第86章 オリビアは東京の宿で最初の夜を過ごします。
第86章 オリビアは東京の宿で最初の夜を過ごします
東の都=東京の宿へ着いた4人が、最初に向かったのは大浴場でした。入口からして広々としていて、脱衣所には大きな籠が何列も並んでいます。浴室へ入ると高い天井の下、湯気の向こうにいくつもの大きな湯船が見え、洗い場も多く、何十人も同時に利用できる造りでした。
オリビアが知っているものにたとえるなら、昭和の大型リゾートホテルにあったような、風呂そのものが宿の楽しみになっている大浴場です。
「広いね。向こうまで湯船が続いてる」
チャトラが湯気の向こうを見ました。
「これだけ広いと、ちょっと泳げそう」
「泳いだらさすがに怒られると思うよ。今日は普通に入ろう」
タマが笑うと、チャトラも「分かってるよ」と笑い返しました。
4人は身体を洗ってから、大きな湯船へ入りました。
朝から長時間キャビンへ座り、窓の外を見続けてきたあとです。肩まで湯につかると、身体の力がゆっくり抜けていきました。
「これ、気持ちいい。ずっと座ってたから、思ってたより身体が固まってたみたい」
チャトラが湯船の縁へ背中を預けます。
「景色を見てたから楽しかったけど、2000kmだもんね。今日はお風呂でゆっくりするのが正解だったと思う」
オリビアも足を伸ばしました。
東の大国では、獣人も普通に大浴場を利用します。抜け毛への対応は、出る前に自分で湯面へ浮いた毛をすくう仕組みです。
しばらく湯につかっていると、チャトラやタマの毛、ミミのもっと細かな毛が少しずつ水面へ浮いてきました。浴槽のそばには、その毛を自分たちで取り除くための道具が用意されています。
「そういえば、明日はどこへ行こうか。3泊あるから、朝から動ける日は2日あるよ」
オリビアが聞くと、チャトラは少し考えてから答えました。
「きなこさんが話してた博物館へ行きたい。東京まで来たなら、まずそこを見てみたいな」
「私も博物館がいい。首都の博物館なら、珍しいものがかなりありそう」
タマも賛成し、ミミも湯船の中で長い耳を少し動かしました。
「ミミも行きたい。絵にできそうなものがあったら見たい」
「じゃあ明日は博物館にしよう。朝ご飯を食べてから出て、帰りに町も歩こうか。3泊あるから、ゆっくり見て回ろう」
翌日の予定は、それで決まりました。
身体が十分に温まって湯船から出ようとすると、浴槽の端に大きな網があります。
形は、天ぷらを揚げるときの網をそのまま大きくしたようなものです。長い柄の先に細かな網が付いていて、湯面へ浮いた毛をすくえるようになっていました。
「これ、使ってから出るんだね」
チャトラが慣れた様子で網を取り、自分が入っていた辺りの湯面をゆっくりすくいました。細かな毛が網の上へ集まります。
「今日はそんなに多くないかな。でも、残して出るより取っていった方がいいよね」
「私のもこっちに浮いてる。少し借りるね」
タマも別の場所をすくい、ミミは自分の近くに浮いた細い毛を丁寧に集めました。
自分が浮かせた分は自分ですくってから出る。それが、この宿では普通の入浴マナーになっていました。
オリビアは、網の中へ集まった毛をしばらく眺めました。
網の中には、チャトラの茶色い毛とタマの白い毛、それにミミのもっと細かな白い毛が混じっています。これを集めて、チクチクしたら――。
「……絶対にフェルト人形ができると思う」
思わず口に出すと、チャトラが網を持ったまま振り返りました。
「フェルト人形って何?」
「毛を集めて、専用の針で何度もチクチク刺して、少しずつ形を作る人形だよ。針には細かい引っかかりがあって、刺したり抜いたりすると毛の繊維が中へ引き込まれて絡んでいくの」
「それだけで固くなるの?」
「仕組みとしては繊維が絡むからなんだけど、実際にやってると不思議だよ。柔らかい毛をチクチクしてるだけなのに、だんだん固まって、丸くしたり細くしたりできるようになるの」
タマが、網へ集めた自分の白い毛を見ました。
「じゃあ、自分の毛を集めたら、自分と同じ色の人形が作れる?」
「作れると思う。そのまま本人の毛色で作れるよ」
「それ、やってみたい。帰ったら作ろうよ」
「ミミもやる。自分の毛、集めておく」
「じゃあ道具を用意しようか。1回のお風呂で集まる量だけだと足りないかもしれないから、しばらく取っておけば3人とも作れると思う」
「お風呂に入るたびに材料が増えるんだ」
チャトラが面白そうに笑いました。
東京へ着いた最初の風呂で、明日の博物館と、帰ってから作るフェルト人形まで決まりました。
脱衣所にはドライヤーも何台か並んでいます。
チャトラ、タマ、ミミが順番に毛を乾かすと、耳の周りや頬、しっぽのふわふわした部分が入浴前より一回り大きくなったように見えました。
「チャトラ、さっきより膨らんでない?」
タマが笑いました。
「タマも同じだよ。しっぽ、いつもより大きい」
2人が互いの毛並みを見比べている横で、オリビアは少し困りました。
ちょっと猫吸いしたい。
犬吸いではありません。猫吸いです。
乾いたばかりのチャトラとタマは、顔を埋めたらかなり気持ちよさそうです。
でも、友達に向かって「ちょっと吸わせて」と言い出すのは、さすがに無理でした。
ミミはさらにふわふわしていますが、こちらは最初から候補外です。毛が細かすぎます。顔を近づけて吸ったら、鼻の中へ入りそうでした。
オリビアはその考えを一言も口に出さず、3人と一緒に部屋へ戻りました。
「じゃあ、ご飯に行こうか」
部屋へ戻ってすぐ、オリビアは食事へ出るつもりでバッグを持ちました。
「どこで食べるんだろう。下に食堂があるのかな」
「部屋の案内に書いてない?」
タマが冊子を開いていると、ちょうど廊下から声がしました。
ほどなく、夕食が部屋へ運ばれてきました。
「部屋で食べるんだ」
「お風呂も大きかったし、食事も部屋まで来るんだね」
料理が次々に並べられていくのを見ながら、オリビアは、日本の旅館みたいだと思いました。
献立もそれらしく、小さな器がいくつも並びます。焼いたもの、煮たもの、汁物、野菜、肉、果物。小ぶりの料理が何種類も並び、4人で見ているだけでも楽しくなります。
東京は内陸の首都なので、オリビアは山や川のもの、この周辺で採れる野菜や肉が中心なのだろうと思っていました。
ところが、料理の説明を聞いているうちに、その予想は外れていきます。
遠い高原で採れた野菜、別の地方から運ばれた肉や果物、保存や輸送を工夫して海の方から持ってきた食材まで、1つの膳の上へ並んでいました。
首都はすごいぞ。
料理全体が、そう言っているようでした。
「これ、かなり遠い地方から来た食材なんだって。東京まで運んでくるんだね」
タマが説明を受けた皿を見ました。
「内陸なのに、海の方の食材まである。首都にはいろんなところから集まってくるんだな」
チャトラも1つずつ器をのぞいています。
「ほんとに『首都はすごいぞ』って見せてるみたい。こういう食事なら、どこの地方から来た人でも何か知ってる味がありそうだね」
オリビアも笑いながら、次の器へ箸を伸ばしました。
4人とも食べ終わるころには、かなり満足していました。
部屋食だったので、オリビアはなんとなく、このあと隣の部屋へ布団を敷いてくれるのかと思っていました。
ところが、隣室の扉を開けると、そこは最初からベッドルームです。
クイーンサイズのベッドが2つ並び、枕もクッションもきれいに整えられていました。4人宿泊用の部屋として、2人ずつ寝ることを前提にしているようです。
「ご飯は旅館みたいだったのに、寝るところはベッドなんだ」
チャトラが部屋を見回しました。
「ほんとだね。食事の部屋と寝る部屋で、ずいぶん雰囲気が違うね」
日本の旅館とホテルを混ぜたような造りが、オリビアには少し面白く感じられました。東の大国では、これがこの宿のやり方なのでしょう。
もちろん、それはオリビアが頭の中で思っただけです。
ベッドへ腰を下ろしてみると、マットレスは柔らかすぎず、身体がほどよく沈みます。クッションもいい感じでした。
そのまま寝てもよさそうですが、旅先ではその前にやることがあります。
オリビアはマットレスの端を持ち上げ、縫い目を見ました。壁との隙間、ベッドの角、枕の近くも確認します。
「何か落としたの?」
チャトラが横からのぞき込みました。
「落とし物じゃなくて、ムシムシがいないか見てるの。小さい吸血系の虫がたくさんいると、寝てる間に大変だから」
「虫そのものが見えなかったら分からないんじゃない?」
「細かな糞が残ってたり、血の跡が付いてたりすることがあるよ。荷物について家まで持ち帰ったらもっと大変だから、旅先では最初にここを見るようにしてるの」
「いたら?」
「すぐ部屋を替えてもらう。荷物もできるだけベッドや床へ置かないで、持ち帰らないようにするよ」
「そういうところ、本当に旅慣れてるね」
「何度か泊まってると、最初に確認した方が安心して寝られるって覚えるよ」
もう1台のベッドも同じように見ました。
細かな糞はありません。血の跡もありません。マットレスの縫い目にも、壁との隙間にも、ムシムシが住んでいる気配はありませんでした。
「大丈夫そう。ここは安心して寝られるね」
ついでに、いわゆるGのようなものも見当たりません。
オリビアは、あれを触角ムシと呼んでいます。
でも、触角ムシという名前は、よく考えると少し問題があります。
ゴマダラカミキリなら、立派な触角はこちらにもある、と言いたくなるでしょう。オオミズアオだって、触角を自分の特徴の1つにしています。嫌われ者だけが「触角ムシ」の代表を名乗ったら、触角は自分たちのアイデンティティなのに、と怒ってくるかもしれません。
そんなことまで考えてから、オリビアはマットレスを元へ戻しました。
「じゃあ、寝る場所も決めようか。ベッドは2つだから、2人ずつだね」
3泊なので、オリビアと同じベッドになる人を毎晩交代すれば、チャトラ、タマ、ミミがちょうど1回ずつになります。
オリビアと一緒だと、寝ているうちに抱っこされるので、その人だけ少し狭い思いをします。3人が1回ずつ交代すれば、条件は同じです。
「今日はチャトラ、明日はタマ、3日目はミミにしようか。残りの2人は、もう1つのベッドを使う。それなら3人とも1回ずつで同じでしょう?」
「それならいいよ。3泊でちょうど1周するね」
タマが頷き、ミミも賛成しました。
「じゃあ今日は私だね。朝からずっと移動だったし、もう眠れそう」
チャトラが先に布団へ入りました。
照明を落とし、4人でおやすみなさいを言います。
オリビアは横になったチャトラをそっと抱き寄せました。
チャトラたちは実年齢こそ18歳ですが、身体の大きさは抱き人形か大きめのぬいぐるみくらいです。腕の中へ収めて寝るには、ちょうどいい大きさでした。
ドライヤーで乾かしたばかりの毛はふわふわで、抱いているオリビアもすぐに暖かくなります。
「あったかい」
チャトラも身体の力を抜き、オリビアの腕の中へ収まりました。
「私も暖かい。これならすぐ寝られそうだね」
「今日はいっぱい景色見たもんね。おやすみ、チャトラ」
「おやすみ、オリビア」
20秒もちませんでした。
オリビアに抱かれて暖められたチャトラも、チャトラを抱いて暖かくなったオリビアも、そのまますぐに眠ってしまいました。




