第87章 オリビアは朝食を食べすぎます。
第87章 オリビアは朝食を食べすぎます
翌朝、オリビアが目を覚ますと、腕の中にはまだチャトラがいました。
昨夜は横になってから二十秒も持たずに眠ったので、寝返りを打った記憶さえありません。チャトラも目を閉じたまま耳だけを一度動かし、それからゆっくり顔を上げました。
「おはよう」
「……おはよう。よく寝た」
「私も」
反対側のベッドでは、タマが先に起き、ミミの長い耳を避けながら布団を抜け出していました。
「チャトラ、ずっと抱かれてたの?」
「たぶん。途中の記憶ない」
「私もないよ」
オリビアが答えると、ミミも布団の中から顔を出しました。
「お腹すいた」
「昨日あれだけ食べたのに?」
「寝たから」
理屈になっているような、なっていないような返事でした。
四人で顔を洗い、着替えてから、朝食の案内に従って食堂へ下ります。
昨夜の夕食は部屋へ運ばれてきましたが、朝食は広い食堂でした。入口で部屋番号を伝えて中へ入ると、焼きたてのパンの香りに、肉や野菜を焼く匂いが重なって流れてきます。
料理は壁際の長い台に並んでいました。籠には何種類ものパンが入り、厚く切ったハム、太いソーセージ、焼いた野菜、豆と肉の煮込み、果物まであります。
その一角だけ、人が少し列を作っていました。
「何だろう」
チャトラがそちらを見ます。
近づくと、料理人の前には小さなフライパンがいくつも並んでいました。その横には卵が籠ごと置かれ、刻んだハム、チーズ、玉ねぎ、きのこ、葉野菜、香草などが小さな器に分けて並んでいます。
客が卵の数と中へ入れるものを選ぶと、その場でオムレツを焼いてくれるようです。
「これ、いいね」
オリビアが足を止めました。
「一人ずつ頼めるんだ」
タマも器を順番に見ています。
列は長くなかったので、四人はそのまま最後尾へ並びました。
前の客が卵を二個頼み、チーズときのこを指します。料理人は卵を割って手早く溶き、熱した小さなフライパンへ流しました。フライパンを傾けながら卵を広げ、まだ表面が柔らかいうちに具を載せます。柄を軽く動かし、へらも使いながら形を整えると、丸みのあるオムレツになりました。
「早い」
ミミの耳が少し前へ向きました。
「見てると自分のも決めたくなるね」
チャトラは具の器を見ながら、もう選び始めています。
順番が来ると、最初はチャトラでした。
「卵三個。ハムとチーズ、それから玉ねぎ」
「三個いくんだ」
「せっかくだから大きいのがいい」
料理人が卵を三個割ります。二個のものより明らかに量が多く、小さなフライパンいっぱいに卵が広がりました。
刻んだハムと玉ねぎが入り、その上からチーズが散らされます。表面がまだ少し柔らかいうちに折りたたまれ、厚みのあるオムレツになりました。
「大きい」
タマが笑います。
「いいでしょう」
チャトラは満足そうに皿を受け取りました。
次はタマです。
「私は卵二個。きのことチーズと、葉野菜」
「肉なし?」
「あとでハム取るから」
「なるほど」
タマのオムレツは、チャトラのものより少し薄く、切り口から緑の葉ときのこが見えました。溶けたチーズが具をまとめています。
ミミは器を一つずつ見てから決めました。
「卵二個。ハムときのこと香草」
「香草入れるんだ」
「匂いがよさそう」
焼き始めると、その通り、卵の匂いに香草の香りが混じりました。ミミは焼いている間ずっとフライパンを見ています。
最後がオリビアでした。
「卵二個で、玉ねぎ、きのこ、チーズ。あと、ハムも少しお願いします」
「結局いっぱい入れるんだ」
チャトラに言われました。
「迷ったら全部少しずつになった」
「それ、分かる」
オリビアの分も目の前で焼き上がりました。
四人はそれぞれオムレツを載せた皿を持ち、今度は長い料理台を回ります。
チャトラは太いソーセージを二本取りました。
「やっぱり二本なんだ」
「オムレツ三個だから、今日はこれで揃える」
「何が揃うの?」
「量」
「それは揃えなくていいと思う」
タマが笑いながら、自分はハムを一枚、焼いた野菜を多めに取りました。
ミミはパンを二種類選び、果物も少し皿へ載せています。オリビアも焼きたての小さなパンとソーセージ、野菜を取りました。
四人で席へ戻ると、まずオムレツを切りました。
チャトラのものは、三個分の卵の中からハムと玉ねぎがたくさん出てきます。チーズもまだ伸びました。
「これ、おいしい」
一口食べたチャトラの耳がぴんと立ちました。
「玉ねぎ、少し甘い」
「こっちもきのこが合うよ」
タマは自分の皿を少し寄せました。
四人とも具が違うので、一口ずつ交換することになりました。
「チャトラの、ほんとに肉多い」
「タマのはチーズの味が強いね」
「ミミの香草、匂いがいい」
「オリビアのは何でも入ってる」
「そこは言わないで」
同じオムレツでも、具が違うだけでかなり味が変わります。
食べながら、次に来たときは何を入れるかまで話し始めました。
「今度はチーズなしで、ハムときのこだけでもいいかも」
「私は卵三個にしてみたい」
「ミミは香草また入れる」
「私は……次は少し減らそうかな」
そう言いながら、オリビアはソーセージにも手を伸ばしていました。
「減らす人の皿じゃないよ」
タマに指摘されます。
「これはもう取った後だから」
「次の話だったんだ」
朝食はそこで終わりませんでした。
パンを食べ終えたころ、チャトラが料理台の端を見ました。
「あっち、まだあるよ」
食事の料理が並ぶ台とは少し離れた場所に、甘いものがまとめられていました。
大きな皿には何種類かのケーキが並び、切り分けられた焼き菓子もあります。果物を載せたもの、クリームを挟んだもの、焼き色の濃いものまでありました。
「朝からケーキあるんだ」
「宿の朝ご飯だから、食べてもいいんじゃない?」
チャトラはすでに立ち上がっています。
「その理屈、さっきの『旅行だから』と同じじゃない?」
「でも、あるなら食べたいでしょう?」
「……食べたい」
タマも立ちました。
結局、四人とも甘いものの台まで行きました。
チャトラはクリームを挟んだケーキを選び、タマは果物の載ったもの、ミミは焼き色の濃い小さなケーキを取りました。
オリビアは一度迷ってから、果物のケーキと小さな焼き菓子を一つずつ皿へ載せます。
「二つ取った」
チャトラが見ています。
「小さいから」
「そういう数え方するんだ」
「一個ずつは小さいよ」
席へ戻り、今度は甘いものを食べます。
果物の酸味があるので思ったより軽く食べられました。だからもう少し入りそうな気がします。
それが危険でした。
ミミが別の種類を半分だけ食べてみたいと言い、タマと分けます。チャトラは焼き菓子も追加しました。オリビアも、さっき見送ったクリームのケーキを小さく切ったものが残っているのを見つけ、結局一つ持ってきました。
「オリビア、減らすんじゃなかった?」
「次に来たときのオムレツの話」
「便利な言い方だね」
四人で笑いながら食べているうちはよかったのですが、最後の一口を飲み込んだころには、さすがに全員静かになりました。
チャトラが椅子の背にもたれます。
「……食べた」
「うん」
タマもお腹を押さえました。
ミミは満足そうですが、もう料理台を見る気はないようです。
オリビアも自分のお腹へ手を当てました。
朝食としては完全に食べすぎです。
でも、焼きたてのオムレツも、太いソーセージも、最後のケーキもおいしかったので、途中で止めるのは難しかった気がします。
「少しゆっくりしてから出ようか」
オリビアが言うと、三人ともすぐに頷きました。
食堂を出るころには、四人とも満腹でした。急いで歩きたい人は一人もいませんでした。
◇ ◇ ◇
宿の人に道を聞き、四人は東京の町を歩きました。
昨日は上空から市街地を見ています。灯りが途切れず続く大きな町だということは分かっていましたが、地上へ降りると印象が変わります。役所らしい大きな建物の隣に商店があり、その向こうには学校、食堂、宿が続いていました。大通りでは荷馬車と人の流れが交差し、細い道へ入ると住宅が増えます。
何本か大きな通りを越えたあと、建物の密度が急に下がりました。
塀の向こうに広い敷地があり、その中に大きな建物が何棟も離れて建っています。正面の建物だけでもかなり大きく、横へ回れば別の展示棟が続いていました。奥には窓の少ない建物も見えます。
「ここ全部、博物館?」
ミミが立ち止まりました。
「たぶん。入口で案内図をもらおう」
正門を通ると、四人はまず入館券売り場へ向かいました。
窓口の横には料金表があり、通常の入館券には学生料金も設定されています。そのほかに一年間使える入館証や、博物館の活動を支援する賛助会員の案内も並んでいました。
オリビアは賛助会員の案内を読みました。年会費は十フローリンです。資料の収集、保存、修復、調査研究などを支える会員制度で、会員証は一年間の入館証にもなり、特別展にもそのまま入れます。
それを読んで、オリビアは日本にいたころのことを思い出しました。
通っていたミッション系女子校の近くにある大きな美術館には、江戸時代から集められてきた品々や、旧御三家の大名家に伝わった美術品や道具が数多く収蔵されていました。旧大名家が実質的な母体になっているその美術館で、オリビアは賛助会員になっていました。
展示を見るだけでなく、収蔵品を保存し、調べ、次の世代へ残すところへ少しお金を出す。その仕組みには覚えがあります。
「私はこれにしようかな」
「賛助会員?」
タマが横から案内を見ます。
「うん。十フローリンなら入っておこうかな。どうせまた来ると思うし」
「それで一年入れるの?」
「特別展も入れるみたい」
オリビアはもう一度案内を確かめました。
「どうせまた来ると思うし、ちょうどいいね」
その場で手続きを済ませると、一年間有効の賛助会員証が発行されました。
その隣では、チャトラ、タマ、ミミが学生証を出して、学割の通常券を買おうとしていました。
「三人とも、それにするの?」
「学生料金なら安いよ」
チャトラが料金表を指しました。
オリビアも同じ表を見ます。通常券のほかに一年間の入館証があり、その中には特別展にも入れる種類がありました。
「だったら、そっちの年パスにした方がいいよ。差額は私が出すから」
「え、いいの?」
「いいよ。どうせまた来るよ」
敷地へ入っただけでも、一日で全部を見るのは難しそうな広さです。三人も料金表と建物の方を見比べました。
「……たしかに、一回で終わる感じじゃないね」
タマが言います。
「じゃあ、特別展も入れる方にする?」
「ミミ、それがいい」
チャトラも頷きました。
「私も。次に来たとき、また入場券を買わなくていいしね」
三人は通常の学割券をやめ、特別展にも入れる一年間の入館証を選びました。通常券との差額はオリビアが支払い、それぞれ自分の年パスを受け取ります。
四人はそのまま館内図を一枚ずつ受け取りました。
正面の本館だけでなく、考古資料を集めた建物や、企画展示に使う別棟があります。一般客が入らない収蔵庫や修復施設も敷地の奥にまとまっていました。
「大きいね」
タマが地図を裏返し、もう一度表へ戻しました。
「これ、一枚の紙に全部入ってるけど、歩いたらかなりありそう」
「やっぱり年パスにして正解だったね」
チャトラが自分の入館証を見ました。
「まず入ってみよう。気になったところで止まればいいよ」
オリビアは館内図を畳みました。
四人は正面の本館へ入ります。
◇ ◇ ◇
最初の広間で、オリビアは足を止めました。
壁の一面が大きな年代表になっていて、一番右端に現在の年が書かれています。
共通暦1812年。
オリビアがこの世界へ来てから、書類や新聞、学校の教材で何度も見てきた紀年です。各国に古い独自暦は残っていますが、外交や交易、行政、学術では共通暦へ換算して扱うのが普通になっています。
年表の横には、古い暦の日付を共通暦へ直す方法が説明されていました。
「ここ、学校より詳しい」
タマが読んでいます。
共通暦の一年は365日で、四年に一度、閏日を加えます。ただし百で割り切れる年は平年に戻し、四百で割り切れる年だけは再び閏年にする。現在の1812年は四で割り切れ、百では割り切れないので閏年です。
「閏年の決め方は習ったけど、昔の暦からどう直すかまではやらなかったね」
チャトラが、地方ごとの換算例を見ました。
地域によって年の始まりが違い、月の数え方も違います。閏月を入れる暦もあったため、古文書に書かれた数字だけをそのまま共通暦へ移すことはできません。
「同じ『三月』でも、今の三月と同じ場所とは限らないんだ」
ミミが表を追っています。
「そうだね。こういうの、実際の文書を読む人は大変だろうな」
オリビアはそう言ってから、収納へ手を入れました。
「何出すの?」
「歴史の教科書」
取り出したのは、こちらの世界へ来てから内容が変わり続けている山川の歴史教科書です。
見た目は日本で使っていた教科書とほとんど同じですが、中身はこの世界の歴史になっています。研究が進むと記述も変わるので、オリビア自身も、ときどき開いては前と違うところを探していました。
「旅行に教科書持ってきたの?」
チャトラが笑いました。
「収納に入ってるから重くないよ。こういうところで見比べたら面白そうだと思って」
「それはちょっとずるい」
「便利と言って」
四人は笑いながら、年表の先にある最初の展示室へ進みました。
◇ ◇ ◇
展示は、東の大国がまだ現在の形になるよりずっと前の時代から始まっていました。
最初は土器や農具が多く、貨幣や金属器が増え、文字が広く使われるようになると、木札や石碑の断片、役所の記録が混じってきます。
タマが小さな銀貨の前で止まりました。
「これ、教科書の写真だともっと大きく見えた」
ケースの中の銀貨は指先に載りそうなほど小さいものでした。資料集では模様が分かるよう拡大されているので、実物の大きさを見た瞬間に印象が変わります。
「写真って、そこ分からないよね」
ミミもケースへ顔を寄せました。
その少し先で、今度はチャトラが止まります。
「こっちは逆に大きい」
青銅製の重りが一つ、台の中央へ置かれていました。
説明札には『標準重錘 共通暦731年頃 王都南倉跡出土』とあります。
「あ、これ学校で出た」
ミミが先に気づきました。
「市場と税で重さをそろえたやつ」
「そう。地方ごとに重さが違うと困るから、基準をそろえたって習った」
チャトラは説明札を読んでいます。
オリビアも教科書の同じところを開きました。こちらでは、重量単位の標準化が共通暦731年と書かれています。
「私の本だと731年だね」
「こっちは『頃』が付いてる」
タマが両方を見比べました。
オリビアはすぐに結論を言わず、展示札の下にある発掘記録まで読みました。重りが見つかった層には、731年と732年の行政木札が混じっていたとあります。
「たぶん、書いている対象が少し違うんだと思う」
「どう違うの?」
「私の教科書は、重さをそろえる制度が決まった年を731年としてる。こっちは、この重りそのものがいつ作られたかだから、少し幅を持たせてるんじゃないかな。制度が決まった日に、この個体まで作られたとは限らないでしょう」
「なるほど。制度の年と物の年か」
チャトラが頷きました。
「だから両方同じ年を見てるけど、言ってることが少し違うんだね」
「私はそう見える」
オリビアは教科書を閉じず、そのまま手に持って歩き始めました。
どちらが間違っているかを探すより、どうして表示が違うのかを考える方が面白そうです。
◇ ◇ ◇
共通暦914年の展示では、薄い木の板が何枚も並んでいました。
地方役所が作った土地台帳です。耕地の広さ、持ち主、収穫見込み、税の区分が細かな字で書き込まれています。
「字、小さい」
ミミが目を細めました。
「これ、一枚だけじゃないんだよね」
「役所一つ分なら、もっとあったはず」
タマは横の復元図を見ています。
学校の教科書では『土地台帳の整備』と短くまとまっていた部分です。ここでは同じ役所跡から見つかった紐や封印、筆記具まで一緒に置かれ、書き損じを削って直した板もありました。
「ここ、削ってる」
チャトラが指しました。
「ほんとだ。数字を書き直してる」
制度史の一行では見えなかった仕事が、木の表面に残っています。
畑を測り、名前を聞き、数字を書き、間違えれば削る。次の年になれば、また直す。
オリビアは削った跡を見ながら、教科書にある『行政記録の整備』という言葉を思い出しました。
同じ内容なのに、実物を見るとずいぶん違って感じます。
◇ ◇ ◇
少し時代が進むと、公的な学校についての資料が出てきました。
共通暦1136年に出された地方学校令です。
主要な町へ公費で学校を置き、読み書き、計算、法令、記録の扱いを教える。入学者は身分だけでなく、試験や推薦でも選ぶ。現在の東の大国国立学校とは別系統の制度ですが、地方教育を国が支える古い例として教科書にも載っています。
「これも習ったけど、授業で使ったものまで残ってるんだ」
チャトラがケースの中を見ました。
計算に使った板の横には、書き取り用の板があり、さらに成績を記した名簿まであります。別の記録には、遠い町から来た学生へ食事を出したことまで書かれていました。
「食事も出してる」
タマが少し笑いました。
「私たちの学校の夜ご飯とは全然違うけど、遠くから通う人に食べさせるところは似てるね」
三人が自分たちの学校と比べ始めたので、オリビアも横の名簿を見ました。
制度の形は時代とともに変わっています。それでも、何を公費で支え、何を学ばせようとしたかを見ると、今の生活へつながるところがあります。
◇ ◇ ◇
展示室を進むにつれて、行政文書に混じって工芸品や美術品が増えていきました。
銀を象嵌した剣の前では、ミミが鍔の細かな模様を長く見ています。少し離れた彩色木像では、タマが腕の色の違いに気づきました。
「ここだけ少し新しく見える」
「修復したところだって」
説明札には、元の木材と後世の補修部分を区別し、いつ何を加えたか記録してあると書かれています。
オリビアは、その説明をもう一度読みました。
欠けている部分を勝手に想像して完成させず、分からないところは分からないまま残す。新しい資料が見つかったときには、後からやり直せるようにする。
見覚えのある考え方でした。
「オリビア、こっち」
チャトラに呼ばれて顔を上げると、次の展示室の入口に長命種の姿を描いた大きな絵がありました。
森を背景にしたその姿を見て、オリビアは教科書を持ち直しました。
「行ってみよう」
四人はその展示室へ入りました。




