ヘタレ国と同じつもりで港を攻めたら、そりゃ違うか」
「そういう見方もできるね」
オリビアは頷きました。
朝から見てきたものが、頭の中で少しずつつながっていきます。
市場の重さをそろえた標準器。税を記した土地台帳。地方学校の名簿。百八十年前のエルフの入国記録。旧ヘタレ国の港湾税簿。船の中で使われた吊り寝床。そして帝国海軍の32ポンド砲。
教科書では別々の章や節に置かれているものが、実物として並ぶと、全部同じ世界の中で使われてきたものだと分かります。
◇ ◇ ◇
特別展示館を出たところで、ミミが窓の外を見ました。
「暗くなってきた」
チャトラが時刻を確かめます。
「もう夕方だ」
「そんなにいた?」
タマが館内図を開きました。
朝に入った本館も、歩いたのは一部だけです。考古資料の建物はまだほとんど見ていません。絵画や陶磁器、宗教美術にも大きな区画が残っています。
「一日いても、全然見切れないね」
チャトラが言いました。
「でも、今日はかなり見たよ」
オリビアは折り目の増えた館内図を見ました。
入口へ戻る途中、売店の前を通ります。
タマが足を止めました。
「ここだけ見ていい?」
「もちろん」
四人で中へ入ると、さっきの特別展の図録や展示品の絵葉書、古い地図の縮刷版、小さな模型が並んでいました。
ミミは森林調査記録を使った絵葉書を手に取り、チャトラは帝国艦砲の断面図を見ています。タマは旧ヘタレ国の沿岸航海図を縮刷した一枚を選びました。
オリビアは特別展の図録を手に取ります。
「教科書持ってるのに?」
チャトラが聞きました。
「教科書と違うところがあるから欲しいの」
「違う方がいいんだ」
「そこが面白い」
会計を済ませると、買ったものはオリビアがまとめて収納へ入れました。
外へ出ると、朝に見た建物の窓へ灯りがつき始めています。
四人は一日歩いた足で、東京の夕方の町へ戻りました。
オリビアは収納の中に増えた図録を思い出しました。
教科書を読めば、現在もっとも正確な説明は分かります。
それでも博物館へ来なければ、重りの大きさも、削って直した木札の跡も、艦砲の後ろに必要な空間も分かりませんでした。
そして、昔の人がなぜ別の解釈をしたのかも、実物と古い説明を並べて見たから考えられました。
今日一日で見たものより、まだ見ていないものの方がずっと多く残っています。
それで十分でした。




