第11章 オリビアは近距離の防御を考えます。
第11章 オリビアは近距離の防御を考えます
ジャム入りの紅茶を飲み終え、ピロシキも食べ終わると、オリビアは冒険者ギルドを出ました。
朝に受けた鹿の魔物の依頼は終わり、2頭とも解体と買い取りまで済んでいます。受け取ったのは44フローリンです。
通りを宿へ向かって歩きながら、オリビアはさっき食堂で考えていたことをもう一度思い出します。
2tほどもある鹿の魔物なら、200mから弓を射てることは大きな利点でした。それでも2頭目は、2射目を放った時点で約20mまで来ていて、すでに十分に速度が乗っていました。心臓を止めても、その瞬間に2tの身体が停止するわけではありません。
相手が人間なら、別の危険があります。
町の中で会う人間は、最初から200mも離れていてくれるわけではありません。普通に話せるところまで近づいてから刃物を出されることもあります。弓を構え、矢をつがえ、引いて射つ距離ではありません。
「近くまで来られたときの防御、ないなあ」
回復魔法は強力です。
けれど、刺されたあとに治せることと、刺されないことは別です。胸や首へ一撃入れば、自分で回復魔法を使う前に意識を失うかもしれません。
何か、すぐ使える方法が必要です。
最初に思いついたのは、収納魔法で使った範囲指定を、空間そのものへ使う方法でした。
鹿の狩りでは、幅1m、長さ5m、深さ0.5mと範囲を決め、その部分の地面を収納しました。なら、空間を範囲で指定して、別の位置と入れ替えるような魔法も組めるかもしれません。
「相手のいるところを、左右で分けて……」
人間の身体を通る縦の面を境にして、左右の空間を相対的に5mmほどずらす。その0.1秒後に、元の位置へ戻す。
位置だけを元へ戻しても、一度切れてしまった組織まで自然につながるわけではありません。
「これは、いざってときだけだね」
相手が本当に刃物を向けていて、ためらえばこちらが刺される距離なら仕方ありません。
上下に分ける案はすぐにやめます。上半身が残れば、武器を持った腕が動く可能性があります。致命傷になっていても、その瞬間に運動が止まるとは限りません。
心臓が止まっても、脳も筋肉も同時には停止しません。神経が働き、筋肉の中にATPが残っている短い時間があれば、近距離なら最後に一度刺すくらいの動作はできます。
「倒せるかじゃなくて、今来てる刃物を止めないとだめなんだ」
次に、もっと単純な方法を考えます。
収納魔法で相手の足元の地面を抜き、落とし穴を作る方法です。
毎回その場で幅や長さを決めていたら時間がかかります。近距離用なら、最初から同じ大きさの穴を定型として決めておけば、指定に使う時間は減らせます。
深さを1.8mくらいにする。
頭の中で自由落下の時間を計算します。
「……0.6秒くらい」
1.8mを落ち切るだけで、およそ0.6秒かかります。
遅すぎます。
相手の足が落ち始めても、上半身と武器はすぐには届かないところまで消えてくれません。刃先がもうこちらへ届く距離なら、落下している途中に刺されます。
「落とし穴は没」
では、こちらから質量のあるものをぶつける。
相手の身体全体を吹き飛ばす必要はありません。
剣や槍がこちらへ来ているのなら、その武器と、武器を持って動かしている腕だけを考えればいいはずです。武器の質量と腕の有効な質量の和に対して、軌道を外せるだけの力積を一点へ与える。
「点で当てればいいんだ」
小さな石を高速で飛ばして、剣そのものか、剣を持つ腕へ当てる。
物語やアニメでよく見るストーンバレットが浮かびます。
「これ、合理的かも」
腕の骨が折れる可能性はあります。
でも、本当に刃物を持って襲ってくる相手なら、相手を骨折させないために自分が刺される必要はありません。治療が必要なら、あとで回復魔法も使えます。
しかも石を前へ加速するなら、反作用があります。
その反作用を消さずに自分へ残せば、相手の武器や腕を横へ弾きながら、自分の身体はわずかに反対方向へ動きます。
「距離までちょっと取れる」
ほんの少しでも、刃先から離れる方向へ動けるなら有利です。
「ストーンバレット、優秀だ」
水を高速で噴射する方法も考えます。
水は石弾よりずっと連続的に質量を後方へ送り出せます。噴射する水の質量流量と速度を十分に上げれば、発生する推力は自分の体重を超えることもありそうです。
「体重より大きかったら、私が飛ぶよね」
近距離から一気に離れる手段にはなります。
そこで、水がどこから来るのかが気になります。
もし空気中の水蒸気を集めているだけなら、量が足りません。
30℃で空気が飽和していても、水蒸気は1m3あたり30gほどです。1L、つまり約1kgの水を得るだけでも、理想的に全部回収できたとして30m3を大きく超える空気が必要になります。
しかも水蒸気を液体へ凝縮すれば、潜熱を放出します。
「そんなの一気に集めたら、熱どうするの」
大量の水を瞬時に凝縮して、その熱までその場へ残すなら、術者の近くでやるには困ります。
「本人が焦げるよ」
物語で「空気中の水蒸気を集めました」と一言書くだけでは、水の量も熱も合いません。
重力魔法についても同じです。
100kgの岩に働く重力を小さくして、持ち上げるときの重量を軽くできたとしても、100kgの慣性質量までなくなるわけではありません。横へ投げようとすれば、100kgの物体を加速するだけの力が要ります。
「重くなくなったから、すっと投げられる、は違うよね」
ただし、ここは地球の物理だけで決めつけるところでもありません。
数研出版の物理だった本は、この世界の現象に合わせて神様が書き換えています。
「本の方には、ちゃんと解決した式が載ってるかも」
そこまで考えたところで、宿へ着きました。
「おかえり、オリビアちゃん」
カメリアさんが声をかけます。
「ただいま」
「鹿はどうだった?」
「2頭いたよ。2頭とも取ってきて、もうギルドで解体してもらった」
「初めて行って2頭かい」
「大きかった。1頭2tくらいありそうだった」
答えながら、オリビアはふと別のことに気づきます。
この世界へ来てから、カメリアさんたちとは少し話しました。
けれど、その後にした会話を並べると、冒険者カード、能力精査、回復魔法、買い物、仕事、解体、支払いと、ほとんどが用事のある話です。
こちらには知り合いがいないので、町ですれ違った人へわざわざ話しかけることもありませんでした。
「私、業務の会話ばっかりしてる」
「何の話?」
近くにいたダリアちゃんが聞きます。
「こっちの話」
それなら、自分から普通の話をしてみます。
「明日も森へ行くかもしれないんだけど、狩猟とか採取するもので、何か欲しいものある?」
「ある!」
ダリアちゃんがすぐに答えました。
「野生のリンゴの実」
「野生のリンゴは分かるけど、どんな木? 実の大きさとか、葉っぱの形とか」
オリビアは収納からノートを出します。
神様からもらった言語の力があるので、この世界の植物名も意味を持った言葉として聞こえます。「野生のリンゴの実」と聞けば、そのまま意味が分かります。
それでも名前だけで森へ行くより、姿まで聞いておいた方がいいに決まっています。
カメリアさんが、町で売るリンゴより小さいものが多いこと、熟すと色が変わること、葉の形や枝への実のつき方を教えてくれます。オリビアは聞きながら簡単な絵を描きました。
「橘の実も」
今度はアマリリスちゃんです。
「橘は、どんな木?」
「それは今はないよ、さすがに」
カメリアさんが笑います。
「季節が違うからね。見つけても、今は取ってくるような実じゃないよ」
「じゃあ、季節外れって書いとく」
ノートに書き足します。
「黒スグリの実なら、あるかもしれないよ」
「黒スグリ。低い木?」
「そうだね。低い茂みみたいになって、小さい黒い実が房でつくよ」
「葉っぱは?」
また形を聞いて描きます。
名前だけを並べてもらうのではなく、森で見つけられるところまで聞いておきます。
「肉は?」
「鳥なら、コウノトリと鶴がおいしいよ」
「コウノトリと鶴?」
日本で暮らしていた感覚では、食卓へ並ぶ鳥ではありません。
けれど、昔の日本では鶴などを食べていた時代もあります。
「おいしいんだ」
「おいしいよ。デイジーとアカシアの旦那さんたちがいるときなら、定期的に取ってきてくれるんだけどね。今は二人とも護衛の仕事で町を離れてるから」
オリビアは鳥の姿や見つけやすい場所も聞いておきます。
「じゃあ、明日森に行ったら探してくるね」
「ほんと?」
「いたらね。季節外れの橘は無理だけど」
「だから、ないって言っただろう」
カメリアさんがまた笑いました。
依頼書も報酬もありません。
食べたいものを聞いて、見つけたら持って帰る約束をしただけです。
こういう話の方が、普通の会話らしい気がします。
しばらく話してから、オリビアは二階の部屋へ上がりました。
机の前へ座り、収納から数研出版の物理だった本を出します。
「さっき考えたやつ、どうなってるんだろう」
索引から、衝突、運動量、力積、反作用、それから魔力と物質の相互作用を探します。
この本は、以前開いたときにも普通の高校物理の顔をしていませんでした。力学、熱、波、電磁気の先には魔力波があり、この世界で人間が途中までしか発達させられなかった研究が、21世紀相当の科学的方法まで続いた形でまとめられています。
今回読むところには、物理法則と魔法法則の関係そのものが書かれていました。
この世界では、物理法則と魔法法則が並立しています。
どちらかが上位にあって、もう一方へ命令する関係ではありません。ニュートンやアインシュタインたちが観測し、数式で記述してきた物理の世界と並んで、彼らの観測範囲の外側に魔法の法則で動く世界があります。
物理側には、重力や電磁力のような古典的に知られてきた力があります。さらに、20世紀末から21世紀に相当する研究水準になって初めて見つかった、物質どうしに働く新しい物理的相互作用もあります。
そして、それらとは別に、魔力が物質へ働く力があります。
実際に物体がどう動き、物質がどう変化するかは、その場で同時に働いている物理的な相互作用と、魔力が物質へ及ぼす相互作用の組み合わせで決まります。
魔力の強い場所では、魔法側の作用が非常に大きくなり、他の作用を表へ出さないほど排他的に魔法が優先して見える場合もあります。
「どっちが上って話じゃないんだ」
強い方、そしてその種類の魔法が何へ作用するかによって、現れる結果が変わります。
さらに、物理の力と魔力による力には大きな違いがあります。
科学で扱う物理的な力は、あらかじめ決まっている法則に従って自動的に作用します。条件が決まれば、重力も電磁力も、その式に従って働きます。人間がその場の都合で重力の式を別の式へ書き換えたり、電磁気の法則を途中から変更したりすることはできません。
魔力による力は、現象を表す魔力式そのものを術者が手動で組み替えることができます。
位置、範囲、方向、強さ、時間変化、物質への結合の仕方など、魔力側の式を理解して必要な項を変更すれば、同じ魔力量でも起こす現象を変えられます。
物理法則を書き換えているわけではありません。
物理法則はそのまま働いています。その上に、別系統の魔力による作用を、術者が式として設定して加えることができます。その結果として、物理的な力だけなら起きなかった運動や変化が起こります。
「魔法の式の方だけ、マニュアルなんだ」
物理側はオートマチックです。
魔法側は、式そのものを理解すれば手動で変えられます。
ただし、その自由さの代わりに、式を理解することが難しい。
魔力式には複数の変数が同時に入り、線形の簡単な式だけでは済みません。解析的な形で解けない場合も多く、数値解析が必要になります。
昔から魔法そのものは使われていました。
詠唱や定型の魔法陣、決まった材料、決まった手順を守れば、経験的に同じ現象を再現できます。けれど、なぜその式で発動し、どの項を変えると何が変わるのかまで人間が理解するには、数学と物理学と計算手法が21世紀相当まで発達する必要がありました。
「魔法使うのに、そこまで勉強するの」
先日、光の魔法を自分で組み立てたときに、発光する位置、大きさ、出力、スペクトルを指定し、さらに周囲の魔力波へ合わせて発光領域の長さを2分の1波長へ変えました。
あれも、魔力式の条件を自分で変更した例として載っています。
「知らないでやってた」
ページの横に数学の参照があります。
収納から数研出版の数学だった本も出しました。
「やっぱり増えてる」
日本で使っていた受験数学の内容は残っています。
その上に、魔力解析のための数学が追加されています。空間内の位置と方向を扱う式、多変数で変化する量、時間依存の項、非線形の魔力式、そして厳密解が出ない場合に使う数値解析まで続いています。
「また物理の勉強が追加されたと思ったら、数学まで追加されてる」
大学入試が終わる前に死んでしまったのに、受験用に持ってきた数研の本は、こちらへ来て勉強する範囲を勝手に増やしています。
オリビアは物理へ戻ります。
固体を魔力で形成し、加速する例を探すと、小さな弾体について、質量と速度を指定する式が載っています。
「これ、ストーンバレットだ」
さっき考えた通り、形成と加速の部分には魔力式が使われます。魔力の作用を終えたあとの石は、普通の質量と慣性を持つ物体として飛びます。
武器や腕へ当たれば、衝突、運動量、力積は普通に計算できます。
「そこは普通なんだ」
反作用もあります。
術者側へ戻る反作用を別の魔力式で処理する方法も書かれていますが、オリビアは使わない方が都合がいいと思います。
「私は反作用、残す」
相手の武器の軌道を変えながら、自分も少し後ろへ動きたいからです。
水魔法のところも開きます。
やはり、空気中の水蒸気を単純に凝縮して必要量を作る説明にはなっていません。
水が現れる過程そのものに魔力と物質の相互作用が入り、その部分は物理側だけを閉じた系として計算しても収支が合いません。魔力式による作用まで含めて扱います。
魔力式の作用が終わって普通の水として存在し始めれば、その水には質量も慣性もあり、流体としての物理法則に従います。高速で噴射すれば反作用が生まれ、推力が術者の体重を超える条件も作れます。
「ちゃんと、私が飛ぶ」
オリビアは少し安心します。
重力魔法の例も同じです。
重力による力を魔力で打ち消して100kgの岩の重量を小さくしても、100kgという慣性質量そのものが自動的に消えるわけではありません。横へ加速するなら、その慣性質量に応じた作用が必要です。
「そこもちゃんとしてる」
物理と魔法を混ぜても、どこにどの力が働いているのかを分ければ計算できます。
普段の近距離防御はストーンバレット。
それすら間に合わないほど近くで、本当に刃物を向けられた場合だけ、左右への空間ずらしを最後の手段として使う。
落とし穴と上下への空間ずらしは使わない。
考えていたことが、物理の本を読んでかなり整理できました。
「よし」
本を閉じようとして、机の横に置いた別の本が目に入ります。
「化学も変わってるのかな」
数研出版の化学だった本を出します。
化学基礎ではなく、化学の方です。
無機化学、有機化学、高分子など、見覚えのある項目をめくっていくと、索引に別の言葉があります。
「錬金術」
ページを開きます。
「やっぱりかー」
ここでいう錬金術は、地球で金を作ろうとしたり、不老長寿の秘薬を求めたりした歴史上の錬金術とは違います。
釜へ材料を入れて撹拌し、目的の薬や物質を作る、物語でよく見る方の錬金術です。
ただし、教科書に載っている条件はかなり普通の化学です。
熱、圧力、材料、溶媒、そして魔力。
反応物と溶媒を選び、温度と圧力を管理し、その条件へ魔力を加えて反応を進めます。
使用する釜にも指定があります。
「内面は白金で被覆した釜を使用すること」
「そりゃそうだよね。いろいろ溶け出すし」
鉄や銅などが反応液へ直接触れれば、条件によっては金属イオンが溶け出し、反応へ入り込みます。薬を作るなら、容器由来の成分まで混ざるのは困ります。
さらに工業化学のところまでめくると、錬金術の工業的製法があります。
クメン法や、鉱石をアルカリで溶解する工程などと同じ調子で、錬金術を使う工業プロセスの工程図が並んでいます。
「クメン法の横に錬金術……」
思わず笑います。
小さな白金被覆の釜で作ればバッチ式の錬金術ですが、温度、圧力、材料、溶媒、魔力を連続的に管理して大量生産すれば、普通に工業的製法です。
そこで回復薬を探します。
ちゃんと載っています。
「回復薬くらい作っておきたいな」
自分には回復魔法があります。
それでも、自分が魔法を使えない状態になる可能性はあります。意識が十分に保てないときでも、回復薬なら誰かに使ってもらえるかもしれません。
さらに、回復薬は死霊やアンデッドのようなお化け系の魔物へ使うと攻撃手段になります。聖水も同じ系統の相手に有効です。
「お化け系にも使えるなら、持ってた方がいいよね」
材料、温度、圧力、溶媒、必要な魔力条件をノートへ写します。
白金で内面を被覆した釜も必要です。
「これは、道具をそろえてから」
すぐには作れませんが、作り方は分かりました。
物理を調べるつもりで部屋へ上がったのに、数学の魔力解析まで増え、最後には化学の錬金術まで勉強しています。
「受験勉強、こっちへ来て増えてる」
窓の外を見ると、光がかなり低くなっています。
「そろそろ夕食かな」
本を閉じかけたところで、下からカメリアさんの声がしました。
「オリビアちゃん、いる?」
「いるよ」
「ギルドの人が来てるよ。すぐ来てほしいって」
「ギルド?」
今日の依頼も、鹿2頭の解体も精算も終わっています。
オリビアは物理、数学、化学の本とノートを収納へ戻しました。
何の用なのか分からないまま、階段を下ります。




