第85章 オリビアは空から地形を見ながら東京へ向かいます。
第85章 オリビアは空から地形を見ながら東京へ向かいます
宮廷馬車のキャビンは、海面上高度約1000mで東の都=東京へ向かって進みました。
オリビアは前方へ向ける重力の成分を少しずつ増やし、急な加速にならないよう速度を上げていきます。80km/h、120km/h、140km/hと上がり、160km/hに近づいたころ、窓枠の一部から細い風切り音が聞こえ始めました。
「さっきより風の音が大きくなってきたね」
タマが耳を澄ませました。
「うん。この客室は飛ぶための形じゃないから、これ以上速くすると音がかなり大きくなりそう。今日は160km/hくらいで行こうと思う」
「十分速いよ。窓の外もちゃんと見えるし、このくらいの方が旅行っぽい」
チャトラは下の景色から目を離さずに答えました。
オリビアも同じ考えでした。もっと加速すること自体はできますが、宮廷馬車のキャビンは、航空機のような流線形ではありません。窓枠や継ぎ目、角のある部分に空気が当たり、速度を上げるほど風切り音が増えます。4人で話をしながら景色を見るなら、160km/hくらいがちょうどよさそうです。
どのあたりで音が出ているのかは、帰ってから直したいところです。オリビアはノートを取り出し、音の強い窓枠や継ぎ目の位置を書き込みました。次回使うときには、その場所へ小さな空気の誘導翼か整流板を付けて、風の流れを少し変えてみるつもりです。
記録を取りながら、外側の装飾についても1つ決めました。宮廷馬車として地上で見るなら大切な装飾ですが、飛んでいるあいだは乗っている4人から見えません。次から飛行用途で使うときは装飾部分を召喚せず、収納から利用可能な部品の一覧へ戻しておくことにします。本来の宮廷馬車として使いたいときだけ、一緒に呼び出せば十分です。
「次に乗るときは、もう少し静かになってるかもしれないよ」
「じゃあ、帰りも改良前の記録が取れるね」
タマが言うと、オリビアは笑いました。
「そうだね。帰りもどこが鳴るか聞いて、今の状態をもう少し記録しておこう」
160km/hなら、東京までの約2000kmは長い移動になります。そのぶん景色を眺めるにはちょうどよく、1つの町が前方へ見えてから横を通り、後ろへ小さくなっていくまで、しばらく時間があります。
オリビアは帝国書院の国内地図を膝の上へ広げました。
高度1000mほどでは、地上の1人1人が何をしているかまでは分かりません。しかし、町の広がり、農地のまとまり、川の蛇行、湖の輪郭、山地と平地の境界を見るにはちょうどいい高さです。これより低くすると近くの丘や尾根が視界を遮り、地図と地形全体を照らし合わせにくくなります。
「この高さ、地図を見るにはかなりいいね。家を1軒ずつ見るには遠いけど、町がどこまで広がってるかはよく分かる」
「次の町、これじゃない?」
タマが地図の1点を指しました。
「右側に湖があるから、たぶんそこ。ほら、実際の町の東側にも湖が見えるでしょう」
「じゃあ、その向こうの山がこの山地?」
チャトラが地図と窓の外を交互に見ます。
「たぶんそう。こうやって見ると、町が平らなところへ集まってるのが分かりやすいね」
最初は地図の向きを間違えていたミミも、しばらくすると川や湖の形から現在地を探すようになりました。
途中には何度か山脈も見えてきます。
「前の山、今までより高そうだけど、上がらなくて大丈夫?」
チャトラが窓の先を見ながら尋ねました。
オリビアは地図と山並みを見比べます。
「このルートなら、通るところに1000mを超える山はないみたい。今の高度のままで越えられるよ。景色も見たいから、必要がないなら上がらずに行こう」
キャビンはそのまま山地の上を越えました。稜線を越えると、向こう側にはまた広い平地が現れ、川沿いに集まった町や、遠くで光る湖が見えてきます。
長い移動なので、必要なら人家から離れた森や草地へ降ります。4人とも冒険者なので、野外で用を足すのはいつものことです。
「次に降りるとき、私もちょっと行っておこうかな」
チャトラが言うと、タマが笑いました。
「冒険者にとっては、大自然が大きなトイレだからね。人家から離れたところなら、どこでも大丈夫だよ」
「そういうこと。人から見えないところを選べば大丈夫」
オリビアも笑いました。
昼が近くなったころ、窓の下に、それまでとは明らかに違う景色が現れました。
緑の草地が大きく広がり、その中から白い石灰岩がところどころ顔を出しています。その間には、小さな湖がいくつも散らばっていました。丸い水面もあれば、2つ3つの窪地がつながったような形の湖もあります。
オリビアは地図から顔を上げたまま、しばらく窓の外を見ました。
「ちょっと見て。あそこ、面白いよ」
「白い石がいっぱいある」
ミミが窓へ寄ります。
「石灰岩だと思う。カレンフェルトだね。緑の草地の中に白い石灰岩が出てるの、きれいだな」
「湖もすごく多いね。川が流れてるようには見えないけど」
タマの言う通り、水面の周囲に大きな流入河川や流出河川は見えません。
「ドリーネやウバーレみたいな窪地の底が塞がって、そこへ雨水がたまった感じだと思う。上から見ると、窪んだところだけ水が入ってるのがよく分かるね」
「カレンフェルトって、こういうところなんだ」
「地図で見るだけより面白いでしょう。私、地上でも見てみたい」
オリビアがそう言うと、チャトラが時計代わりに見ていた時刻を確かめました。
「ちょうどお昼くらいだし、あの湖のところで食べる?」
「それがいいね。人も見えないし、あの湖畔に降りよう」
緑の草地に白い石灰岩が点々と現れ、その窪地に湖がいくつも残る地形そのものが面白くて、オリビアはここを昼食場所に選びました。
ここもどこかの領地ですが、湖畔にも周囲の草地にも人影はありません。オリビアは前方へ傾けていた重力を戻し、ゆっくり速度を落としました。
速度を落とすにつれて風切り音は小さくなり、湖畔の草地まで来るころにはほとんど聞こえなくなりました。そのまま重力魔法だけで垂直に降ります。
4人が外へ出ると、オリビアはキャビンを収納します。黒い客室が消え、湖畔には4人と小さな手持ちバッグだけが残りました。
空から見た緑は、地上へ降りるとさらに鮮やかでした。短い草の間から白い石灰岩が顔を出し、その向こうには青い水面があります。少し離れたところにも別の湖が見え、起伏の向こうへ歩けば、また次の水面が現れそうです。
「上から形を見るのと、ここに立つのとで全然違うね」
タマが足元の石灰岩を見ました。
「上だと窪地と湖の並び方が分かるし、下だと石灰岩そのものが見える。両方見られるの、いいね」
オリビアは収納から4つの弁当を出しました。
「今日のお昼はハンバーグ弁当。湖を見ながら食べよう」
「やった。飛んでるときからお腹空いてた」
チャトラが1つ受け取り、4人は湖を見渡せる草地へ腰を下ろしました。
窓越しに長い時間景色を見ていたあとだけに、外の風と草の匂いを感じながら食べる昼食は、それだけで気分が変わります。
「この湖、本当に川につながってないね」
ハンバーグを食べながら、チャトラが水面を見ました。
「見える範囲では、入ってくる川も出ていく川もないね。底が塞がった窪地へ水がたまってるんだと思う」
「あっちにも湖がある。こっちより小さいけど、形が丸い」
ミミが草地の向こうを指します。
「地図では湖の形を見てたけど、地上だと白い石灰岩がこんなに出てるんだね」
タマが言いました。
「うん。地図で場所を知って、空から形を見て、地上で石灰岩を見ると、やっと全部つながる感じがする」
オリビアは弁当を食べながら、何度も周囲を眺めました。
昼食のあと、4人は湖畔を少し歩き、近くに露出した石灰岩と隣の湖を見てから戻ることにしました。
戻ってくると、オリビアはもう1度、宮廷馬車のキャビンだけを召喚しました。
「そろそろ続きを飛ぼう。東京まではまだかなりあるから、午後も地図を見ながら行こうか」
「今度は私が先に現在地を当てる」
ミミが地図を抱え、チャトラが笑いました。
「じゃあ競争にする?」
「何の勝負なの、それ」
タマも笑いながら乗り込みます。
キャビンは再び海面上高度1000mまで上がり、160km/hへ戻りました。
午後も、町、湖、川、山地が次々に現れます。3人はすっかり地図の見方に慣れ、今度はオリビアより先に現在地を当てようとしました。
夕方になり、東京へ近づくにつれて、地面そのものの標高が高くなってきました。
海面上高度1000mを保っているのに、地面との間隔は約700mまで小さくなっています。
「朝より地面が近く見えるね」
チャトラが窓の下を見ました。
「この辺りは地面が300mくらい高くなってるみたい。景色の見え方を今までと同じくらいにしたいから、こっちも300m上げるね」
「海面から1300m?」
「そう。急には上げないから、そのまま見てて大丈夫だよ」
キャビンはゆっくり上昇し、海面上高度約1300mになりました。これで対地高度は、また1000m前後です。
日が落ちるころ、前方に東京の灯りが見え始めました。
近づくほど灯りの密度が増し、1つの町が終わる前に次の市街地が続いているように見えます。きなこさんが話していた首都が、暗くなった地面の上へ大きく広がっていました。
「すごい。ずっと町が続いてる」
チャトラが窓へ寄ります。
「途中で見た町と大きさが全然違うね」
タマも、その隣から外を見ました。
キャビンの外側は黒色なので、日が落ちると夜空へ溶け込むように見えます。
オリビアは、きなこさんから聞いていた宿の位置を確認しながら、少しずつ速度を落としました。160km/hで飛んでいる間に聞こえていた風切り音も、減速するにつれて小さくなります。
宿の近くまで来ると、すぐそばに公園がありました。もう暗くなっていて、遊んでいた人たちは帰ったようです。園内に人影は見えません。
「あの公園なら降りられそう。宿からも近いし、人もいないから、あそこへ降ろすね」
「こんな町の中でも静かに降りられる?」
ミミが窓の下を見ながら聞きました。
「ここまで速度を落とせば風の音もほとんどないよ。エンジンもローターもないから、最後は重力魔法だけで下ろせる」
オリビアの頭の中では、完全に無音のVTOLです。黒いキャビンは公園の上で停止し、そのままゆっくり垂直に降りました。ローターもプロペラもエンジンもないので、着地しても大きな音はしません。
4人がバッグを持って外へ出ると、オリビアはすぐにキャビンを収納しました。公園には何も残りません。
「ほんとに、何もなかったみたい」
チャトラがさっきまで客室のあった場所を見ました。
「その方がいいよ。朝になって公園に王室用の馬車の客室だけ置いてあったら、絶対に騒ぎになるから」
「それは見てみたいけど、今回やったらだめだね」
「うん。今回は静かに遊びに来たんだから、このまま普通に宿へ行こう」
きなこさんから聞いていた宿までは、歩いてすぐでした。
受付で4人、3泊することを伝え、宿泊代は3泊分まとめて支払います。4人とも小さな手持ちバッグだけで、必要なものの大半はオリビアの収納に入っています。見た目だけなら1泊の客より身軽です。
案内された部屋へ入り、ようやく2000kmの移動が終わりました。
バッグを置いて部屋の案内を見ていたチャトラが、すぐに1つ見つけます。
「大浴場があるって。しかも、かなり大きいみたい」
「それなら先にお風呂へ行こうか。今日はずっと座って景色を見てたし、ゆっくり入りたい」
「賛成。私も先にお風呂がいい」
タマが立ち上がり、ミミもタオルを用意しました。
4人は荷物を置いたばかりの部屋を出て、大浴場へ向かいます。




