第8章 カッパドキアの3日間。
第8章 カッパドキアの3日間
朝食を終えると、5人はホテルを出ました。
昨日、窓から見ていたウチヒサール城が朝の光の中に立っています。
「今日は、あそこからですね」
ミミが見上げました。
「うん。まず上まで行こう」
「昨日は空から見ました」
「今日は城の上から」
チャトラが笑いました。
「そのあと地面からですね」
「そうしよう」
岩山そのものを使った城跡へ入り、5人は上へ向かいました。
内部には岩を削った空間が続きます。階段を上がるたびに外の景色が広がっていきました。
「ここ、ずっと使われていたんですね」
タマが壁の穴をのぞきました。
「使い方も時代ごとに変わったんだろうね」
オリビアは収納から世界史の教科書と資料集を出しました。
「持ってきたんですか」
「こういう時に使うために」
チャトラとタマが左右からのぞき込みます。
「昨日、空から見たところが載ってます」
「こっちはもっと古いページだよ」
オリビアが何枚か戻しました。資料集をさかのぼると、この地域では1万年近く前の新石器時代の遺跡、約4000年前の交易都市カネシュ、ヒッタイト、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンダー3世の時代、さらにローマ時代へと記述が続いています。
「アレクサンダー3世より、ずっと前から町と交易があるんですね」
ベラミラ先生も資料集をのぞき込みました。
「人が住み始めた時代まで考えると、ずいぶん長いですね」
「私の年齢でも、全然届きませんね」
オリビアが笑いました。この土地の文明の歴史は、長く生きるエルフの一生より、はるかに長く続いています。
さらに上がると、風が少し強くなりました。
「見えます」
ミミが先に外へ出ました。
谷がいくつも伸び、その間に奇妙な岩が並んでいます。畑と道、集落も見えました。
「昨日、飛んだところはあっちかな」
タマが指を伸ばします。
「たぶん、あの谷の向こう」
「下から行ったら分かりそうです」
ミミは景色をしばらく見たあと、小さな紙へ線を引き始めました。
「もう描いてる」
「少しだけです」
ベラミラ先生は別の方向を見ています。
「先生は岩の方をご覧になっているんですね」
「岩と谷です。昨日は上から通り過ぎただけでしたから」
「今日は近くまで行きましょう」
*
城を下りたところで、オリビアは少し広い場所を選びました。
「次はこれ」
現れたのは、小さな軽トラックでした。
「昨日のヘリより小さいです」
「営農サンバー。四駆でスーパーチャージャー付き」
「農業用ですか」
「うん。こういう道を走るのにちょうどいいよ」
前世で親戚の農園を訪ねたとき、実際に乗ったことがある車でした。
オリビアは運転席へ乗りました。
「先生は助手席へどうぞ」
「では、お邪魔します」
ベラミラ先生が助手席へ入りました。
チャトラ、タマ、ミミは荷台を見ます。
「私たちはここですね」
「畑の間を移動するときも、こんな感じ」
「乗ります」
3人が荷台へ上がりました。
「落ちないでね」
「大丈夫です」
エンジンがかかり、小さな車体が走り出しました。
大きな車なら入るのをためらう道でも、営農サンバーなら進めます。舗装が途切れ、石の多い道になっても四輪駆動でゆっくり進みました。
「これ、便利ですね」
後ろからチャトラの声がしました。
「昨日は空からでしたけど、今日は道を走るんですね」
「うん。この辺を回るなら、こっちが楽」
やがて、上に硬い岩を載せた細長い岩がいくつも見えてきました。
「きのこです」
ミミが荷台から身を乗り出します。
「きのこ岩だね」
「大きいです」
車を停め、5人は歩きました。
近くで見ると、上空から見たときより岩の大きさが分かります。
「上の石だけ残ってる」
「下の柔らかいところが先に削られたんでしょうね」
ベラミラ先生が岩の表面を見ています。
「先生、昨日からずいぶん楽しそうですね」
「楽しいですよ」
「それならよかったです」
午前中は、岩の谷をいくつか回りました。
岩をくり抜いた部屋が残る場所では、ミミが中をのぞき、タマは資料集の写真と見比べています。
さらに進むと、岩の中に造られた教会がありました。
「ここも教会なんですね」
チャトラが小さな入口を見ました。
「うん」
内部へ入ると、壁面に古い宗教画が残っています。
ミミが声を小さくしました。
「ずっとここでお祈りしていたんですか」
「時代によって使われ方は変わってるよ。危ない時に隠れる場所にもなった」
オリビアは資料集を開きました。岩窟の教会と、信仰を守るために身を隠して暮らした人々の記述を追いながら、日本の隠れキリシタンを思い出します。信仰を守るために隠れるという本質が、重なって見えました。
3人も資料集と壁を交互に見ています。
「本で見るのと、ここに立つのは違います」
ミミが言いました。
「うん。だから来たんだよ」
*
別の谷へ移動したところで、チャトラが上を見ました。
「上からも見たいです」
「じゃあ浮こうか」
オリビアは収納から団扇を5枚出しました。
「ホテルでもらったやつです」
タマが自分の団扇を受け取りました。
「これで進むんですか」
「ゆっくりなら十分」
5人は少し間隔を取りました。
「今から軽くするよ」
オリビアは1人ずつ、身体と衣類に働く重力を下げていきます。残すのは、その人の身体と衣類が押しのけている空気に働く重力と釣り合う分だけです。やがて5人の足が地面から離れました。
「浮いた」
チャトラが団扇を1度あおぎました。
身体がゆっくり前へ進みます。
「本当に進みます」
「強くやると回るよ」
オリビアが言った直後、タマが片側だけ強くあおぎました。
「わっ」
身体がくるりと横へ回りました。
チャトラが笑います。
「もう1回やって」
「今度は自分でやってみて」
タマは尻尾を大きく動かしました。
身体の向きが変わります。
「あ、これ使える」
チャトラも自分の長い尻尾を動かしました。
「こっちも」
2人はすぐに、尻尾と腕と脚を使って姿勢を変え始めました。
身体全体の有効な重さが空気と釣り合い、姿勢を決める力もほとんど消えています。息を吸った分は周囲とほぼ同じ密度の空気が身体の中へ移るだけなので、浮き方はほとんど変わりません。立った姿勢でも、横になっても、頭を下にしても、そのまま浮いていられます。
「見て」
チャトラが身体を縮めて回り始めました。
「速くなった」
腕と脚を広げると回転が遅くなります。
「止められる?」
「やってみる」
尻尾を振り、身体をひねり、反対側へ少し力を入れました。
回転が止まりました。
「できた」
タマも真似します。
「私も」
今度は2人で反対向きに回り始めました。
ミミまで団扇を使って1回転します。
「みんな遊び始めた」
ベラミラ先生が笑いました。
「先生もやってみますか?」
「私は景色を見ます」
「それは残念です」
「岩にぶつからない範囲でお願いしますね」
「はい」
3人は返事だけは素直でした。
5人は団扇を使い、谷の上へゆっくり移動しました。
5人は自分の身体のまま、見たい場所の横まで動き、少し上がり、止まって眺められます。団扇をあおぐ向きで進む方向も変えられました。
「さっき歩いた道、見えます」
ミミが下を指しました。
「サンバーもあそこ」
「帰りはあそこまで飛ぼう」
「賛成です」
しばらく上から谷を眺めたあと、5人は団扇でサンバーの方へ戻りました。
荷台の上まで来たところで、オリビアが声を掛けます。
「重力を戻すよ。準備いい?」
「いいよ」
「はい」
チャトラとタマが尻尾を動かし、3人とも足を下へ向けました。ベラミラ先生も地面へ足を向けます。オリビアが重力を少しずつ元へ戻すと、5人の身体がゆっくり下がりました。
チャトラ、タマ、ミミはそのまま荷台へ降り、ベラミラ先生は助手席の横へ着地しました。
「戻りました」
「上手になったね」
「もう少し回れます」
「次の場所でね」
*
昼になり、景色のよい丘でサンバーを停めました。
「ここで食べよう」
オリビアは収納から鯖サンドを出しました。
「帝都で買ったやつです」
チャトラが受け取ります。
「まだあります」
「買い置きしておいたから」
飲み物はザクロのジュースです。
5人は丘に座り、谷を見ながら食べました。
「さっき浮いてたの、あの辺ですね」
ミミが鯖サンドを持ったまま指を伸ばします。
「もう少し右じゃない?」
タマが言いました。
「きのこ岩があそこだから、その向こう」
チャトラも加わります。
「3人とも、もう地図みたいに覚えてる」
「上から見たので分かります」
ベラミラ先生はザクロのジュースを飲みながら、遠くの岩壁を見ています。
「午後はあちら側も見たいです」
「では、行きましょう」
昼食後も見学は続きました。サンバーで移動し、歩き、岩窟へ入り、上から見たくなれば5人で浮きます。夕方、ホテルへ戻ると、オリビアはサンバーを収納してから中へ入りました。
*
「今日は日替わりでお願いします」
夕食は、ホテルのレストランのリージョナルメニューに任せました。
「昨日と違います」
タマが皿を見ます。
「日替わりだからね」
「毎日ここでもいいです」
チャトラが言いました。
「旅行が終わらなくなるよ」
「それもいいです」
「学校が始まるから」
「あ」
ミミが笑いました。
食事を終えると、昨夜と同じ3部屋へ戻ります。ベラミラ先生は1人で資料をまとめ、チャトラとタマが同室、ミミはオリビアと同室です。
「画材、お願いします」
「今日は何を描くの?」
「いっぱいあります」
オリビアが収納から画材を出すと、ミミは昼間のスケッチを机へ並べました。
「きのこ岩と、教会と、上から見た谷」
「一晩で終わる?」
「終わらなくても描きます」
「じゃあ、眠くなったら寝ようね」
「はい」
窓の向こうには、昨日と同じウチヒサール城が見えていました。
*
翌朝です。
朝食には果物、パン、卵、茹で鶏のサラダ、トマトのスライスが並びました。
「今日は移動日だよ」
オリビアがパンを取りながら言いました。
「次はどこですか」
「ベルガマ」
「また遠いです?」
「今日は西へ戻る」
ミミは果物を食べながら窓の外を見ます。
「お城、今日で最後ですね」
「また来ればいいよ」
「はい」
朝食後、3部屋を片づけてチェックアウトしました。ホテルの人が見送りに出てくると、チャトラが少し緊張した顔で帝国語の挨拶をします。短い言葉ですが、ちゃんと通じました。タマも続き、ミミも覚えた言葉でお礼を言いました。
「3日で覚えたね」
オリビアが小さな声で言います。
「毎日聞いてましたから」
「まだ少しだけです」
「少しでも通じたよ」
ベラミラ先生も挨拶をし、5人はホテルを離れました。
開けた場所でBell 505を出します。
「今日はこれでベルガマまで」
「また長距離ですね」
「移動日だからね」
5人が乗り込むとローターが回り始めました。機体と乗員に働く重力を小さくし、進行方向へほんの少し傾けると、Bell 505はウチヒサールを離れて西へ向かいます。
*
ベルガマが近づくと、オリビアは窓の下を見て首をかしげました。前世で見た地図には、この辺りに大きな湖があったはずです。今の地図を開いて見比べるうち、記憶にあった湖がダム湖だったことに気づきました。ダムが造られるのは、この時代よりずっと後です。
湖へLY 650を出すつもりだったオリビアは、予定を変えました。
「今日は陸で行こう」
「何を出します?」
「泊まれるオムニバス」
Bell 505は町から少し離れた開けた場所へ降りました。ローターが止まってからオリビアが機体を収納すると、代わりに1台のキャンピングカーが現れました。トヨタ・コースターをベースにしたバスコンです。
「大きいです」
「中で休めるんですか」
「うん。5人ならここで休めるよ」
車内へ入ると、寝る場所、2台の冷蔵庫、簡単な調理のできる区画、シンク、トイレ、シャワーなどが、コースターの車体へコンパクトに収まっています。
「ここが冷蔵庫」
「2つあります」
「うん。こっちは普段使い。もう1つは分けたい物がある時にも使える」
「水は?」
「タンク。シャワーもあるよ」
ベラミラ先生が言いました。
「洗浄魔法も使えますね」
「そうですね。その方が水を使わずに済みます」
寝具の出し方、テーブルの使い方、トイレ、シンク、車内電源まで説明しているうちに、外が暗くなり始めました。
「もう夕方です」
ミミが窓の外を見ます。
「今日はここで寝ようか」
「賛成です」
オリビアは発電用エンジンを始動しました。
車内の電源が入り、照明が点きます。
*
「夕食、魚にしよう」
「魚あります?」
「海水の中を見てみる」
オリビアは収納していた海水の一部を確認しました。
「いた」
「何が?」
「アジ。それと……スズキ」
「大きいです」
チャトラが驚きました。
「こっちは5人でも余るね」
オリビアが組んだ収納魔法は、海水をその中の生き物ごと保持できます。
アジとスズキを取り出して下処理をしたあと、オリビアは可視サイズのリン酸カルシウムだけを選んで移動させる魔法で、口や喉に刺さる大きさの骨を抜きました。身に残る微細な成分までは動かしません。夕食は日本風の普通の塩焼きにしました。
「これ、好きです」
チャトラがアジを食べます。
「魚そのままですね」
タマもフォークとナイフを使っています。
「塩だけだからね」
スズキは大きく、5人で食べても半分以上残りました。
「これは明日」
食後、残ったスズキは60℃ほどまで下がったところで、ほかの食品を入れていない方の冷蔵庫へ入れました。
そのあと紅茶を入れます。
ベラミラ先生には、チャナッカレで買ったウゾも出しました。
「先生、こちらもいかがですか?」
「ありがとう」
オリビアはさらに、帝都近くで買ったホールケーキを1つ出しました。
ナッツをたっぷり使ったケーキです。
「20個のうちの1個です」
タマが言いました。
「まだ数えてるの?」
「減った数も分かります」
「すごいね」
5人で切り分けました。
オリビアはベラミラ先生のグラスへウゾを注ぎ、少しずつ水を加えました。透明だった酒の中に細かな油滴が分散し、乳白色のエマルジョンへ変わっていきます。
「白く濁るんですね」
「はい。水を加えると、こうなるんです」
先生は香りを確かめてから、白く濁ったウゾを少しずつ口にしました。
「今日はずっと移動でした」
ミミがケーキを食べながら言いました。
「カッパドキアからここまで来たからね」
「明日は遺跡ですか」
「朝ごはん食べてから行こう」
「楽しみです」
夜はそのままバスコンで寝ました。




