第88章 オリビアは百八十年前の記録を見ます
第88章 オリビアは百八十年前の記録を見ます
長命種の展示室へ向かう途中に、かなり広い地図展示がありました。
壁いっぱいに掲げられているのは、現在の東の大国の全図です。
「大きい」
ミミが少し離れて見上げました。
地図の横には、東西約三千二百キロメートル、南北約二千二百キロメートルとあります。南北の緯度差も二十度弱あり、同じ国の中でも気候はかなり違います。
「学校の地図帳で見てるけど、こうして壁一面になると広いね」
チャトラが端から端まで目を動かしました。
首都は国土の中央ではなく、かなり西寄りの内陸にあります。
そこから東へ向かって、平原、盆地、山地、大河の流域がいくつも続き、国土は長く広がっていました。
展示の題名は『東の大国を構成する諸地域』です。
国土をいくつかの地域に分け、それぞれの気候、農産物、建物、衣服、交通、行政の違いを実物と一緒に見せていました。
北の地域には、長い冬に使う厚い衣服や暖房器具、保存食の容器があります。森林から得られる木材や樹脂、寒冷地の果実も紹介されていました。
少し南へ下がると、穀物を大量に扱うための道具や、灌漑に使った部品が増えます。
さらに南では、衣服が薄くなり、果樹や野菜の種類も変わっています。
「同じ国でも全然違う」
タマが展示ケースを順に見ました。
「北の方と南の方じゃ、冬の長さから違うもんね」
「緯度でこれだけ離れてたら、学校で習う地域差も大きくなるよね」
チャトラは地図の縮尺を確かめています。
オリビアも地図帳を取り出しました。
壁の地図と重ねて見ると、国の大きさ以上に目につくことがありました。
大きな川が何本も国土を横切っています。
北へ流れる大河もあります。
東へ流れる大河もあります。
南東へ流れるものもあります。
けれど、河口の印を追うと、その多くが東の大国の外に出ていました。
「ここ、川の最後だけ国が違う」
ミミが最初に気づきました。
「ほんとだ」
タマが別の川を指でたどります。
「こっちも。ずっと国内を流れてるのに、海へ出るところだけ北の国」
「南へ行く川も、最後は南の国だね」
北の国と南の国は、海岸に沿って東西へ細長く伸びています。
内陸から見ると薄い帯のようですが、その帯が海岸線と大河の河口を押さえていました。
国土の東端には、現在の極東辺境領域が描かれていました。
この地域が4年前に東の大国へ組み込まれたことで、国境は初めて海岸まで届きました。
「こんなに大きな国なのに、海まであと少しだったんだ」
チャトラが言いました。
横には、国境の変化を何枚かの地図で追う展示があります。
東の大国は、現在の首都周辺から陸続きの地域を取り込みながら広がっていました。軍を送り、占領したあとに行政をつなげる。その積み重ねが、現在の巨大な内陸領域になっています。
海岸へ向かった時期もありました。
一枚の地図では、東の大国の色が細長く伸びて港町まで達しています。
「取れてるじゃん」
タマが指しました。
その隣の地図では、色が元の位置まで戻っていました。
「こっちは戻ってる」
チャトラが一枚先を見ます。
陸上の戦いでは東の大国が優勢で、港町そのものは何度も占領しています。
ところが港の外には海があり、その先には占領していない沿岸部と別の港が残ります。そこから艦隊が回り、砲撃のあとに兵を上陸させると、東の大国側は港を手放しました。
「取るところまではできるんだ」
ミミが二枚の地図を見比べました。
「でも、海からまた来る」
「だから次の地図で戻ってるんだね」
沿岸の二国と東の大国では、国力そのものに大きな差があります。
陸軍同士なら東の大国が押し切る。展示の戦況図も、その形になっていました。
ただ、北も南も海岸に沿って細長く伸びています。港を一つ占領しても、その先の海岸と別の港が続きます。
「全部取ろうとしたら、ものすごく長いね」
タマが地図の海岸線を指で追いました。
「取った町ごとに兵を置くことになる」
チャトラも続けます。
「それで海から船が来るなら、ずっと守らないといけない」
戦争の損害をまとめた表では、港をめぐる遠征の負担が次第に大きくなっていました。
その後の地図では、海岸方向への国境の伸びが止まり、代わりに内陸側が大きく広がっています。
「方針を変えたんだ」
タマが現在の地図へ戻りました。
巨大な国土の東、北、南に、海岸を持つ国々が細長く残っています。
オリビアも地図帳と歴史地図を見比べました。
海へ届かなかった形ではなく、陸上で確実に維持できる地域を選び続けた形です。
現在の国境線には、その選択がそのまま残っていました。
◇ ◇ ◇
その先が、長命種と東の大国の関係を扱う展示室でした。
入口の大きな絵には、森と霧、高い樹木、その向こうの山並みが描かれていました。
きれいな風景画ですが、地図に使えそうな目印は意図的に避けて描かれていました。
「場所、分からないようにしてあるね」
タマが絵の横にある説明を読みました。
エルフの国の位置は現在も非公開です。国立博物館の展示も森の風景までで、正確な位置は展示対象外です。
「侯爵さんたちも、普通の地図には出ないって言ってたね」
チャトラが言いました。
「うん」
オリビアの収納には、神様が加除した正確な地図があります。エルフの国まで位置が書かれているので、そこだけ比べればオリビアの方が詳しいことになります。
博物館側は位置を把握していても、展示には出さないのでしょう。知っていることと、公に見せることは別です。
オリビアは説明を読んだまま、しばらくその違いを考えました。
◇ ◇ ◇
最初のケースには、古い入国記録が置かれていました。
共通暦1632年頃。西方森林地域から来た長命種について、当時の役所が残した記録です。
名前の横に、後世の注記が付いていました。
のちに東の大国で領地を与えられ、侯爵となったエンシェントエルフ。行政、森林管理、薬用植物の調査、長期記録の保存などに関わり、現在も存命。
その隣には肖像画があります。
四人とも同時に足を止めました。
「……この人」
チャトラが肖像を見ました。
「会ったよね」
タマも説明札へ目を移します。
「普通に話した」
ミミの耳が立ちました。
「うん。本人だね」
オリビアも笑いました。
歴史上の人物が、今も普通に歩き、話をし、食事もする。
長命種がいる世界では、本当にそういうことが起きます。
「1632年頃なら、今から百八十年くらい前だね」
チャトラが暗算しました。
「本人も百八十年くらい前に来たって言ってた」
オリビアは教科書を開きます。
こちらには、共通暦1632年と書かれていました。
「私の本は1632年」
「また『頃』が違うね」
タマが展示札の続きを読み始めます。
現存する役所の正式記録は1633年。ただし、その文書には『前年の秋から滞在』と書かれている。別の宿泊記録は年の部分が欠け、後世の本人の証言では1632年。
「これなら博物館が『頃』にするの、分かる気がする」
チャトラが言いました。
「うん。本人の話をどこまで年代確定の根拠にするかでも変わると思う」
「本人が生きてるのに?」
ミミが聞きます。
「生きてるからこそ難しいのかも。本人の記憶は大事だけど、百八十年前のことを本人が覚えているからって、それだけで展示品の年代まで全部確定させるかは別でしょう。博物館は、残ってる書類と本人の証言を分けて見せてるんじゃないかな」
「学校の教科書だと、十七世紀前半ってだけだったよ」
タマが言いました。
「じゃあ、私たちの教科書よりは博物館の方がずっと細かいね」
「そうだね」
チャトラたちは、二つの書き方があるものとしてそのまま受け取りました。
学校で使う教科書と博物館の表示が少し違うことは、ときどきあります。研究が進んだ時期や、何を基準に書いたかで表現がずれることを、三人は自然なものとして受け止めています。
オリビアも、自分の教科書の出所には触れず、展示との違いだけを見比べました。
◇ ◇ ◇
次のケースには、共通暦1641年の森林調査記録があります。
上流の森林を一度に伐りすぎると、大雨のあとに土砂が流れやすくなること。同じ斜面でも樹木の種類によって根の張り方が違うこと。薬用植物を採る場所では、翌年以降の分を残して採取すること。
東の大国の役人が、長命種から聞いた内容を書き留めた文書です。
余白には、後から本人が加えた追記がありました。
「字、きれい」
ミミが見ています。
「今も同じ字で書くのかな」
「今度会ったら、手紙でも書いてもらいたくなるね」
チャトラが笑いました。
少し先には、1656年の領地授与文書もあります。
紙面はかなり傷んでいますが、印章と署名の一部が残り、当時の行政手続きまで解説されていました。
さらに展示を進むと、今度は共通暦1792年の入国記録が出てきます。
肖像を見た瞬間、タマが笑いました。
「こっちも知ってる」
「二十年前に来たって言ってた人」
現在のハイエルフ侯爵です。
こちらは東の大国へ来てからまだ二十年ほどなので、長い年表の中ではほとんど現在に近い位置にいます。それでも国境地域の管理やエルフ側との連絡に関わる人物として、すでに史料が集められていました。
「本人たち、ここ見たことあるのかな」
チャトラが二人の肖像を振り返りました。
「エンシェントエルフ侯爵は平気そう」
「ハイエルフ侯爵は、ちょっと困った顔しそう」
タマが言うと、オリビアも同じ顔を想像して笑いました。
◇ ◇ ◇
展示室の後半には、一つの品について解釈がどう変わったかを見せる場所がありました。
中央に置かれていたのは、三本脚の大きな容器です。
昔の展示写真では『祭礼用酒器』と説明されていました。装飾が多く、最初の同型品が宗教施設の近くで見つかったためです。
ところが、その後の発掘で状況が変わりました。
地方の穀物倉庫跡から、ほぼ同じ容量の容器が何個もまとまって見つかっています。内側には穀物を出し入れした摩耗痕があり、側面には容量を示す刻印もありました。
現在の表示は『配給・納税用の標準容器として使われ、祭礼時にも転用された可能性』となっています。
オリビアは教科書を開きました。
「こっちは、行政用の標準容器って書いてある」
「博物館より強く言ってるね」
チャトラが横から見ました。
「うん。博物館は祭礼に使った可能性も残してる」
「オリビアはどう思う?」
ミミが聞きます。
オリビアは容器を見直しました。
「最初に宗教施設の近くで見つかって、装飾も多かったなら、祭礼用だと思ったのは自然だと思う。でも、同じ容量のものが穀物倉庫から何個も出て、内側に穀物の跡まであるなら、普段は行政で使ったと考える方が今は強そう。ただ、祭礼の日に別の使い方をした可能性までは消えないよね」
「最初の人たちが、変なこと考えたわけじゃないんだ」
「そのとき見えてた資料なら、私も同じこと考えたかもしれない」
オリビアは、そこが面白いと思いました。
後から答えだけを見れば、昔の説は簡単に間違いに見えます。
けれど、最初にどこから出たのか、当時どの文字まで読めたのか、何と比べられたのか、どんな測定方法があったのかを順番に見ていけば、別の枝へ進んだ理由が分かります。
展示札を採点するより、ずっと面白い見方でした。
◇ ◇ ◇
そこまで見たところで、チャトラのお腹が小さく鳴りました。
「今の聞いた?」
「聞いた」
タマが笑います。
「朝あれだけ食べたのに」
「もうかなり歩いたから」
オリビアも時計を見ました。いつの間にか昼を過ぎています。
「私も少しお腹空いてきた。でも、まだ重いものはいらないかな」
「私も軽いのでいい」
ミミも頷きました。
館内図で食事のできる場所を探すと、本館から渡り廊下で行ける場所にカフェがあります。
四人はそこへ向かいました。
カウンターの上には昼食用の軽いセットが並び、サンドイッチには飲み物が付いています。朝食を思い出すと、今はそれくらいがちょうどよさそうでした。
「これにしようかな」
チャトラがハムと野菜のサンドイッチを取りました。
タマは焼いた鶏肉、ミミはチーズと野菜を選びます。オリビアは卵と野菜のものにしました。
「朝は食べすぎたね」
チャトラが一口食べて言います。
「今になって分かった」
「朝の時点でも言ってたよ」
タマが笑いました。
飲み物を飲みながら、しばらく足を休めます。
食べ終わってカフェを出ると、渡り廊下の壁に大きな特別展のポスターが貼られていました。
帆を張った大型軍船と、砲門から突き出した大砲。その下に、現在の東方戦役までを扱うという説明があります。
「これ、今年の話まで入ってる」
タマが足を止めました。
題名は『海の向こうの帝国と海洋国家――船・砲・租界・東方戦役』。
「見たい」
チャトラが即答しました。
「ミミも」
オリビアもポスターを見上げました。
つい最近、自分たちの周りで起きたことが、もう博物館の展示になっています。
「じゃあ行ってみようか」
四人は特別展示館の方向へ歩き始めました。




