第59章 オリビアは夜の学校を見に行きます。帰りはチャトラたちと4人いっしょ。
第59章 オリビアは夜の学校を見に行きます
チャトラが冒険者ギルドから走って出ていったあと、オリビアはしばらく入口の方を見ていました。昼間、丘の下町の総合庁舎で学校のことを調べてもらい、約100年前の学生証がまだ有効で、課題提出80回、スクーリング参加40回、卒業に必要な単位も半分ほど取得済みだと分かったばかりです。そして夜間休日課程にはチャトラたちも通っていて、そのチャトラはたった今、数学の授業へ向かいました。
「数学、何やってるのか聞けなかった」
オリビアは少し考えてから立ち上がりました。
「……見に行ってみようかな」
昼間はTALONを出して、丘の下町までの道をのんびり走りました。けれど外はもう暗く、同じ日に2回目の丘の下町へ向かうことになります。今度は飛行魔法の方が早そうです。冒険者ギルドを出て人通りの少ない場所まで歩くと、そこからふわりと地面を離れました。
夜になると丘の下町の灯りがよく見えます。昼間に走った道をたどるより、目的地へまっすぐ向かう方が簡単でした。
「一直線ですね」
オリビアはそのまま丘の下町へ向かいました。飛んでしまえば速いのですが、チャトラは先にギルドを出ています。総合庁舎へ着いたときには、チャトラの方が少し早く到着していました。
夜間休日課程の授業は本館ではなく、会議室が並ぶ別棟で行われています。昼間に見た総合庁舎よりも学校らしい雰囲気があり、窓には明かりがつき、仕事を終えてから来たらしい人や、夕食を済ませた学生が次々と建物へ入っていきます。
オリビアも入口から中へ入りました。
「こんばんは」
「こんばんは。あら、オリビアさん」
受付の人が顔を上げました。昼間とは別の人ですが、やはり名前を知られています。ここまで来ると、オリビアも気にしなくなっていました。
「授業を少し見せてもらいたいんです。それと、これを作り直してもらえますか?」
収納から約100年前の学生証を取り出して受付へ出すと、受付の人は表と裏を順番に見ました。
「神聖ボグダン王国スクーリング分校……ずいぶん古いですね」
「昼間、本館で在籍記録を調べてもらいました。まだ在籍中だそうです」
「ああ、記録が来ています。オリビアさんですね」
受付の奥は学校事務室も兼ねていて、夜間でも数人の事務官が働いています。夜の授業が動いている以上、出欠、教材、履修登録、証明書、学生証などを扱う事務も同じ時間帯に動いていました。古い学生証はすぐ奥の事務官へ回されます。
「新しい学生証を作れますよ。写真も撮り直します」
「お願いします」
オリビアはその場で写真を撮ってもらいました。古い学生証の写真と並べると、違うのは主に衣類です。顔も髪も体つきもほとんど同じで、100年前の写真と現在の本人がそのままつながります。衣類だけは普通に傷み、買い替えたり作り替えたりしてきました。
事務官が古い写真と今撮った写真を交互に見て、少し笑いました。
「本人確認は、とても簡単ですね」
「そうですね」
続いて登録内容の確認です。画面にはオリビアの本名が表示されていました。オリビア自身には普通の名前ですが、人間の発音器官では音にできません。
「お名前は、こちらの登録でいいですか?」
「はい。本名はそれです。呼ぶときはオリビアでお願いします」
「分かりました」
事務官は次の欄へ進みます。
「称号が、Queenになっています」
「合ってます」
「はい」
確認はそれだけでした。学校側の記録にも正式に入っている称号で、エルフの国の王なのですからQueenで正しいのです。
「発行まで少しかかります。授業を見学されますか?」
「はい」
「今日は数学がありますよ」
「数学!」
オリビアの声が少し明るくなりました。さっきチャトラに聞きそこねたばかりです。受付の人に案内されて廊下を進むと、会議室の1つが数学の教室として使われていました。
中にはかなり年齢の違う人たちがいて、若い人の隣に仕事帰りらしい大人も座っています。机の上に広げたテキストも、ノートに書いている内容もかなり違いました。
「後ろで静かに見ていただければ大丈夫です」
「ありがとうございます」
オリビアは教室の後ろへ入り、すぐにチャトラを見つけました。ノートには2本の式が並び、片方を変形してもう片方へ代入しています。
「連立方程式ですね」
声には出さず、そのまま視線を移します。少し離れた机ではタマが整数を小さな数へ分け、2や3や5で割りながら素因数分解を使った問題を解いていました。さらに向こうではミミの式に見覚えのある文字が出ています。
「……複素数」
実数に加えて \(i\) を使い、何かの計算を進めています。
3人とも同じ数学の時間に来ているのに、扱っている内容は完全に別々でした。周りを見るとさらに差があり、加減算の練習を繰り返す人、分数の計算を進める人、ノートにΣを書いて統計の計算をしている人までいます。
「……みんな、ばらばらね」
教室の前には主担当の先生がいて、さらに補助教員も入っています。全員が同じ説明を聞く一斉授業ではなく、学生が基本的にテキストを使って自分で進め、手が止まったところへ先生が入る方式でした。
主担当の先生は1人の学生の横へ行き、途中式を指しながら説明しています。その間に補助教員は別の机で分数を扱っている学生を見て、少しするとΣを使っている学生のところへ移りました。
チャトラも手を上げます。先生が来ると、チャトラは連立方程式の途中式を示しました。先生は止まった場所を確認し、必要なところを説明します。チャトラはそれを聞いて、もう一度自分で式を書き始めました。
「そういう授業なんだ」
オリビアには仕組みが見えてきました。まずテキストで勉強し、自分で進められるところは進み、つまずいたところをスクーリングへ持ってくる。だから同じ数学を履修していても、加減算を勉強する人と複素数を扱う人が同じ部屋にいます。
単位も、課題、テキスト学習、スクーリング、試験を積み上げて認定する仕組みに見えました。先生に答えを出してもらう場ではなく、自分で勉強を進めるための支援を受ける場です。
しばらく見ていると、先生たちはかなり忙しそうでした。見学者がいつまでも後ろに立っていると学生も気になるでしょうから、オリビアは邪魔にならないところで静かに教室を出し、受付へ戻りました。
「もういいんですか?」
「はい。面白かったです。数学って、みんな同じところをやるんじゃないんですね」
「ここでは、ああいうやり方です」
「補助の先生もいるんですね」
「補助教員が入ることが多いのは数学と自然科学くらいですね。テキストで進めてもらって、つまずいたところを見ますから、人によって質問する場所が全然違うんです」
自然科学なら、同じ教科の中でもさらに広がります。物理の計算で止まる人もいれば、化学の反応式で質問する人もいて、生物や地学の内容を持ってくる人もいるのでしょう。
「外国語も同じですか?」
「外国語は少し違います。習熟度で分けて、レベルごとに開講日を変えています」
「初級の日、中級の日、みたいに?」
「そうです。会話や発音もありますから、ある程度そろえた方が授業をしやすいんです」
教科によって運営方法まで変えているようです。オリビアは昼間にもらった履修要項を思い出しました。
「こういうやり方になったのは、昔からなんですか?」
「今の運営になったのは、ヘタレ国がなくなってからですね」
神聖ボグダン王国。ボグダンは「神から与えられた」という意味で、王家は自分たちの国を神から授けられた国とする建国神話を持ち、それを国史の中へ組み込んでいました。正式国号だけを見ればかなり立派ですが、勝てそうにない相手へ何度も戦争を仕掛け、そのたびに負け、ほかにも数々の問題を積み重ねました。
そのため世の中のほとんどの人は、神聖ボグダン王国より「ヘタレ国」と呼びます。正式名称が使われるのは、公文書や行政手続きなど、国号を正確に書く必要がある場面が中心でした。
「学校も、かなり変わったんですか?」
「変わりましたよ。末期はひどかったですから」
「昼間、王家の神話を国史で教えてたって聞きました」
「それもあります。もっと困っているのは単位の方ですね」
「単位?」
「手数料を取って、単位取得証を出していた時期があるんです」
「勉強してなくても?」
「記録上は単位を取ったことになっているものがあります」
オリビアは少し黙ってから、さらに聞きました。
「それ、卒業証書もですか?」
「あります。修了証明書も卒業証書も、他国では効力を認めてもらえないものがかなりあります」
「今はここ、東の大国ですよね」
「東の大国でも同じ扱いです」
「自分の領土になったのに?」
「今の東の大国が発行した証明書とは別ですから。旧神聖ボグダン王国が出した書類は、内容を確認してから扱います」
受付の人はさらに続けました。
「貴族称号まで販売していましたからね」
「称号も?」
「ええ。手数料を払って称号を得た人がいます。本当に功績や家系で与えられた称号なのか、販売された称号なのか、書類だけでは判別しにくいものもあります」
学校の卒業証書だけの話ではなく、国家が発行した証明そのものの信用が崩れていたようです。オリビアにも、みんながヘタレ国と呼ぶ理由がまた1つ増えました。
「じゃあ、昔の単位は全部調べ直してるんですか?」
「今、どこまでを無効扱いにするか検討中です」
「大変そう」
「大変です。卒業生の方が生きていらっしゃれば、再テストという方法もあります。ただ、80歳、90歳の方へ何十年も前の科目をもう一度受けてもらうのは難しいです」
「そうですよね」
「特にひどくなったのは30年くらい前からです。その時期だと、今50代くらいの方もいます」
「その人たちは再テストになるかもしれない?」
「資格や進学で単位の確認が必要なら、そういう扱いになる可能性があります」
古い記録より、比較的新しい記録の方が処理に手間がかかるという妙な状態でした。
「オリビアさんの単位は大丈夫ですよ」
「ほんと?」
「はい。まだ学校がまともに運営されていた頃です。課題提出80回、スクーリング40回、履修記録も成績記録も残っています。記録同士も合っていますから、そのまま有効です」
「よかった」
約100年前の単位の方が、30年前の単位より信用される学校です。
「公務員も入れ替わったんですよね」
「ほぼ総入れ替えです。今の行政職員は、東の大国の制度で採用された人が中心です」
「昔の書類を、今の人が調べ直してるんだ」
「そういう仕事も多いですね」
学校だけでもかなりの量でしょう。称号、卒業証書、修了証明書、単位取得証、そのほかの行政書類まで、東の大国へ編入されたあとも確認作業が続いています。
「あ、できましたよ」
奥から事務官が出てきて、新しい学生証を差し出しました。
「学生証です」
「ありがとうございます」
上部には『東の大国辺境丘の下町分校』とあります。古い学生証の『神聖ボグダン王国スクーリング分校』から、学校名がすっかり変わりました。
氏名欄には本名が入り、人間には発音できないため呼称としてオリビアも登録されています。そして称号欄には『Queen』と明記されていました。
「古い学生証もお返ししますね」
「はい。取っておきます」
100年前の学生証と新しい学生証を並べると、写真の衣類と学校名が大きく変わり、本人の姿だけがほぼ同じです。
「これで、夜間休日課程も受けられますか?」
「受けられますよ。本校へ行ったときも同じ学生証で大丈夫です」
「講座って、途中から入っていいんですよね?」
「はい。開始日を決めず、半年分を循環させています」
「半年講座なのに?」
「今日から参加したなら、今日の内容から始めて、その科目が開講される日に続けて出席してください。半年後に今日の前の回まで来れば、半年分が一周します」
オリビアはすぐ理解しました。
「演劇を途中から見て、最後まで見て、次の公演で最初から途中まで見る感じですね」
「そうです。ちょうどそんな感じです」
「それなら、いつからでも入れますね」
「仕事をしている学生が多いですから。入る時期をそろえるより、この方が通いやすいんです」
オリビアは新しい学生証をもう一度見てから、数学のことを尋ねました。
「数学も、もっと先まであるんですか?」
「ありますよ。履修要項に載っています」
昼間にもらった履修要項を収納から出して数学のところを開くと、日本で通っていた女子高校で習っていた範囲、その先、さらに先まで講座が続いています。
「これ、私が学校で習ってたところより先があります」
「履修条件を満たせば取れますよ」
「やってみたいです」
オリビアの顔が明るくなりました。加減算を練習している学生もいれば、分数で苦労している人もいて、チャトラは連立方程式、タマは素因数分解を使う問題、ミミは複素数、さらにΣを使って統計を勉強している人もいます。その先には、オリビア自身がまだ習っていない数学まで用意されています。
この学校なら、知っていることを見せる側に回るばかりではなく、自分も続きを習えます。
「……神様、こういうところまで考えてたんだ」
オリビアは小さくつぶやきました。
スマートフォンは鞄から消えていました。この世界で使い道を失うものは神様が整理した一方、約100年前の学生証は残され、在籍記録も単位も生きています。しかも日本の高校で止まったところから先へ進める講座までありました。
世界へ関わるための知識だけを持たされたのではなく、オリビア自身が学生として学び続ける道も用意されていたようです。
しばらくすると、廊下の向こうがにぎやかになりました。数学の授業が一区切りついたらしく、チャトラ、ミミ、タマが教室から出てきます。
「あ、オリビア。来てたんだ」
「うん。授業、後ろから少し見てた」
「えー」
「チャトラ、連立方程式やってたね。タマは素因数分解してたし、ミミは複素数」
「そこまで見たの?」
「見えたから」
オリビアは新しい学生証を3人に見せました。
「私も、また学校に通えることになったみたい」
「ほんと?」
「今日、新しくしてもらった」
チャトラが受け取って、『東の大国辺境丘の下町分校』という学校名から順番に見ていきます。氏名欄まで来ると首をかしげました。
「名前、読めない」
「本名だからね。人には発音できないの」
「じゃあオリビアでいい?」
「それでいいよ」
さらに下には『Queen』とあります。チャトラはミミとタマにも見せました。
「まあ、オリビアだしね」
「うん」
「そうだね」
話はそれで終わり、3人の態度もいつも通りでした。オリビアは学生証を返してもらい、今度は学校の夕食の話になります。
「それより、今日の給食、親子丼だったよ」
「おいしかった」
「親子丼だったの?」
チャトラが少し止まりました。
「卵はカルボナーラにするより、親子丼にするべき」
「……今日の日替わり、おいしかったもん」
「親子丼もおいしかったよ」
「先に行った2人だけ食べてる」
「チャトラがギルドで食べるって決めたんでしょ」
「そうだけど」
4人で別棟を出ると、外はすっかり夜です。丘の上町へ戻る道も暗くなり、チャトラたちは歩いて帰るつもりだったようです。
「今日は一緒に飛んで帰ろう」
「4人で?」
「できるよ」
オリビアは4人それぞれにかかる重力の有効値を調整しました。人の体には体積があり、その分だけ周囲の空気を押しのけています。重力による重さを、その押しのけた空気の重さとほぼ同じところまで小さくすれば、体は非常に軽くなります。
体格が違うので調整量もそれぞれ別です。チャトラ、ミミ、タマ、そしてオリビア自身に合わせて重力を弱めると、3人の足がふわりと軽くなりました。
「わっ」
「浮く」
「変な感じ」
4人がほぼ同じ高さへ浮いたところで、オリビアは重力の方向をほんの少しだけ丘の上町側へ傾けます。すると4人の体がゆっくりそちらへ動き始めました。
「動いた」
「ほんとに飛んでる」
「手つないで。風の受け方が違うから、そのままだと少しずつ離れるよ」
4人で手をつなぎました。体格も姿勢も違い、風の受け方にも差がありますが、手をつないでいれば一団のまま進めます。
夜の丘の下町が少しずつ後ろへ流れていきました。足元には、昼間オリビアがTALONで走った道が暗く伸びています。今はその上を、4人で浮かびながら帰っています。
「明日も学校行くの?」
「まだ履修する科目を決めてない。でも数学は行きたい」
「数学好きなの?」
「好き。今日、履修要項見たら、前に学校で習ってたところより先があった」
「難しいの?」
「まだ習ってないから、習いたいの」
「へえ」
オリビアは少し嬉しそうでした。この世界へ来てから、知っていることを使う場面はたくさんありました。学校へ行けば、その反対に、自分が知らないことを習えます。
4人は手をつないだまま、夜の空をゆっくり丘の上町へ流れていきました。話題は学校の数学、給食の親子丼、チャトラが食べたカルボナーラ風のスパゲティー、明日は何の授業があるのか。派手な飛行魔法を使っているのに、中身は普通の学校帰りです。
オリビアは空の上で、今日一日のことを思い返しました。受験用に持ってきた鞄を開け、神様が書き換えた本を読み、昔の学生証を見つけ、昼には丘の下町へ行きました。まだ学校に在籍していると分かり、チャトラたちも同じ学校へ通っていると知り、夜には授業を見て、新しい学生証まで受け取りました。
そして今は、その学校の友達と一緒に帰っています。
「今日、いろいろありすぎたかも」
「そうなの?」
「うん」
チャトラたちは、今日のオリビアが昼間に何をしていたのか全部までは知りません。それでも4人は手をつないだまま、ほんの少し傾けた重力に運ばれて丘の上町へ帰っていきました。歩くより静かで、ずっと楽な学校帰りでした。




