第68章 オリビアはペンキまみれの3人をきれいにします。 皇帝の思うところ。
第68章 オリビアはペンキまみれの3人をきれいにします
オリビアがしらかば亭の部屋で夕方寝をしているころ、海の向こうの帝国の皇帝は丘の下町へ向かっていました。
一行は、新しくできた切り通しへ入ります。
皇帝は馬車の窓から左右を見上げました。道路の両側は大きく削り取られ、その間を幅の広い道が通っています。上を見ても、削られた斜面の端がかなり高いところにあります。
(……大きいな)
新しい道路ができたことは、報告で聞いていました。
けれども、「新しい道路ができた」という数行の報告から想像していたものと、実際に自分の目で見るものはまるで違いました。
(これだけの土を動かしたのか)
皇帝は、斜面の上から下までを目で追いました。
道を少し広げたとか、古い道を平らにしたという規模ではありません。丘そのものを切り開いて、馬車がそのまま通り抜けられる道にしています。
(この国は、必要だと決めたら、地形の方を変えるのか)
東の大国が陸軍中心の国であることは知っています。陸上交通を重視するのも不思議ではありません。
それでも、これほどの工事を短い期間で終わらせていることは別の話でした。
(軍隊を動かすにも、物を運ぶにも、この道は使える)
皇帝は、ただ便利な道路として見ることができなくなっていました。
道路が通れば、人だけでなく食料も資材も大量に動かせます。丘の向こう側へ行くために細い古道を越える必要もありません。
戦争を始める前に、この国のこういう力をどこまで調べていたのだろう、と考えました。
切り通しを抜けると、一行は取り付け道路へ入ります。
今度は景色がまるで違いました。
道の両側に、レモンとオレンジの木が続いています。
枝には、レモン色に熟したレモンと、鮮やかなオレンジ色に熟したオレンジがびっしりと実っていました。
(今度は何だ)
皇帝は思わず、さっきまで見ていた切り通しのことを忘れて、果樹の方を見ました。
どの木にも、食べごろに見える実がたくさんついています。
(道路を造ったという話は聞いた。だが、こんな通りまで造ったという話は聞いていないぞ)
実のなる季節のセビリアのような景色が、道路に沿って続いていました。
単に道端へ木が植えてあるという感じでもありません。黄色と橙色の実が両側へ続くので、進む先まで色がついて見えます。
皇帝は、ここへ来るまでに何度か報告書へ目を通しています。
けれども、報告書の文字だけでは、この道路を通ったときにどう見えるのかまでは分かりませんでした。
(報告というのは、便利なようで、ずいぶん抜け落ちるものだな)
そんなことを考えているうちに、慰霊碑へ近づいていきます。
今度は、道路の外側に色とりどりの花が増えてきました。
慰霊碑の周囲まで来ると、花壇だけではありません。空き地まで、花を咲かせた植物で埋め尽くされていました。
皇帝は馬車を降り、その景色をしばらく見ました。
(これは……)
目の前には、慰霊のために整えられた石碑があります。
その周囲には、生きた花が咲き乱れていました。
皇帝側でも、もちろん何も持たずに来たわけではありません。
慰霊碑へ捧げるために、切り花で作った花輪を用意してあります。
(ここへ花輪を置くのか)
予定どおり花輪を運ばせ、慰霊碑へ捧げました。
けれども、辺り一面に根を張った植物が生きたまま花を咲かせている中へ、用意してきた切り花の花輪を置くと、どうにも今ひとつでした。
皇帝は花輪を見てから、もう一度、慰霊碑の周囲を見ました。
(こちらは、持ってきた花を置くだけか)
もちろん、それが悪いわけではありません。
外交上の弔意としては、ごく普通のことです。
それでも、目の前の花の方がずっと自然にこの場所へ馴染んでいました。
続いて皇帝は慰霊碑の前に立ちます。
ここで読む言葉も、すでに用意されています。
側近たちが考え、何度も文面を整えたものです。
皇帝は、その文章を読み上げ始めました。
少し読むごとに、通訳が東の大国側の言葉へ訳し、集まった人たちへ伝えます。
侵攻によって亡くなった人たちへの哀悼と謝罪。
これから両国が同じような出来事を繰り返さないこと。
今後の関係を穏やかなものにしていきたいこと。
文章としては、よくまとまっています。
言葉遣いも整っています。
余計なことを書いて外交問題を増やさないように、注意深く作られた文章です。
だからこそ、皇帝には分かりました。
(いかにも役所で作った文章だな)
間違ったことは書いてありません。
けれども、この慰霊碑の前で読むための言葉というより、どこの慰霊碑へ持っていっても使えそうな文章にも見えました。
(取って付けたような言葉だ)
皇帝自身が考えた言葉ではありません。
側近たちが必要なことを並べ、問題になりそうな表現を外し、皇帝が読む文章として仕上げたものです。
その文章を皇帝が読み、さらに通訳が別の言葉へ置き換えて、集まった人たちへ伝えています。
(これで、どこまで伝わるのだろうな)
皇帝は読みながら、そんなことを考えました。
人々の表情を見ても、熱心に聞き入っているようには見えません。
だからといって、ここで用意した文章を途中でやめるわけにもいきません。
皇帝は最後まで読みました。
「死人に耳なしだな」
集まった人の中から、そんな声が聞こえました。
皇帝にも声が上がったこと自体は分かりました。
しかし、通訳はその言葉を皇帝には伝えませんでした。
皇帝には、何と言われたのか分かりません。
少なくとも、歓迎の言葉ではなさそうだということだけは、周囲の空気から感じられました。
皇帝は慰霊碑を見ました。
ここに名前を残すことになった人たちは、海の向こうから来た軍隊に生活を壊された側です。
いま自分が読む文章だけで、その事実が消えるはずもありません。
そして、この場所まで来る途中に見た切り通しを思い出しました。
(東の大国と戦ったのは、明らかに情報不足だった)
それはもう、言い訳のできる程度の不足ではないと思いました。
海の向こうにある国だから、自分たちの艦隊を送り込めば主導権を取れる。
少なくとも、作戦を立てた側はそう考えていました。
けれども、実際にはそうならなかった。
海軍をほとんど持たない相手だったのに、こちらの艦隊は思いどおりに動くことさえできませんでした。
そして、その国の陸上には、いま目の前で見たような工事を行える力があります。
(海のことしか見ていなかったのか)
相手に大きな外洋海軍がない。
それを、相手が弱いことと取り違えていたのかもしれません。
東の大国は、そもそも海へ力を振り向けていない国でした。
陸軍を中心に国を作り、必要なところへ道路を通し、陸上で大量の人と物を動かせるようにしている。
その国へ、海の向こうから艦隊を送ったのです。
(ずいぶん都合のいいところだけを見て、戦争を始めたものだ)
皇帝は、自分が承認した作戦だけの話とは考えていませんでした。
帝国側全体が、相手のことを十分に知らないまま進んでいました。
戦ってから初めて知ったことが多すぎます。
そして今になって、別のことにも気づいていました。
(無事に済んだのは、陸軍中心の国だったからだ)
東の大国がこちらへ大規模な報復をしなかったことを、帝国側に対して寛大だったからだと考えることもできます。
けれども、それだけではありません。
東の大国には、強大な陸軍があっても、その力をそのまま海の向こうまで運ぶ外洋海軍がありませんでした。
もし、この国が陸上で持っている力と同じ規模のものを海上にも持っていたら。
もし、大軍を海の向こうへ送り、帝国本土まで届けられる国だったら。
戦争のあと、自分たちが謝罪や買い戻しの話をしているだけでは済まなかったかもしれません。
自分たちが海を越えて攻めたのだから、相手も海を越えて来る。
それが可能な国だったなら、帝国側は何をされても不思議ではありませんでした。
皇帝は、切り通しの巨大な斜面を思い出しました。
あれだけのものを造る国の力が、そのまま艦隊になって海の向こうから来るところを想像しました。
(……陸軍中心の国で、本当によかった)
慰霊碑の前で考えることとしては、ずいぶん自分勝手です。
それでも皇帝は、今さらながら、心の底からほっとしていました。
そのとき、人の間からバケツを持ったおばさんが前へ出ようとしました。
バケツの中にはペンキが入っています。
皇帝たちへ向けて、それを浴びせようとしました。
「止めろ!」
東の大国側の警備兵がすぐに動きました。
おばさんは皇帝たちのところまで近づくことができず、帝国側の人たちにはペンキはかかりませんでした。
ところが、おばさんはペンキの入ったバケツを持ったまま走り出しました。
「逃げた!」
「追いかけよう!」
警備補助をしていたチャトラ、ミミ、タマの3人が、すぐに後を追いました。
「待ちなさい!」
それほど遠くへ行く前に、3人はおばさんへ追いつきました。
「捕まえた!」
取り押さえた拍子に、持っていたバケツが大きく傾きました。
「きゃっ!」
「うわっ!」
中のペンキが3人へまともにかかりました。
チャトラも、ミミも、タマも、頭から服までペンキまみれです。
「なにこれー」
「髪までついた」
そこへ警備兵の上司がやって来ました。
捕まえたおばさんは警備兵たちが引き取り、上司はチャトラたちの警備補助の依頼書を確認しました。
「ここまででいいよ。依頼書にサインしておくから」
「ありがとうございます」
上司はサインをすると、3人の姿を見ました。
「それより、早くそのペンキを落とした方がいいよ。そのペンキ、固まるよ」
「えっ」
「これ、固まるの?」
「急ごう!」
優しい上司さんです。
チャトラたちは、サイン済みの依頼書を持って、頭からペンキをかぶったまま丘を駆け上がりました。
冒険者ギルドへ戻ると、まず受付のお姉さんのところへ向かいます。
「警備補助、終わりました」
依頼書を渡しました。
受付のお姉さんがサインを確認している間にも、ギルドの中では3人の姿が目立っています。
仕事を終えて一杯やっていた冒険者たちが、こちらを見ました。
「ずいぶん前衛的なおしゃれしてるな」
笑い声が上がりました。
「笑わないでよ」
「これ、早く落とさないと固まるんだから」
依頼書の確認が終わり、3人は警備補助の報酬を受け取りました。
チャトラが受付のお姉さんに聞きます。
「オリビア、いますか? 洗浄魔法をかけてもらいたいんです」
「ここにはいませんよ」
「どこにいそうですか?」
「しらかば亭じゃないかな」
「行こう」
3人はそのまま、しらかば亭へ向かいました。
店へ入ると、オリビアは夕食を食べていました。
今日の夕食は唐揚げです。
ペンキまみれの3人が入ってくると、オリビアは箸を止めました。
「ずいぶんな状態になったね」
「ペンキかぶっちゃった」
「早く落とさないと固まるって言われたの」
オリビアは3人と一緒に外へ出ました。
細かく事情を聞かなくても、3人についているペンキは、丘の下町でオリビアが消した落書きと同じ色でした。
オリビアは、さっき使ったペンキの成分指定で、3人まとめて洗浄魔法をかけました。
「わっ」
「なんか引っ張られる」
「くすぐったい」
洗浄魔法は、溶媒でペンキを溶かして落とす魔法ではありません。指定した成分を、皮膚や髪、服から物理的に分離していきます。そのため、付着したペンキが剥がされるときに、少し引っ張られるような感覚がありました。
分離されたペンキは、洗浄魔法の水で流されていきます。剥がしたペンキを含んだ洗浄用の水も、その場へ流したままにはせず回収されました。
髪についていたペンキも、顔についていたペンキも、服についていたペンキも、きれいになくなりました。
「ほんとに全部取れた」
「髪にも残ってない」
「服も大丈夫」
3人は自分たちの服を確認しました。
服に付いたペンキも完全に取れています。
幸い、ペンキに使われていた溶媒で、服そのものの柄が流れたりもしていませんでした。かなり速乾性の高い溶媒だったようです。
3人まとめて、元通りきれいになりました。




