第2章 オリビアは宿で一晩を過ごします。
第2章 オリビアは宿で一晩を過ごします
部屋へ入って扉を閉めると、下の食堂から聞こえていた声が少し遠くなります。
オリビアは扉に背を向けたまま、しばらく部屋を見ます。
ここが自分の部屋です。
少なくとも、この宿ではそういうことになっています。
窓の近くに小さな机があり、その横に椅子が一つあります。寝台の上にはきちんと寝具が整えられています。壁には服を掛けるための場所があり、床の隅には荷物を置けそうな空間もあります。
けれど、大きな荷物はありません。
観光バスの床下収納から何人かで降ろした弓のケースも、本の詰まった重いバッグも見当たりません。
全部、収納の中です。
「便利だなあ」
声に出してから、オリビアは机の前へ座ります。
まず地図帳を出します。
森でも少しだけ開いた、帝国書院の地図帳だった本です。
机いっぱいに広げると、知らない大陸や島々が並びます。
日本で使っていた地図帳なら、どのあたりを開けば何が出てくるのか大体分かっていました。日本列島を探すことも、ヨーロッパを探すことも難しくありません。
今は、どこを見ても知らないところです。
さっき歩いてきた町を探し、その周囲へ指を動かしていきます。
森があります。
道があります。
川もあります。
町から外へ伸びる道は一本ではありません。
「こっちは、どこへ行くんだろう」
指をそのまま遠くへ動かしていきます。
少し大きな町へつながっています。
別の道は山へ向かっています。
さらにページの端まで追っていくと、国境らしい線も見つかります。
オリビアは一度顔を上げます。
窓の外には、さっき歩いてきた町の屋根が見えます。
地図の中では小さな印しかない町です。
その小さな印の中に、今は自分がいます。
「変な感じ」
地図帳を閉じずに、今度は山川の世界史だった本を出します。
こちらも表紙から変わっています。
索引を開き、今いる国の名前を探します。
ページを開くと、王朝の名前が並んでいます。
当然、誰も知りません。
何代前の王が何をしたのか。
どこと戦争をしたのか。
どの地方がいつ領土へ入ったのか。
文字は全部読めます。
けれど、読めるだけです。
学校で世界史を勉強するときなら、前に習ったことと次に習うことがどこかでつながっていました。
この本には、その前がありません。
「最初からやり直しかあ」
本をめくっていると、下から何かいい匂いがしてきます。
その少しあとで、扉が軽く叩かれます。
「オリビアちゃん、ごはんだよ」
デイジーさんの声です。
「はい。今行きます」
返事をしてから、本を二冊とも収納へ戻します。
収納なら、机の上を片づけるのも一瞬です。
階段を降りると、さっきまでとは違う匂いが濃くなります。
食堂には、もう何人か座っています。
宿に泊まっている人たちらしく、昼間には見なかった顔もあります。
話している声は聞き取れます。
言葉が分かるのは助かります。
ただ、地名や人の名前になると急に分からなくなります。
「明日は南の道だ」
「雨が残ったら、橋のところは気をつけた方がいいぞ」
そんな会話が聞こえます。
南の道。
どの道なのかは分かりません。
さっき地図帳を見ておけばよかったと思います。
「オリビアちゃん、こっちだよ」
カメリアさんが空いている席を示します。
「ありがとうございます」
座ると、すぐ近くから視線を感じます。
ダリアちゃんです。
その向こうにはアマリリスちゃんもいます。
二人とも、こちらを見ています。
「どうしたの?」
オリビアが聞くと、ダリアちゃんが言います。
「今日はなんか違う」
「何が?」
「分かんない」
「分からないのに違うの?」
「うん」
困った答えです。
アマリリスちゃんもこちらを見ています。
「オリビアお姉ちゃん、今日はいっぱい見るね」
「何を?」
「みんな」
言われて初めて気がつきます。
オリビアも周りを見ています。
食器の使い方。
料理の取り方。
ほかの宿泊客が何をしているか。
カメリアさんがどこから料理を運んでくるのか。
何も知らないので、つい一つずつ見てしまいます。
けれど、この宿の人たちにとっては、オリビアは今日初めて食事をする客ではありません。
数日前からここにいます。
「森へ行って、少し疲れたのかもしれない」
そう答えると、カメリアさんが料理を置きながら笑います。
「森へ行ったくらいで疲れるエルフも珍しいねえ」
「そうなんですか」
「人間よりは森に慣れてるだろう」
オリビアは自分の耳を触りそうになって、手を止めます。
純粋なエルフです。
そのことだけは間違いありません。
ただし、森で暮らした経験は今日の2kmほどしかありません。
「今日は本も読んでたんだよ」
ダリアちゃんが言います。
「森で?」
カメリアさんがオリビアを見ます。
「少しだけです」
「何の本?」
聞かれて、オリビアは少し考えます。
「地図と、地学です」
「ちがく?」
ダリアちゃんが聞き返します。
「山とか石とか、地下のことを調べる本」
「石の本?」
「石だけじゃないよ」
「ダンジョンも?」
オリビアの手が止まります。
「ダンジョンも載ってた」
「じゃあダンジョンの本じゃん」
「地学の本なの」
ダリアちゃんは納得していない顔です。
オリビア自身も、まだ少し納得していません。
食事をしながら、今度はこちらから周囲を見ます。
料理は特別なものには見えません。
みんな普通に食べています。
隣の卓では、明日の仕事の話をしています。
別の人は、靴が傷んだので修理へ出す話をしています。
魔法の世界へ来たからといって、夕食のたびに魔法の話をするわけではありません。
仕事をして、食べて、明日の予定を話しています。
そこへ自分も座っています。
カメリアさんが通りかかります。
「足りる?」
「はい。おいしいです」
「それならよかった」
少し離れたところでは、デイジーさんとアカシアさんが料理を運んでいます。
二人の夫は、護衛の仕事で町を離れています。
この数日間ここにいたことになっているオリビアも、まだ一度も会っていません。
その点だけは、本当の自分と神様が作った数日間が同じです。
「オリビアお姉ちゃん」
アマリリスちゃんが呼びます。
「なに?」
「明日も森行く?」
「明日は町の中かな」
「どこ?」
「冒険者ギルド」
「お仕事するの?」
「まだ分からない」
本当に分かりません。
神様から、冒険者になれと言われたわけではありません。
ただ、この世界で自分の身分やお金がどうなっているのか、確認しておきたいだけです。
夕食のあと、オリビアは部屋へ戻ります。
収納から着替えを出します。
日本で着ていた服と同じものではありません。
それでも、どれが下着で、どれが寝るときに着るものなのかは見れば分かります。
着替え終わってから、寝台へ座ります。
そこで財布のことを思い出します。
「お金」
収納の中を探します。
財布に相当するものが見つかります。
開くと、見たことのない硬貨が入っています。
紙幣らしいものもあります。
文字は読めます。
額面も分かります。
ただし、それで何が買えるのかが分かりません。
「百円が何になった、とかじゃないよね」
日本で財布に入れていた現金が、こちらの通貨へ置き換わっているのでしょう。
金額だけ見ても価値が分からないので、明日から物の値段を見る必要があります。
財布を戻したあと、もう一度世界史の本を出します。
少し読みます。
地図帳も出します。
現在地から近い大きな町を探します。
そこから先の道も見ます。
地学の参考書にも手を伸ばしますが、そこであくびが出ます。
「今日は無理」
本を収納へ戻します。
寝台に入り、横になります。
朝は日本にいました。
昼すぎには矢が刺さりました。
救急車に乗りました。
そのまま死にました。
神様に会いました。
エルフになりました。
森でほとんど死んだ状態から自分を治しました。
そして今は、知らない世界の宿で眠ろうとしています。
一日の中へ入れるには、少し多すぎます。
目を閉じると、すぐに眠くなります。
朝、顔に光が当たって目が覚めます。
「まぶしい……」
布団の中で顔を反対側へ向けても明るいままです。
仕方なく起き上がります。
窓から朝日が入っています。
昨日も気になった透明な板です。
オリビアは窓へ近づきます。
向こうの景色がよく見えます。
少し歪みはありますが、透明度は高いものです。
指先でそっと触れます。
「これ、やっぱりガラスじゃない気がする」
数研の化学か地学あたりに載っていないかなと思います。
そのまま本を開きかけて、やめます。
「先に朝ごはん」
昨日、森で地学の本を開いたときも同じことをしています。
収納から歯を磨く道具を出します。
これも見慣れた日本製品そのものではありません。
けれど、歯を磨く道具として何をすればいいのかは分かります。
歯を磨きます。
水を使って顔を洗います。
「タオル」
収納から出します。
顔を拭きます。
「何でも出るなあ」
もちろん何でもではなく、自分が持ってきた物の置換品です。
それでも、必要なものが手の届かない場所にないというのは便利です。
着替えも収納から出します。
身なりを整えていると、長い耳がどうしても目に入ります。
昨日から何度見てもエルフです。
「二日目」
誰に言うでもなく、小さく言います。
階段を降ります。
食堂へ入ると、静かです。
昨日の夕食とはまるで違います。
空いている席がたくさんあります。
食器を片づける音だけが聞こえます。
「おはようございます」
「あら、オリビアちゃん。おはよう」
カメリアさんが振り向きます。
「朝ごはん、まだ大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。もう少し遅かったら片づけようと思ってたけど」
「そんな時間ですか」
「泊まりのお客さんは、みんな仕事へ出たよ」
オリビアは食堂を見回します。
昨日、南の道の話をしていた人もいません。
靴を修理すると言っていた人もいません。
朝の仕事を探す人たちは、とっくに外へ出たようです。
「みんな早いんですね」
「人間はね」
カメリアさんが料理を持ってきます。
「エルフは急がないから」
「そうなんですか」
「そういう人が多いねえ」
オリビアは椅子へ座ります。
「じゃあ、私が遅いのも普通なんですか」
「この数日はこんなものだったよ」
また、自分の知らない自分の話が出てきます。
「朝ごはんを逃したことは?」
「それはないね」
「よかった」
「今日もぎりぎりだけど」
「明日はもう少し早く起きます」
「そう言うエルフは珍しいかもしれないよ」
カメリアさんは笑いながら離れていきます。
オリビアは朝食を食べます。
外から、ときどき荷車の音が聞こえます。
昨日の夕方より、人の声は少なくなっています。
町全体がもう働き始めている時間なのでしょう。
食べ終わるころには、本当に朝食の時間の最後です。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「行ってきます」
「今日はどこへ?」
「冒険者ギルドへ行ってみます」
「じゃあ、もう空いてる頃だね」
「朝は混むんですか」
「仕事を取りに行く人は早いからね」
やっぱり、自分は町の朝から少し遅れて動いているようです。
オリビアは宿の扉を開けます。
朝の混雑が一段落した通りへ、明るい光が差しています。
今日は、この世界で自分が誰になっているのかを、もう少し確かめに行きます。




