第80章 オリビアは国境ゲートの花壇を植え替えます。
第80章 オリビアは国境ゲートの花壇を植え替えます
皇帝が南の租借港に泊まった翌朝、オリビアはチャトラ、ミミ、タマと一緒に冒険者ギルドへ来ていました。
受付のお姉さんが、依頼書を一枚出します。
「前にお話ししていた植物の仕事です」
「あ、来たんだ」
前回、皇帝が丘の下町へ来る前に、オリビアは町の清掃依頼を受けています。
その清掃は、最初の一人分だけでなく、実際にオリビアが作業した範囲まで計算され、合計3フローリンが支払われました。
慰霊碑の周りに花を咲かせたり、道沿いの植物を整えたりした分は、オリビアが依頼外で追加した作業だったため、3フローリンの精算対象は清掃部分だけでした。
精算のとき、受付のお姉さんから、今後はそういう植物の作業も正式にお願いすることがあるかもしれない、そのときはよろしく、と役場からの連絡を聞いていました。
今回は、その仕事が正式な依頼になっています。
「場所は南側の国境ゲートです。花壇の植え直しですね」
「4人で受けていいですか?」
「はい」
チャトラが依頼書をのぞき込みました。
「花を植える仕事?」
「そうみたい」
「じゃあ、花はどうするの?」
「市場で選ぼうか」
4人はそのまま市場へ向かいました。
◇ ◇ ◇
市場には、食べ物の店だけでなく、苗や鉢植えを扱う店も並んでいました。
ミミが最初に、花を付けた苗を見つけます。
「これ、もう咲いてるよ」
「こっちもきれい」
タマは別の色を見つけました。
「同じ色だけだと、ちょっと寂しくない?」
「何種類かにしよう」
チャトラが苗を一つ持ち上げました。
「これは?」
「それも入れよう」
4人で店を回り、花壇へ植える苗を選んでいきました。
オリビア一人なら、咲いている植物へ魔法をかけて花を増やすこともできます。
でも今回は、先に現場を見た役場から、株そのものがなくなっていると聞いています。
「植物がないなら、魔法だけじゃどうにもならないね」
「土も入れるんだよね」
「うん」
苗をそろえると、4人は南側の国境ゲートへ向かいました。
◇ ◇ ◇
旧ヘタレ国が造った国境ゲートは、相変わらず大きすぎる建物でした。
7階建ての門の横に、5階建ての管理棟があります。
普段の利用者から考えると完全に過剰な規模ですが、職員が今の100倍、通過する人が1000倍になっても処理できるだけの場所があります。
今日は各国の警備員や役人が普段より多く来ています。それでも、建物の中にはまだ十分な余裕があります。
内装も外装もきれいでした。
以前、オリビアが清掃を請け負って、建物全体を整えています。
ただし、旧ヘタレ国時代に掲げていたスローガンの跡は、今も見えました。
スローガンで覆われていた部分は紫外線による表面劣化が少なく、周囲より少し新しい色に見えます。
「まだ文字の形、分かるね」
チャトラが見上げました。
「消そうと思えば合わせられるけど」
オリビアも見上げます。
「わざわざエージングして古くするの、もったいないよ」
オリビアは、周囲へ色を合わせるためだけの人工的なエージングを無駄だと考え、そのまま残しました。
今日の依頼は、その壁ではなく花壇です。
4人で門の前へ回ると、花壇は本当に空になっていました。
「ないね」
ミミがしゃがみます。
「株ごとない」
土だけが残っているところもあれば、土そのものが減っているところもあります。
オリビアは花壇へ手をかざしましたが、すぐに下ろしました。
「これじゃ、咲かせる植物がないね」
植物魔法で成長させる相手そのものがいません。
4人は土を足し、表面を整え、市場で選んだ苗を順番に植えていきました。
オリビアは日焼けを避けるため、つばの広い帽子をかぶっています。
「こっち、もう少し間をあける?」
タマが苗を持ったまま聞きました。
「そのくらいでいいと思う」
「じゃあ次、赤いのこっち」
「白いのは門の近くにしようよ」
ミミが位置を変えます。
「それ、いいね」
4人で選んだ花が、少しずつ門の前へ並んでいきました。
苗はすでに花を付けています。
全部植え終わる前から、空だった花壇がかなり華やかになってきました。
◇ ◇ ◇
そのころ、皇帝一行の馬車が国境ゲートへ近づいていました。
朝の表彰を終えてから出発したので、租借港の軍施設を出たのは朝礼のあとです。
門の前で仕事をしていたチャトラが先に気づきました。
「馬車、いっぱい来たよ」
オリビアは帽子のつばを少し上げました。
帝国皇帝の馬車があります。
南の国からも国家元首本人が来ました。
今回は二度目の侵攻後に結ぶ正式条約なので、南の国は国家元首本人を出しました。
東の大国から来たのは辺境伯です。
旧ヘタレ国周辺の軍事関係は、彼女の担当です。今回、住民保護のために辺境伯軍を出したのも、その担当範囲でした。
「皇帝?」
ミミが小さな声で聞きます。
「うん」
「もう一人は?」
「南の国の元首」
3人とも、作業の手を止めずに馬車を見ています。
「じゃあ、あの女の人は?」
「辺境伯」
タマが3台の馬車を見ました。
「すごい人ばっかりだ」
「そうだね」
オリビアは苗をもう一株、土へ入れました。
今日は花壇整備の依頼を受けた冒険者として来ています。
ただ、会議の中身は分かります。
管理棟の会議室には鉢植えが置いてありました。
その鉢植えが、聞こえた話を逐一オリビアへ伝えてくれます。
◇ ◇ ◇
会議室では、皇帝、南の国の元首、東の大国の辺境伯が席に着きました。
前回ここで結んだのは停戦協定です。
帝国側の現地責任者には国家として新しい条約を結ぶ権限がなかったため、撃ち合いを止めるところまでしか決められませんでした。
今回は皇帝本人が来ています。
辺境伯が地図を広げました。
「東の大国からの調停案を確認します」
南の国の元首が地図へ目を落とします。
「お願いします」
「今回の戦闘について、金銭による賠償は求めません。これまで残っている賠償についても、今回の条約で金銭請求を残さない形にします」
皇帝が確認しました。
「代わりに、租借地を整理する」
「はい」
辺境伯は港を指しました。
「1000年間の無償租借を終わらせます。この港と、港町を存続させるために必要な地域を、海の向こうの帝国へ割譲してください」
国境線は、港と港町を維持するために必要な河川や水源まで含め、生活用水も帝国領内で確保できるように引かれます。
「範囲は?」
南の国の元首が聞きました。
「約20平方キロメートルです。境界はこの線で確定します」
外の花壇では、オリビアが苗の根元へ土を寄せていました。
会議室の鉢植えから、話がそのまま届きます。
「20平方キロなんだ」
「何が?」
チャトラが顔を上げます。
「割譲するところ。港だけじゃなくて、川と水源も入れるって」
「水がないと町が困るもんね」
「うん」
会議室では話が続いていました。
南の国の元首が、住民について聞きました。
「新しく帝国領になる区域から、南の国へ転居する住民には、どのくらいの期間を設けますか」
辺境伯が答えます。
「1か月です」
「転居費用は」
「南の国で負担してください」
南の国の元首は少し考え、うなずきました。
「分かりました」
皇帝も地図を見ています。
「帝国側としても、その線でよい」
三者は、東の大国が示した調停案をそのまま受け入れました。
今回と過去の賠償金はゼロとする。
その代わり、港と、それを存続させるために必要な河川や水源を含む約20平方キロメートルを帝国へ割譲する。
国境線を確定する。
新たに帝国領となる区域から南の国へ転居する住民には1か月の期間を設け、その転居費用は南の国が負担する。
東の大国が出した調停案どおりにまとまりました。
文書が整えられ、3者が確認します。
署名が終わるころには、門の前の花壇もほとんど埋まっていました。
「こっち最後」
ミミが最後の苗を持ってきます。
「そこにしよう」
4人で選んだ花が全部入りました。
門の前は、朝に来たときとはまるで違います。
花壇は色とりどりの花でいっぱいになりました。
◇ ◇ ◇
会議が終わると、建物の中から人が出てきました。
最初に皇帝の一行が馬車へ向かいます。
続いて辺境伯。
南の国の元首も馬車へ乗りました。
オリビアは花壇の横に立ち、3台の馬車が国境ゲートから出ていくのを見ていました。
会議で決まった内容は、鉢植えから全部聞いています。
そこで、条約の文面とは別のことが気になりました。
「残った人は、国籍が変わるのかな?」
チャトラが隣で首をかしげました。
「会議で言ってなかったの?」
「引っ越す人の期間と費用は言ってた。でも、残る人の国籍の話はしてなかったよ」
「じゃあどうなるんだろ」
「ベラミラ先生に聞いてみよう」
VIPの馬車が全部出たあと、4人は依頼書を持って管理棟へ入りました。
入管の職員は、朝から続いた警備と来客対応でかなり疲れた顔をしています。
「花壇、終わりました。確認をお願いします」
「はい……見に行きます」
職員は外へ出て、門の前の花壇を確認しました。
土が足され、苗が並び、朝には何もなかった場所に花が咲いています。
「大丈夫です。完了で」
依頼書へサインが入りました。
「ありがとうございます」
4人は仕事を終えました。
そこからオリビアは飛行魔法で丘の上町へ戻ります。
チャトラ、ミミ、タマも一緒です。
◇ ◇ ◇
ギルドへ戻ると、オリビアは食堂でジャム入り紅茶とピロシキを頼みました。
「今日はこれくらいでいいかな」
花壇の仕事をして、朝から外にいたので、少しだけ食べたい気分です。
チャトラたちも近くの席に座りました。
オリビアがピロシキを半分ほど食べたところで、見慣れた帽子が入口から入ってきました。
「あ、先生」
ベラミラ先生です。
「今日は南の国境まで行っていたんでしょう?」
「はい。花壇の仕事でした」
「きれいになりました?」
「4人で市場で花を選んで植えました。株ごとなくなってたから、魔法で咲かせるものがなかったんです」
ベラミラ先生は、オリビアの帽子と袖に残った土を見ました。
「それは植えるしかないですね」
ベラミラ先生が空いている椅子へ座りました。
オリビアはジャム入り紅茶を一口飲んで、さっき気になったことを思い出しました。
「先生、聞きたいことがあるんですけど」
「何ですか?」
「今日、南の租借地が正式に帝国へ割譲されることになったんです。そこに残る南の国の人って、国籍はどうなるんですか?」
ベラミラ先生は少し考えてから答えました。
「残る人には二つの選択肢があります。南の国の住民のまま、帝国から1年ごとに滞在許可を取るか、帝国の海外県の住民になるかです」
オリビアは紅茶のカップを置きました。
「海外県の住民になったら、本国民にもなれるんですか?」
「本国民にはなれません。本国民は別の身分です」
オリビアは少し考えました。
「土地が帝国領になっても、住民の身分は別に決まるんですね」
「そういう制度です」
オリビアは残っていたピロシキを食べました。
◇ ◇ ◇
その後、北側でも正式な条約がまとまりました。
数日後、ギルドでベラミラ先生と会ったとき、オリビアは北側の結果も聞きました。
「北も決まったんですか?」
「ええ。基本は南と同じ方向です」
「港は?」
「租借の形を終わらせて、港と、それを維持するために必要な周辺を帝国へ割譲します。国境線も決め直します」
オリビアは、前に北の租界へ行ったときのことを思い出しました。
租界の外、港町に近い都市圏まで帝国軍の占領下に置かれていました。
しかも、その占領軍を維持する費用まで北の国が負担していました。
そこで集められる税収は、戦争賠償の支払いへ回され、残額を少しずつ減らす仕組みです。
「じゃあ、あの都市圏は?」
「北の国へ戻ります」
「返済用に占領してたところですよね」
「そうです。あそこは租借港そのものとは別です。賠償を返すために帝国軍が支配していた都市圏ですから、今回の整理で占領を終わらせます」
オリビアは、北の租界へ行ったときに見た町の外側を思い出しました。
「港の方は帝国の土地になって、都市圏は北の国へ戻るんだ」
「そうなります」
前は、租借地、占領地、返済のための税収、1000年という期限が重なっていました。
今回の条約で、北側も土地の線が引き直されました。
帝国が持つ港周辺と、北の国へ戻る都市圏が分かれます。
オリビアはジャム入り紅茶のカップを見ながら、南側の国境ゲートに残っていた、古いスローガンの明るい跡を思い出しました。
建物は同じでも、国境の方はずいぶん変わりました。
【海外領土と住民身分の史実】
現実の歴史でも、領土の所属と、そこに住む人の法的身分や本国での権利が常に同一だったわけではありません。
アメリカでは、米領サモアで生まれた人は原則として出生時に U.S. national(米国国民)となりますが、U.S. citizen(米国市民)の資格は出生だけでは付与されません。アメリカの領土であっても、本国の市民権と同じ身分になるとは限らない実例です。
イギリスでは、海外領土との結びつきを持つ人に British Overseas Territories Citizen(英国海外領土市民、BOTC)という身分があります。1983年から2002年までは British Dependent Territories Citizen と呼ばれていました。BOTCだけを持つ人には、英国本国での自動的な居住権・就労権が伴わない時期と制度がありました。2002年の British Overseas Territories Act によって、対象となる海外領土と結びつく多くのBOTCには英国市民権も自動的に付与されましたが、海外領土ごとの居住資格や belonger status などは別制度として残っています。つまり、英国の主権下にある土地、英国の国籍、本国での権利、各海外領土での住民資格は、歴史的にも一つの制度ではありません。
フランスはさらに制度が多様です。グアドループやレユニオンなどの海外県・海外地域は、共和国の一部として憲法73条の枠組みで本土に近い法制度を取り、ギアナとマルティニークは県と地域の権限を統合した単一自治体です。一方、フランス領ポリネシア、サン・バルテルミー、サン・マルタン、サンピエール・ミクロン、ウォリス・フツナなどは憲法74条の海外共同体として、それぞれ異なる自治制度を持っています。
ニューカレドニアはそのどちらとも異なる特別な制度を歩んできました。1998年のヌメア協定と1999年の有機法律では、フランス国籍の枠内にニューカレドニア市民権が設けられ、州議会などの選挙資格にもニューカレドニア固有の条件が置かれました。2025年以降は将来の制度をめぐる新たな合意と制度改編の議論が続いていますが、少なくとも歴史的には「フランス領に住むフランス国籍者」というだけで、海外各地域の制度上の資格や政治的権利まで一律に同じだったわけではありません。
このため、作中の帝国で、割譲地の住民が南の国の住民身分を保って毎年の滞在許可を受ける道と、帝国の海外県住民になる道を選び、本国民は別枠とされる制度は、「領土の所属」と「住民の法的身分」を分けて扱う制度として位置づけています。




