第57章 オリビアは受験用バッグを開きます。 いろいろ入っています。学生証も。
第57章 オリビアは受験用バッグを開きます
戦列艦の計算書を受け取ってから、数日が過ぎました。
その日は、朝から急いで受ける依頼もありませんでした。
オリビアはしらかば亭の自分の部屋で、久しぶりに何もしない時間を過ごしていました。
机の上にはジャム入りの紅茶があります。
窓の外を見ても、今日は出かけなければならない場所を思いつきません。
「そういえば、持ってきた本、全部ちゃんと見てないなあ」
こちらの世界へ来てから、必要になった本は何度も収納から直接取り出しています。
帝国書院の地図帳だった本。
山川出版社の日本史と世界史だった本。
数研出版の数学、物理、化学、生物、地学の教科書や参考書。
生物資料集や世界史図表も使いました。
けれど、日本で合宿へ行くときに本をまとめて詰め込んだ、あの重い受験用バッグそのものを開いて、中身を最初から確認したことはありませんでした。
「まだ何か入ってた気がする」
オリビアは収納からバッグを取り出しました。
観光バスの床下収納から降ろしたとき、一年生が持ち上げようとして「重っ」と言ったバッグです。
こちらへ来たときから時間停止した収納へ入っていたので、見た目はあの日のままでした。
机の横の床へ置き、ファスナーを開けます。
「やっぱり多い」
教科書、参考書、資料集、問題集。
夏休みのアーチェリー合宿へ持っていく量ではなかったような気もしますが、学校が観光バスを借り切っていたので、持てるだけ持ってきました。
最初に出てきたのは、何度も使った本です。
山川出版社の日本史だった本を開きます。
表紙も中身も、もう日本史ではありません。
東の大国の歴史を扱う本になっています。
「東の大国史」
こちらへ来た直後にも歴史の本が置き換わっていることは確認しました。
ただ、今開いてみると、そのときよりページが増えていました。
現代史の最後の方です。
「……これ、この前の話だ」
海の向こうの帝国と、南の国、北の国の関係が載っています。
海の向こうの帝国は、南北それぞれの沿岸へ方面艦隊を送り、港を押さえ、首都へ圧力をかけました。
そのあと結ばれた条約では、南の国と北の国が、それぞれ港町を1000年間、海の向こうの帝国へ租借することになっています。
「1000年って」
オリビアは数字をもう一度見ました。
「返す気、ほとんどないよね」
租借地には海軍基地が置かれ、駐留経費の約75%を南北それぞれの国が負担します。
名目は同盟強靱化予算。
さらに、その予算を従来の5倍にするよう海の向こうの帝国が要求したことまで書かれていました。
「えげつないなあ」
日本で世界史を読んでいたときの北京条約を思い出します。
もちろん国も時代も条文も同じではありません。
でも、軍事力を背景に土地や権益を長期間押さえ、相手側へ大きな負担を負わせるところを読むと、どうしても似たものを思い出しました。
ページの端を見ます。
印刷したあとに書き足したような跡はありません。
最初からそういう本だったように、文章も地図も年表も組み直されています。
「神様、仕事早いなあ」
日本にいたころ、Wikipediaで有名人の記事を見たことを思い出しました。
亡くなったというニュースが出たあと、少しして同じ記事を見ると、もう生年月日の横へ死亡年月日が入っています。
誰がこんなに早く直しているのだろうと思ったことがあります。
今、手元の本で起きていることは、それよりずっと大がかりです。
世界そのものの出来事が変わるたびに、歴史の本まで追いかけて変わっています。
「世界史の方は?」
今度は山川出版社の世界史だった本を出しました。
こちらも現代史のところまで開きます。
ありました。
東の大国と海の向こうの帝国の戦いです。
最初に海の向こうの帝国から来た戦列艦10隻。
その2か月後に来た20隻。
合わせて30隻が東の大国側に鹵獲されたこと。
その後、事情確認のために来た3隻のうち、2隻が沿岸砲の射撃で沈み、1隻が帰還したこと。
戦闘そのものだけではなく、その後に戦列艦20隻が買い戻されたことや、東の大国が10隻を研究と訓練用に残したことまで、現代史の流れとして整理されています。
「……私のことも載ってる」
名前そのものを大きく英雄扱いしているわけではありません。
けれど、最初の30隻が航行不能になった原因として、ピュアエルフの魔法による介入が記されています。
オリビアは少し前に受け取った、分厚い戦列艦買戻し計算書を思い出しました。
あの書類では20隻の船価が1隻ずつ計算され、自分の取り分まで書かれていました。
こちらでは、それがもう歴史の出来事として並んでいます。
「トラファルガーの戦いみたい」
もちろん、戦い方も結果も違います。
帆走戦列艦が大量に参加し、その後の海軍政策まで変えるほどの損害が出た、という規模を見て、日本で読んだ世界史の海戦を思い出しました。
オリビアはページを閉じかけて、手を止めました。
ユグドラシルで神様に言われたことを思い出します。
王になって、聖域の魔道具を動かしたあとは自由に暮らしていい。
そして、
『君が暮らして、その結果が世界に反映されるんだ』
と言われました。
「本当に反映されてる」
しらかば亭で暮らして、冒険者の仕事をして、たまたま海へ行き、来た船を止めました。
その結果が、いま世界史の本へ載っています。
「私、本に載る方になったんだ」
大学受験のために歴史を覚える側だったはずなのに、今は自分が関わった出来事を山川出版社の本で確認しています。
変な感じでした。
オリビアは世界史を横へ置き、バッグの中へもう一度手を入れました。
「ほかには……」
問題集の下から、あまり開いた記憶のない資料が出てきます。
「家庭科」
授業で使った資料です。
食品や栄養についての表がたくさん載っていました。
「これも変わってるのかな」
開きます。
変わっていました。
穀物、野菜、果物、肉、乳製品。
こちらの世界で見た食材があります。
普通の動物だけではありません。
魔物として扱われている生物の可食部も、食品として項目に入っています。
「水牛の魔物もある」
少し前に、筋切りをして柔らかくした水牛魔物のステーキを思い出しました。
冒険者向けのお弁当に入っていた、大盛りのステーキです。
「どのくらいだったんだろう」
オリビアは食品成分のページを開き、あのお弁当に入っていた食材を思い出しながら、1つずつ量を見積もっていきました。
肉だけではありません。
お弁当に使われていた食材を全部拾い、食品成分表の値へ換算して足していきます。
最初、エネルギーの欄はジュール系の単位で自然に理解できていました。
この世界の文字や単位は、言語の魔法を通すと意味まで分かります。
オリビアは途中まで計算してから、ふと思いました。
「カロリーじゃないの?」
もう一度、同じ欄を見ます。
今度は kcal で読めました。
「そこも変わるんだ」
言語の魔法を切ったわけではありません。
自分が理解しやすい単位で見たいと思っただけです。
オリビアはそのまま計算を続けました。
全部を足します。
「……3400 kcal」
計算を見直します。
もう一度足します。
同じです。
「太る」
思わず口から出ました。
冒険者向けの大盛りだとは分かっていました。
それでも、1食3400 kcalなら多すぎます。
ところが、食品成分表をよく見ると、エネルギーの欄がさらに分かれていました。
通常の食事として身体が使うエネルギー。
魔力の回復へ回るエネルギー。
「別なんだ」
お弁当全体で約3400 kcal相当。
そのうち、通常の食事エネルギーとして扱われるのは約1200 kcalでした。
残りの約2200 kcal相当は、魔力回復側です。
「1200……」
少し安心しかけて、オリビアは数字を見直しました。
「いや、それでも多い」
大盛りのお弁当としては納得できます。
でも普通の高校生が毎食食べる量ではありません。
資料の説明を読みます。
魔法を使う人は、食品から得た魔力側のエネルギーを自分の魔力へ変換して使います。
そこまでは分かります。
けれど、その下に別の説明がありました。
「魔法を使えない人も必要なんだ」
この世界では、魔法を外へ出して使えない人も魔力を必要とします。
オリビアは家庭科の資料をいったん置き、バッグから保健の本も出しました。
栄養不足による症状の章を開きます。
ビタミン不足。
無機質の不足。
たんぱく質やエネルギーが不足した場合。
日本で習った内容に対応する項目が並び、その中に、この世界にしかない項目が普通に入っています。
食事から魔力へ変換できる成分を十分に取れなくなった場合。
食べられなくなった場合。
消化吸収ができなくなった場合。
そうした状態が長く続くと、魂と肉体の結合を維持するための魔力が不足します。
「魂と肉体……」
オリビアはそこを読み直しました。
魔法を使える人は、取り込んだエネルギーを魔力として術へ使うことができます。
魔法を使えない人も、同じ仕組みを生命維持に使っています。
魂を肉体へ結びつけておくためです。
不足が進めば、その結合が弱くなります。
さらに進み、補給も吸収もできなくなると、魂が肉体から離れます。
「死ぬって、そういうのもあるんだ」
宗教の説明ではありません。
保健の本の、栄養不足による症状の章に書いてあります。
こちらの世界では、魂と肉体の結合が生理学の対象でした。
通常の食事エネルギーと魔力側のエネルギーも、完全に別々ではありません。
必要に応じて、ある程度はエネルギーレベルで変換して融通できます。
激しく魔法を使えば、身体側から魔力側へ回る量も増えます。
逆に、通常の食事エネルギーが不足すれば、魔力側から身体の維持へ回すこともできます。
「だから冒険者のお弁当が大きいんだ」
魔法使いだけの食事ではありません。
剣を使う人も、荷物を運ぶ人も、長い時間歩く人も、身体と魂をつないで活動する限り魔力を使っています。
オリビアは自分の項目も探しました。
ピュアエルフ。
そこには、普通の生物とは違う供給経路が載っています。
地脈。
ユグドラシル。
ピュアエルフは、その両方からリアルタイムで魔力を受け取ることができます。
「だから、つながりが強いんだ」
食事からしか魔力を補えない生物より、魂と肉体の結合がはるかに安定しています。
しかもオリビアには、元素を入れ替えて必要な化合物を合成する方法があります。
通常の生物なら食事から取らなければならない栄養素も、必要な元素を使って自分で化合物として用意できます。
「私、食べなくてもかなり何とかなるんだ」
それでも食事をやめようとは思いませんでした。
しらかば亭のご飯はおいしいです。
ピロシキも好きです。
ジャム入り紅茶も飲みます。
水牛魔物のステーキも、また食べたいと思います。
「食べたいから食べればいいか」
オリビアは保健の本と家庭科の資料を机の上へ重ねました。
受験用バッグの中には、まだ物が残っています。
「ほかには……」
内側の小さなポケットを開けました。
カードが1枚入っています。
「学生証?」
見慣れた大きさです。
日本で使っていた高校の学生証だと思って取り出しました。
違いました。
「……どこの学校?」
写真はピュアエルフの自分です。
名前も自分のものになっています。
けれど、学校名は日本で通っていた高校ではありません。
東の大国の国立学校。
通信教育課程。
そう書かれています。
「通信制なんだ」
考えてみれば、その方が自然でした。
この世界でのオリビアは、辺境に住んでいたことになっています。
王都に学校があるから毎日そこまで通えと言われても困ります。
学生証を裏返します。
在籍に関する注意が書かれていました。
在籍区分の欄には、「エルフクラス」と書かれています。
通信教育課程では、エルフの時間感覚に合わせた在籍規定がありました。
最終の履修や連絡から120年間、何もなくても、それだけでは除籍になりません。
「120年」
学生証の発行年月を確認します。
「100年前……」
少なくとも、この学生証が発行されたのは約100年前です。
「じゃあ、まだ大丈夫?」
発行した直後から何もしていなかったとしても、120年には届いていません。
ただし、学生証には最後に授業を受けた日も、最後に課題を出した日も書かれていません。
「私って、いつから行ってないんだろう?」
オリビアには、この世界で約200年間暮らしていたことになっている履歴があります。
でも、その生活の記憶はありません。
学校へ入った時期も、どんな課題を出したのかも、自分では分かりません。
学生証のスクーリング先を見ます。
「旧へたれ国スクーリング分校」
オリビアはしばらくそこを見ました。
旧へたれ国そのものは、もうありません。
東の大国へ統合され、丘の下町と港も東の大国の領域になっています。
でも、この学生証に書かれたスクーリング分校が今どうなっているのかは分かりません。今もあるのか、名前が変わったのか、どこかへ移されたのか、それとも別の窓口へ引き継がれたのか。学生証だけでは分かりません。
学生証を持ったまま、少し昔のことを思い出しました。
日本で通っていたのは、ミッション系の女子高校でした。
政令指定都市の中心部にあり、県庁や市役所などが集まる官庁街にもほど近い学校です。
制服も気に入っていました。
学校へ行くときは、お城の近くを通るバスに乗っていました。
制服につける赤色の十字のバッジは、このあたりではお嬢様高校の象徴のように知られていました。
系列には、施設がきれいに整備された女子大学もありました。
でも、その女子大学は別の大学へ吸収され、共学になることが決まっていました。
オリビアは系列大学へそのまま進むつもりではありませんでした。
受験勉強をきちんとして、丘の上にある私立のミッション系大学へ進学するつもりでした。
高校とは宗派が違います。
それでも、行きたい大学でした。
一般入試なら3科目で受験できます。
けれど、学校推薦を使うなら通知表の成績も重要です。受験に直接使わない科目だからといって、学校の勉強を落とすわけにはいきませんでした。
だから夏休みの合宿にも、日本史、世界史、数学、物理、化学、生物、地学、それに問題集まで大量に持ってきました。
その予定は、もう終わっています。
「まあ、終わったことは仕方ないか」
オリビアは学生証をもう一度見ました。
代わりに、こちらの世界ではまだ学校に在籍している可能性があります。
それも、約100年前発行の学生証で。
「連絡してみよう」
問題は、どこへ連絡するかです。
学生証に書かれた旧へたれ国スクーリング分校が、今も同じ場所にあるのかどうかも分かりません。
それなら、まず丘の下町の総合庁舎で聞いてみるのがよさそうです。
オリビアは学生証を机の上へ置きました。
「総合庁舎で聞いてみよう」
次に丘の下町へ行く用事が、1つできました。




