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第60章 オリビアは租界を見に行きます。

第60章 オリビアは租界を見に行きます


 通信課程へ戻れることが分かってから、オリビアは昔の続きのように教科書を読む時間が少し増えました。約100年前の学生証がまだ有効で、課題提出80回、スクーリング40回、卒業に必要な単位も半分ほど残っています。スクーリングは都合の合う日に参加しながら進められ、夜に授業を見に行ったときには新しい学生証まで作ってもらいました。


 その教科書の中で、少し気になった言葉があります。


「租界かあ」


 日本にいたころにも、社会科の教科書で上海などの租界を読んだことがあります。国の中に外国人が強い権利を持つ区域があり、国ごとに別々の租界が置かれているところもありました。写真や地図で見てきた租界を、自分の足で歩くのは今回が初めてです。


「見てみたいな」


 大きな目的があるわけではなく、社会科見学に近い興味でした。


 このあたりから行ける租界を、神様がこの世界に合わせて書き換えた帝国書院の地図帳で探します。北の国にも、南の国にも、海の向こうの帝国が持つ租界があります。


 最初は北へ行こうと思いました。国境そのものは北の方が近そうです。


 ところが、地図の縮尺を見ながら距離を測ると、北の国の租界がある港町はここから約200kmあります。国境を越えたあとも、かなり北へ進まなければなりません。


「遠い」


 南の国の租界は約50kmでした。


「租界が見たいだけなので、南へ行こう」


 目的地はすぐ決まりました。


 朝、しらかば亭で朝食を食べると、昼食用のお弁当も作ってもらいました。


「ありがとうございます」


 受け取ったお弁当は収納へ入れます。収納の中では時間が止まるので、食べるまで朝の状態のままです。


 宿の外へ出るとTALONを出しました。乗らないときは収納へ戻すいつもの運用です。


 今日は海岸沿いを走るつもりでした。天気もよく、急いで50kmを消化するより、海や町を見ながら進む方が楽しそうです。


「まず3分の1くらい」


 自分とTALONへかかる下向きの重力の有効値を、およそ3分の1にしました。体重も自転車の荷重も、路面から見ればかなり軽くなります。


 そこへ、進行方向へ少しだけ重力成分を加えます。


 ペダルを踏む力に、前向きの加速が足されました。


「このくらいかな」


 以前なら数式を書きながら、重力の大きさと向きを何度も調整していました。前向き成分を強くしすぎれば加速しすぎます。弱すぎれば普通に自転車をこぐのとあまり変わりません。下向き成分を減らしすぎると、タイヤへかかる荷重まで小さくなります。


 最初のころは、進行方向を単位ベクトルにして、下向き成分と前向き成分を分け、実際に走りながら数字を直していました。


 今は、身体の感覚でかなり調整できます。


「自転車と同じですね」


 最初はハンドルを何度動かせば曲がれるか計算しないと分からないようなものでも、何度もやれば身体の方が覚えます。重力操作も同じでした。


 海岸沿いの道には起伏が続きます。砂浜や小さな港の間に岬が入り、そのたびに道が斜面を上ります。


「上り坂」


 前向きの重力成分を少し増やしました。


 ペダルを踏みながら坂を上がっていきます。自転車と身体へかかる有効な重さ自体も3分の1ほどなので、普通ならかなり速度が落ちる勾配でも楽に進めました。


 峠を越えて下りへ入ると、今度は前向き成分を弱めます。速度が出すぎそうなら、ほんの少し後ろ向きへ重力を傾ければ、その分だけ減速側へ働きます。


「ブレーキだけより調整しやすいかも」


 曲線でも遊べました。


 自転車が曲がれば身体には直進しようとする慣性が残ります。そこで曲がりたい側へ横向きの重力成分を加えます。タイヤだけに曲がるための力を任せず、自分とTALONそのものへ内側向きの加速を足してやれば、曲線に沿わせやすくなります。


 右へ曲がるところでは右へ。左なら左へ。


「これくらい」


 曲率が大きいところでは少し強く、緩い曲線では弱くします。数値を決めてから走るのではなく、速度と曲がり方を見ながら調整するので、操作そのものが楽しくなっていました。


 道のわずかな段差や起伏でTALONが跳ねると、それも試してみます。


「もう少し軽くしたら……」


 跳ぶ直前に下向きの重力をさらに弱めると、思ったより高く浮きました。空中にいる間も重力の向きを変えられるので、着地点を少し前へずらすこともできます。


 着地前には有効重力を小さくして、落下による衝撃を減らしました。


「面白い」


 早く着くことだけなら飛行魔法の方が簡単です。それでも今日はTALONで走っています。式を変えるとどう動くのか、前向き、後ろ向き、横向き、下向きを少しずつ変えると、身体と自転車の動きがどう変わるのか。それを試しながら進むこと自体が楽しいのです。


 いくつかの海辺の集落を通り抜けると、やがて国境の町へ着きました。


 そこで、妙に大きな建物が道をふさいでいます。


「相変わらず大きいですね」


 旧神聖ボグダン王国、みんながヘタレ国と呼んでいた国が造った国境門です。実際の交通量と比べて、どう考えても大きすぎます。


 正面には大きな看板が8枚並んでいた跡がありました。今は外されていますが、看板の下になっていた壁だけ紫外線による色あせが少なく、四角い濃い跡がそのまま残っています。


 取り外した看板そのものは、建物の脇へ雑に置かれていました。


「富強、民主、文明、和諧、自由、平等……」


 8枚のうち、オリビアが読めるところにはそんな言葉が並んでいます。


「言葉は悪くないんだけど」


 どれも、国を運営するならわざわざ巨大な門へ掲げなくてもよさそうなほど一般的な言葉です。


 実際のヘタレ国で目立っていたのは、不正、借金、詐称の方でした。学校では王家の神話を国史として教え、末期には単位取得証や卒業証書、貴族称号まで金銭で扱っていました。


「看板に書けば実現するものでもないよね」


 オリビアはTALONを収納し、出国手続きの列へ入りました。


 ここで少しだけ困るのが旅券です。


 オリビアはパスポートを持っていません。


 エルフ国の普通の国民が使う旅券は、国家元首の署名によって有効になる仕組みです。その国家元首が自分です。


「自分で自分の旅券に署名するのも変だよね」


 日本にいたころに知った例を思い出します。英国王は、英国旅券が国王の名によって発給されるため、本人は英国旅券を必要としません。他の王族は旅券を持ちます。


 日本の天皇も外国訪問では通常の旅券を用いず、英国とは別の仕組みで扱われます。日本の旅券制度は外務大臣が発給する形で動いています。天皇や皇族の身分事項は皇統譜で扱われ、一般人のような戸籍上の姓と名を前提にした仕組みへそのまま当てはめにくいところがあります。姓と名を必須にする電子的な入力欄なども、その典型でした。


「珍しい立場の人って、普通の人向けの仕組みから外れるんだ」


 自分も同じです。


 そこで出したのは冒険者カードでした。


 これはエルフ村の身分証とは別に、冒険者ギルドが発行したカードです。表面はほぼ名前だけですが、権限のある読み取りでは種族、身長、髪や目や肌の色、年齢、仕事の記録、残高、確認された武器や魔法などが入っています。


 収納魔法は登録していません。登録すると、国境や町の入口で中身を確認する話になりやすいためです。


「冒険者カードですね」


 係員はカードを確認しました。この経路では冒険者カードで出入国でき、ビザも要りません。パスポートを使う経路とは別なので、旅券の確認も行われませんでした。


 手続きを終えると、出国時のカードを渡されます。


「帰りに使いますので、なくさないでください」

「はい」


 国境そのものは、小さな流れでした。


「門の大きさと全然合わない」


 小川を渡ると、すぐ南の国の国境施設があります。こちらは交通量に合った普通の大きさでした。


 冒険者カードを出して入国手続きをします。


「2/10フローリンです」

「はい」


 オリビアは0.2フローリンを支払いました。


 フローリンは南の国の国内通貨とは別ですが、国際的に広く使われ、米ドルのように外国でも普通に受け取られる通貨です。国境の公的な手数料も、そのままフローリンで払えました。


「自転車はご自分で使うものですね」

「はい」

「それなら関税はかかりません」


 TALONは自分で乗るための自転車なので、個人使用として免税扱いです。


 手続きを終えて南の国へ入り、少し離れてからTALONを出しました。


 走り始めると、町並みの違いがすぐ見えてきます。


「こっちの方が古い建物が多い」


 旧ヘタレ国側は、東の大国へ編入されたあとに建てられた建物が多く、意外なほど新しい町並みになっています。経済が動き始めたあと、大きな資本も入ってきました。


 南の国側には、昔から使われてきた建物がそのまま残っています。小さな用品店、食料品店、家族経営らしい食堂などが道沿いに続きました。


 旧ヘタレ国側では、こうした小さな個人商店をあまり見ません。


 聞いた話では、以前の税負担が重く、個人で店を続けること自体が難しかったようです。そこへ編入後、東の大国の資本を背景にした大きなチェーン店が入ったので、新しい大型店が目立つ町になりました。


「同じ国境の両側でも、ずいぶん違うね」


 さらに港へ近づくにつれて、町の空気も変わってきます。


 人通りが増えた一方で、道端でこちらを見る視線も増えました。エルフの服を着て、まっすぐな長い金髪で、耳もそのまま見えています。誰が見ても外国人と分かる姿です。


「少し怪しい感じがする」


 オリビアは、第5層へ入る前に作った防御魔法を町向けに組み替えました。


 ダンジョンでは「危害を加える意図を伴って外から入ってくる物体」を対象にしていました。今回は、意図の判定だけに頼らず、オリビアや指定した防御範囲へ衝突する軌道に入ったものを拾います。子どもが投げた石でも、後ろから伸びるすりの手でも、軌道を見れば先に分かります。


 石や飛来物はM⁻¹、つまり質量を1/1000000へ落とします。武器による攻撃もM⁻¹です。人が素手でぶつかってくるだけならk⁻¹、1/1000で足ります。武器を使って攻撃する場合は、武器と、それを保持して攻撃している人全体を1つの対象としてM⁻¹にします。


 減った質量は、ダンジョンで作った式と同じように金へ変換して収納へ送ります。変換ロスは0で、光や熱へ逃がしません。


 体積はそのままです。


 そのため質量を大きく減らしたものには、空気抵抗や浮力の影響が一気に大きくなります。元から持っていた運動量や運動エネルギーも、質量を減らした分だけ小さくなります。


「人はkでいいかな」


 そこまで考えて、少しだけ気になることもありました。


「でも、殴ってきた人を私が払いのけたら危ないかも」


 1/1000になったあとで、オリビアが新しく力を加えれば、その小さな質量は簡単に大きく加速します。意図的に襲ってくる人をどこまで守るかは、エルフの感覚では大きな問題になりません。それでも、なるべく余計なことをしない方がよさそうです。


「触らなければいいですね」


 防御魔法を常時発動にして、再びTALONで進みました。


 やがて道路の先に、租界の入口が見えてきます。


 こちら側には南の国の人が歩いているのに、道を越えた先では衣服が明らかに違いました。話している言葉も変わっています。


「ここからなんだ」


 海の向こうの帝国の言葉が、普通の町の言葉として聞こえていました。






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