第74章 皇帝は北の国から出られません。
チャトラ オリビア タマ ミミ
第74章 皇帝は北の国から出られません
帰国に使う予定だった4隻のクルーザーが動けなくなったあと、皇帝の周囲では、次にどの船を使うかという話が続いていました。
「本国から新しい軍船を呼ぶより、南の国の租借地から船を回した方が早いでしょう」
海軍士官が地図を見ながら話しました。
「南の租借地には、高官の移動に使っているスクーナーがあったね」
「はい。通常の貨物スクーナーより客室を広く取り、食堂や調度も高官向けに整えた船です。陛下と随行の方々をお乗せして本国へ戻る用途にも使えます」
「それなら、その船を北へ回してもらうのが一番早そうだ」
「私もそう考えます。沿岸連絡船に伝令を乗せれば、南の租借地へ知らせを届けられます」
距離があるため、条件は最初の連絡でまとめました。南の租借地には、皇帝を迎えるため高官用スクーナーを北へ回航するよう、その一度の連絡で指示が送られました。
内部を高官用に整えた3本マストのスクーナーが北の租借地へ姿を見せたのは、それから数日後です。
朝から港には人が集まっていました。
前に停泊していた4隻のクルーザーは、まだ港の浅い場所で大きく傾いたままです。倒れたマストや崩れた索具の残骸を片づける作業も終わっていません。その向こうを、3本マストのスクーナーがゆっくり近づいてきます。
「ようやく来たか」
総督府の代わりに使われている仮の行政施設から港へ出ていた皇帝は、海軍士官と並んでその船を見ていました。
「はい。南の租借地から予定どおりです。風も穏やかです」
船は港口へ向かって進んできます。
岸壁には水兵だけでなく、荷役の人、修理工、北の国側の作業員、商人までいました。前の4隻が壊れた件を知っている人ほど、今度の船をじっと見ています。
港口を越えたところで、最初に異変へ気づいたのは岸壁の水兵でした。
「帆が……!」
張っていた帆布が、一部から破れたように見えた次の瞬間、まとまって消えました。
風を受ける面が急になくなり、ヤードが不自然に傾きます。その直後、マストを支えていた索具まで次々に失われました。シュラウドもステイも消え、支えをなくしたマストが船体の動きに遅れて大きく揺れます。
「止めろ! 止めろ!」
「舵を!」
船上から声が飛びました。
帆を失っても、船には港へ向かっていた速度が残っています。
一本のマストが倒れ、隣のマストへ当たりました。甲板の上では大砲を固定していた索もなくなり、傾いた船体の上で重い砲が動きます。
さらに、乗員の姿まで一変しました。
麻や木綿のシャツ、ズボン、下着を身につけていた水兵から衣類が消えます。ウールの上着やシルクを身につけていた者だけが服を残し、甲板のあちこちで裸になった水兵が、何が起きたのか分からないままロープを探して走り回りました。
「また同じだ!」
岸壁から叫ぶ声が上がります。
船板の継ぎ目に詰められていた繊維も失われました。海水が入り始め、船はますます重くなります。それでも港へ向かっていた速度は残っていて、帆も索具も失った船体は、そのまま港の内側へ進んでいきました。
速度が落ち切る前に水深の浅い場所へ入り、船底が海底へ触れました。そこで前進は止まりましたが、板の継ぎ目から入る水までは止まりません。船体は傾きながらさらに沈み込み、迎えに来た高官用スクーナーは船底を海底につけたまま動かなくなりました。
港はしばらく、叫び声と指示の声でいっぱいになりました。
皇帝は、その様子を最後まで見ていました。
「エルフは?」
誰かが言いました。
前の4隻が壊れた日、町には長い金髪のエルフがいました。冒険者カードの記録から、オリビア本人だと考えられています。
そのため、港にいた者たちは反射的に周囲を見回しました。岸壁から城壁の上、倉庫の屋根、さらに空まで探しましたが、彼らが考えていた長い金髪のエルフの姿は見当たりません。小さな飛行機械を見た者もいませんでした。
「今日は、エルフの入城記録はあるか」
海軍士官が門の責任者へ聞きました。
「記録はないです。少なくとも朝から、長い金髪のエルフは通っていません」
「空から入ったという目撃は?」
「今のところ、目撃は出ていません」
皇帝は、着底したスクーナーから目を離しませんでした。
「前回は女王が町にいた。それで我々は、あの4隻に何かをした可能性を考えたね」
「はい。時刻も一致していました」
「今回は本人が見当たらない。それでも、起きたことはほとんど同じだ」
海軍士官は少し考えてから答えました。
「近くにいる者が、その場で船へ魔法を使ったという説明だけでは足りなくなりました」
「現時点で、ほかに説明できそうなことはあるだろうか」
「まだ仮説の段階です。今の材料だけで断定するのは早いと思います」
皇帝は着底したスクーナーを見ました。
「そうか。分からないところは分からないままにしておこう。都合のいい結論を先に作る方が危ない」
救助と片づけが進む間、港では前回以上に多くの証言が集まりました。
スクーナーが港口へ入るまでは普通に航行していたこと。帆、索具、船体の充填材がほぼ同時に失われたこと。衣類も素材によって消えたり残ったりしたこと。誰も魔法を使う人物を見ていないこと。
そこで、海軍側は小さな実験をすることにしました。
港の端に、修理のため陸揚げしてあったカッターがあります。大きな軍艦の艦載艇として使う普通のもので、船体の継ぎ目には繊維を詰めて水を止めています。
「このカッターを使って確かめるのだね」
皇帝が聞きました。
「はい。外から入ってくる船だけに起きるのか、港の中で動かした船にも起きるのかを見たいと思います」
「人を乗せることになるのか」
「動かすために水兵が必要です。岸からすぐ戻せる場所で、短い距離だけ試します」
カッターは水へ下ろされました。
その時点では何も起きません。
「浮かべただけなら平気か」
「今のところは」
水兵が乗り込みます。数人が櫂を持ち、岸から離れるために漕ぎ始めました。
カッターが動き出した瞬間でした。
「あっ!」
水兵の服が消えました。
麻や木綿でできていたものが一度になくなり、乗り込んだ者の多くが裸になります。驚いて櫂を止めた直後、船底から水が入り始めました。
「戻せ! すぐ戻せ!」
岸から投げた綱まで素材を確認しながら使う騒ぎになり、カッターは数m進んだだけで引き戻されました。
船体を調べると、やはり継ぎ目の充填材が失われています。
皇帝は、濡れたまま毛布を渡されている水兵たちを見ました。
「軍艦かスクーナーか、という違いではなさそうだね」
「はい。大きさや船型だけで決まっているようには見えません」
「外から港へ入ってきた船に限る、という説明も難しくなった」
「そのように考えています」
別の士官が、衣類の結果を報告しました。
「ウールとシルクは残っています。麻と木綿は消えました」
「船体を充填材なしで水密に作り、乗員の衣類もウールかシルクにそろえれば、動かせる可能性はあるのかな」
「理屈の上では考えられます」
「この港に、そこまで条件の合う船はあるだろうか」
「4人乗り程度の小さなボートなら、比較的精度よく作られたものがあります。ですが、皇帝陛下と随員を沖の船へ運ぶだけでも何往復か必要です。まして、帝国までの航海用物資をこの港から沖へ運ぶ用途には足りません」
「沖で待つ船の補給を、別の港で済ませておく方法はどうだろう」
「可能です。ただ、その準備まで別の港で行うなら、陛下ご自身を最初からそちらへお移しした方が早いかもしれません」
◇ ◇ ◇
そのころ、元ヘタレ国だった地域にも、北の港で起きた話が少しずつ伝わり始めていました。
最初は「帝国の新しい帆船が4隻まとめて壊れた」という程度でした。ところが、沿岸を行き来する商人や船員から細かな話が入るにつれ、丘の上町でも聞き覚えのある内容になっていきます。
「帆がなくなったって」
ギルドで誰かがそう言うと、別の冒険者がすぐ反応しました。
「帆だけ?」
「ロープも。船の隙間に詰めてるやつも消えて、水が入ったらしいぞ」
「それ、前にここの港へ来た戦列艦と同じじゃないか?」
丘の下町や港町では、帝国の戦列艦が動けなくなったときのことを覚えている人が大勢います。あのときは戦争の最中で、オリビアが魔法を使ったところも目撃されています。
だから、北の国の話を聞いてオリビアを思い浮かべる人が出るのは自然でした。
「北の港にもオリビアが行ってたって話だろ?」
「その日はね」
「じゃあ、やっぱり?」
「でも、見た人はいないんでしょ」
「似すぎてるだろ」
噂はその程度です。誰も証拠を持っていません。
さらに数日して、高官用スクーナーまで港口で同じ壊れ方をしたという話が届くと、今度は話が少し変わりました。
「そのときオリビア、こっちにいたよ」
チャトラが普通に言いました。
「いたね」
タマも覚えています。
その日は丘の上町で姿を見た人が何人もいました。ギルドにも来ています。北の国の港まで約200kmあり、少なくとも現地で船のそばに立っていたという説明はできません。
「じゃあ違う人?」
「分かんない」
ミミが答えました。
「前と同じ魔法みたいだけど、オリビアが北の国にいなかったのも本当だし」
ベラミラ先生も、その話に結論を付けませんでした。
「似た現象だから同じ人、とまでは言えませんよ。逆に、遠くにいたから絶対に違うとも、魔法のことを全部知っているわけではない以上、私には言えません」
「先生でも分からない?」
「分からないことは分からないです」
オリビアはすぐ近くでその話を聞いていましたが、何も説明しませんでした。
「オリビアはどう思う?」
チャトラに聞かれても、
「北の港、いろいろ大変そうだね」
とだけ答えました。
それ以上、話は続きませんでした。
◇ ◇ ◇
北の国の租借地では、皇帝の帰国経路について別の検討が続いていました。北の国の別港へ陸路で移動し、そこへ入港する予定の帝国商船を一時的に海軍が接収する案も出ています。
「商船でも、本国まで航海すること自体はできるのだろう?」
「はい。ただ、陛下をお乗せするとなると、別の問題がございます」
海軍士官の返答を聞いて、皇帝は先を促しました。
「気になることがあるなら聞かせてほしい」
「陛下がこの港で足止めされていることは、すでにかなり広まっています。沿岸船の船員も商人も知っています。陛下を乗せた商船がどれか分かれば、海賊にとっては非常に大きな獲物になります」
「積荷より、余の身代金の方が高くつくということだね」
「そう考える者は多いでしょう」
皇帝は地図から目を上げました。
「護衛を付ける方法はどうだろう」
「危険は減らせます。ただ、その護衛艦をどこから回すかが問題になります。この港へ入れれば、先ほどと同じことが起きるおそれがあります」
「なるほど。では、余の身分を伏せて商船へ移す方法は?」
若い士官が慎重に口を開きました。
「護衛を最小限にして、商人の一行に見せかける方法も考えました」
「それなら、余がこの港からいなくなった直後に出た帝国商船を調べられたら、すぐ分かってしまいそうだ」
海軍士官もうなずきます。
「港で働く人間だけでも相当数です。皇帝陛下が足止めされている話は、もう港じゅうに広まっています。新しく補給を積んだ帝国商船が出れば、船員の噂から海賊側へ伝わる可能性も高いでしょう」
「海の上では我々の方が強いはずなのに、余を乗せた商船は海賊を呼び寄せる船になってしまうのか」
「陛下を失う危険を考えると、私は勧められません」
「分かった。商船で急いで出る案はやめておこう」
別の港に帝国軍船を回し、皇帝一行が陸路で移動する案も検討されました。
地図が広げられます。
「南の租借地まで陸路で移動できれば、あちらには帰国に使える軍船があります」
「東の大国を通る区間は、どのくらいになる?」
「途中で東の大国領を通る区間があります。ただ、100kmには届きません」
「その区間だけ通過許可が得られれば、今のところ一番早そうだね」
「はい。北の国から南の国まで海路で移ろうとすれば、この港から船を出すところで詰まります。陸路なら、東の大国を通過できれば最短です」
帝国側は通過許可を申請しました。
ところが、届いた返事は「通過を認めない」でした。
「通過は認めない、という返事なのだね」
皇帝は、届けられた文書を読み直しました。
「はい」
「理由について、何か説明はあるのかな」
「詳細までは。ただ、北の国の租借地で起きた、東の大国在住者に対する施設利用上の扱いについて、すでに報告が中央へ届いているようです」
皇帝はすぐに誰のことか分かりました。
「女王が共同食堂で受けた扱いの件だろうか」
「その可能性が高いと思います」
「本人から、我々を通さないよう求める話が出たのかな」
「本人からそういう要請が出た記録は出ていません。ギルドから事実関係が報告され、それを受けた東の大国側の判断です」
◇ ◇ ◇
東の大国の中枢へ届いていたギルドの報告には、オリビア自身が話した範囲だけが書かれていました。
北の国にある帝国租借地を訪れたこと。共同食堂が二つに分けられていたこと。宗教上の食事規則が理由として説明されていた一方、入口では宗教や食事内容ではなく住所を聞かれ、東の大国に居住していると答えたため海の向こう側の施設を利用できなかったこと。
港の帆船については、一行も書かれていません。
その報告は、東の大国に領地を持つエンシェントエルフの侯爵とハイエルフの侯爵の目にも入りました。
「オリビア陛下が、自分から処分や制裁を求められたのですか?」
ハイエルフの侯爵が確認しました。
「その記録はない。本人は、食堂で受けた扱いをギルドで話しただけだ」
「なら、本人の要求扱いにはできませんね」
エンシェントエルフの侯爵も報告書を読みました。
「それでも、こちらに住む者を住所だけで振り分けたという事実は残ります。しかも、場所は外国の租借地です」
「そういうことです」
そこへ、帝国皇帝一行の領内通過申請が重なりました。
「北から南へ抜けるため、100kmにも満たない区間だけ通過したい、という申請です」
「つい先日、東の大国に住んでいるという理由でこちらの住民を自分たちの施設から外した側が、今度は皇帝の帰国路としてこちらの領土を使いたい、ということですね」
言葉は静かでしたが、会議の空気は重くなりました。
この地域の軍事を実質的に取り仕切る辺境伯にも、同じ報告が送られました。辺境伯は帝国との戦争で何が起きたかも知っています。丘の下町まで砲弾が届き、住民が死に、陸戦隊が町へ入ったことは、まだ生々しい記憶です。
辺境伯は国境を閉じるほどの命令までは出しませんでした。通常の往来まで止める理由はないからです。
ただ、帝国皇帝の武装した一行については別でした。
「許可が出ていない以上、皇帝一行であっても通常の手続きどおりに扱ってください。もし国境へ来た場合は、上へ確認が取れるまで通過を認めないように」
それだけの指示で十分でした。
東の大国の軍は国境で平常の配置を保っていました。ただし、帝国皇帝の一行については通常の往来とは別に扱う方針が、現地まで明確に伝えられていました。
◇ ◇ ◇
北の租借地にいる皇帝側にも、その空気の変化は伝わりました。さらに、東の大国側で誰がこの件を把握しているのかという情報も届きます。
東の大国の中枢には、エンシェントエルフとハイエルフの侯爵がいます。どちらもエルフ国の客人ではなく、東の大国に領地と生活基盤を持つ正式な侯爵です。そして、この地域の軍事を実質的に取り仕切る辺境伯にも、同じ話が伝わっていました。
「辺境伯のところまで話が届いているのだね」
「はい。国境周辺の警戒も、普段より慎重になっています」
「こちらが許可を待たずに進もうとすれば、どう見られるだろう」
「東の大国側は、軍事行動と受け取る可能性があります」
部屋にいた者の一人が、低い声で言いました。
「それは避けるべきです」
皇帝がそちらを見ます。
「その理由を聞かせてもらえるかな」
「この大陸で東の大国と陸上戦を始めれば、こちらが困ります。北の国も南の国も、東の大国の陸軍と正面から戦えば数日で国土を蹂躙されると考えています。両国が我々のために東の大国へ圧力をかけることもないでしょう」
「我が帝国は海の上なら強い」
「はい。しかし陛下はいま、この大陸の陸上におられます」
皇帝は地図を見ました。
海の向こうの帝国は、長く海軍力を背景にこの大陸へ租借地を持ち、1000年という長い期間の権利まで得ました。ところが、その租借地の港から皇帝自身を出せなくなった途端、海軍の優位は急に使いにくくなっています。
「東の大国の町へ砲弾を撃ち込み、陸戦隊まで入れた側が、今度は皇帝を帰すために領内を通してほしいと頼んでいる。相手から見れば、ずいぶん都合のいい話だね」
皇帝が自分で言いました。
誰も否定しませんでした。
「ここまで大きな対立にならずに済んでいること自体、幸運だったと考えた方がよいのかもしれないな」
しばらく沈黙が続きました。
その日の最後に、行政官が一つだけ変わった案を出しました。
「冒険者ギルドへ依頼してみてはどうでしょう」
「ギルドに?」
「北の国から南の国までの要人輸送です。条件は、東の大国領を通らないこと。こちらで経路を指定せず、達成できる者がいるかだけを問います」
皇帝は地図から顔を上げました。
「受けられる者に心当たりはあるのかな」
「そこまでは分かりません。ただ、こちらで経路を限定して行き詰まるより、ギルド側に方法を任せる余地はあります」
「成功の見込みを読める段階ではない、ということだね」
「はい。一か八かに近いと思います」
皇帝はそこで初めて少しだけ笑いました。
「それなら、依頼を出してみよう。普通の方法は、もう十分に試した」
こうして、北の国から南の国まで、東の大国領を通らずに要人を輸送するという、妙な依頼が冒険者ギルドへ出されることになりました。




