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第9話 あなたの会社、いくらですか?

第9話

「あなたの会社、いくらですか?」


突然だった。


本当に、突然だった。


ヤタガラス本社。


午後三時。


九条ホオズキは会議室で、海外装備の仕入価格表と格闘していた。


「……ドル嫌い」


経理担当が顔も上げずに答える。


「前回からずっと言ってますね」


「数字が動くのが悪い」


「為替はそういうものです」


「固定しろ」


「世界経済に言ってください」


「どこに電話すればいい?」


「知りません」


そのとき。


久世トウマが会議室へ入ってきた。


手には一枚の紙。


顔が妙に真面目だった。


「ホオズキ」


「ん?」


「グリムニルから会談要請」


室内が静かになった。


ホオズキが紙を見る。


差出人。


GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL


CEO


エリアス・ヴァルベルグ。


「……なんかやらかした?」


黒崎が言う。


「心当たり多すぎて絞れねえ」


「失礼な」


久世が続ける。


「場所はホテルの会議室。参加者はエリアス本人と、向こうの財務担当、それから法務担当」


経理担当が顔を上げた。


「財務と法務?」


ホオズキも気付いた。


「……仕事の話じゃない?」


「たぶん」


数日後。


都内。


高級ホテル。


最上階近くの会議室。


窓の向こうには東京の街が広がっている。


ヤタガラス側。


ホオズキ。


久世。


経理担当。


そして一応、黒崎。


黒崎がネクタイを気にしながら言った。


「俺いる?」


久世。


「護衛」


「ホテルで?」


「ホオズキが何かやらかしたとき止める係」


「なるほど」


「納得すんな」


テーブルの反対側。


エリアス・ヴァルベルグ。


左目の義眼。


銀髪。


いつもの穏やかな表情。


その隣にはグリムニルの財務担当と法務担当が座っている。


エリアスが静かに口を開いた。


「本日はありがとうございます」


ホオズキ。


「こちらこそ」


少しだけ間が空く。


「で」


ホオズキは単刀直入に聞いた。


「何の話?」


エリアスはテーブルの上へ一冊の資料を置いた。


黒い表紙。


中央に白い文字。


《CONFIDENTIAL》


その下。


《YATAGARASU ACQUISITION PROPOSAL》


ホオズキ。


「…………」


久世。


「…………」


黒崎。


「…………」


経理担当。


「…………」


ホオズキがゆっくり顔を上げた。


「これ何?」


エリアス。


「買収提案です」


「誰を?」


「あなた方を」


「会社?」


「会社です」


ホオズキはもう一度資料を見る。


《ヤタガラス買収提案》


日本語訳まで添えてある。


逃げ道がない。


ホオズキはページをめくった。


条件。


ヤタガラスの法人格は維持。


ブランド名も維持。


社員の雇用も原則維持。


現経営陣も留任。


給与体系はグリムニル基準へ段階的に引き上げ。


海外研修制度利用可能。


グリムニルの保有航空機。


訓練施設。


医療支援網。


保険契約。


海外拠点。


情報分析部門。


それらを利用可能。


さらに設備投資予算。


採用予算。


教育予算。


安全管理予算。


すべて大幅増。


ホオズキはページをめくる。


めくる。


めくる。


そして止まった。


「…………」


久世が覗く。


「どうした?」


ホオズキ。


「条件がいい」


経理担当。


「そうですね」


「めちゃくちゃいい」


「そうですね」


黒崎が聞いた。


「罠は?」


グリムニルの法務担当が淡々と答える。


「ありません」


黒崎。


「即答だな」


エリアスが続ける。


「敵対的買収ではありません」


「でしょうね」


「あなた方の能力を高く評価しています」


ホオズキは黙った。


エリアスは続ける。


「特に、日本国内での即応能力。現場判断。そして地域との関係構築」


第一話から。


ヤタガラスとグリムニルは何度も競ってきた。


価格。


入札。


人材。


設備。


保険。


為替。


規模の経済。


資本力。


あらゆる場面で、グリムニルは強かった。


圧倒的だった。


だが。


ヤタガラスにも、グリムニルにはないものがある。


エリアスはそれを認めていた。


「グリムニルがヤタガラスを吸収することで、双方の弱点を補完できます」


経理担当が聞いた。


「つまり、シナジーですね」


「その通りです」


ホオズキ。


「シナジー」


久世。


「会社同士を組み合わせることで、単独より価値が上がること」


「なるほど」


ホオズキは資料を見た。


「……これ、売ったほうが得じゃない?」


誰も答えなかった。


なぜなら。


普通に考えると。


かなり得だった。


*


ヤタガラス本社。


緊急経営会議。


ホワイトボードには大きく書かれている。


《ヤタガラスはいくらなのか》


ホオズキが腕を組む。


「ということで」


社員一同を見る。


「うちの値段を決めます」


黒崎。


「魚市場みたいに言うな」


「じゃあ聞くけど」


ホオズキが黒崎を見る。


「黒崎はいくら?」


「俺を査定すんな」


「中古価格」


「殴るぞ」


久世がホワイトボードの前に立った。


「まず基本から」


マーカーを持つ。


「会社の価値は、単純に建物や装備の値段だけでは決まらない」


ホオズキ。


「え?」


「え?」


「会社の物全部売った金額じゃないの?」


「違う」


経理担当が説明する。


「それは資産価値に近い考え方です。企業価値は、将来どれだけ利益やキャッシュを生み出せるかも重要です」


ホオズキ。


「未来まで値段に入るの?」


「入ります」


「まだ稼いでないのに?」


「入ります」


「ずるくない?」


「経営です」


黒崎が腕を組む。


「つまり」


「今ある物」


「今の利益」


「これから稼げそうな金」


「全部ひっくるめて会社の値段を考える」


経理担当。


「だいたいそんな感じです」


ホオズキ。


「黒崎の説明が一番分かりやすいの腹立つ」


「知らねえよ」


そこへ。


社員の一人が資料をめくる。


「これ何ですか」


指差した文字。


《EBITDA》


ホオズキ。


「エビ?」


経理担当。


「EBITDA」


「エビ田?」


「人名ではありません」


「エビ田さん」


「違います」


久世がホワイトボードに書く。


EBITDA。


金利。


税金。


減価償却。


それらを考慮する前の利益指標。


「会社本来の稼ぐ力を見るときによく使われる」


ホオズキ。


「利益じゃダメなの?」


経理担当。


「会社ごとに借金や税率、設備投資状況が違いますから、比較しやすくするためです」


黒崎。


「戦闘員で言えば」


「装備とか怪我とか抜きにして、素の戦闘能力見る感じか」


経理担当。


「……かなり雑ですが」


「合ってる?」


「まあ」


ホオズキ。


「また黒崎の説明が分かりやすい」


「何で怒ってんだよ」


次。


《EBITDA倍率》


ホオズキ。


「エビ田が増えた」


「増えてません」


経理担当が説明する。


「たとえばEBITDAが年間一億円の会社に対して、同業他社の取引事例などから八倍程度の倍率を適用すると」


ホワイトボード。


一億円×八倍。


八億円。


ホオズキ。


「会社八億円」


「簡易的には」


ホオズキは周囲を見る。


「誰か買う?」


黒崎。


「今の説明聞いて誰が買うんだ」


「八億円」


「高えよ」


「ローン」


「ヘリのときと同じこと言うな」


さらに。


《DCF法》


ホオズキ。


「出た」


久世。


「何が」


「アルファベット三文字」


「会社経営はだいたいアルファベット三文字で襲ってくる」


社員から妙な納得の声が上がった。


経理担当が説明を続ける。


「DCFはDiscounted Cash Flow」


「将来生み出すキャッシュフローを予測して、それを現在価値に割り引いて企業価値を計算します」


ホオズキ。


「未来のお金を割り引く?」


「はい」


「一億円は一億円じゃないの?」


「今日の一億円と十年後の一億円は同じ価値ではありません」


「なんで?」


「今日一億円あれば投資できます」


「ああ」


「十年後まで受け取れないなら、その間に運用できません」


「なるほど」


経理担当が少し嬉しそうな顔をする。


「さらに将来には不確実性があります」


「倒産するかもしれない」


「景気が変わるかもしれない」


「競争環境も変わる」


「だから将来のお金ほど現在価値は小さく評価されます」


ホオズキ。


「未来は信用されてないんだ」


「経済的には、まあ」


そこへ黒崎。


「俺なんて来月の給料すら信用してない」


経理担当。


「それは信用してください」


「前に払えないかもしれないって言ったのお前だろ」


第三話の記憶が蘇る。


会議室が少し静かになる。


経理担当。


「……あれはキャッシュフローの問題です」


ホオズキ。


「便利だなキャッシュフロー」


次。


《割引率》


そして。


《WACC》


ホオズキ。


「また来た」


久世。


「WACC」


「ワック?」


「加重平均資本コスト」


「日本語にしても分からん」


その場にいた社員数名が静かに頷いた。


経理担当。


「簡単に言えば」


「会社がお金を集めるにはコストがかかる、ということです」


「借金なら金利」


「株主から出資を受けるなら、株主が期待するリターン」


「それらをまとめたものが資本コストです」


ホオズキ。


「金を借りるのもタダじゃない」


「はい」


「金を出してもらうのもタダじゃない」


「はい」


「世知辛い」


「資本主義なので」


久世が補足する。


「DCFでは、その資本コストを使って将来のキャッシュフローを現在価値に割り引く」


ホオズキ。


「なるほど」


数秒後。


「分からん」


久世。


「だと思った」


会議は続いた。


会社の資産。


借入金。


現預金。


営業利益。


EBITDA。


将来の契約。


成長率。


リスク。


資本コスト。


そして株式価値。


ホワイトボードが数字だらけになる。


ついにホオズキが頭を抱えた。


「戦場のほうが簡単じゃない?」


黒崎。


「相手撃てば終わるからな」


経理担当。


「会社経営で撃たないでください」


*


問題は数字だけではなかった。


株式。


グリムニルがヤタガラスの株式を取得する。


一定割合を超えれば。


経営権を持つ。


つまり。


ヤタガラスの経営判断にグリムニルが関与する。


設備投資。


採用。


報酬。


契約。


事業方針。


重要事項。


ホオズキが聞く。


「でも今回、経営陣維持って書いてあるよ?」


経理担当。


「維持されます」


「じゃあ変わらない?」


「完全には違います」


「株主には会社の重要事項を決める権利があります」


「つまり」


久世が言った。


「社長としてホオズキが残っても」


「会社の所有者は変わる」


ホオズキ。


「……ああ」


ようやく。


意味が見えた。


名前は残る。


社員も残る。


建物も残る。


仕事も続く。


だが。


《誰の会社なのか》


が変わる。


ホオズキは黙った。


社員たちも静かになった。


その日の午後。


全社員ミーティングが開かれた。


ホオズキは買収条件をできる限り説明した。


給与は上がる。


福利厚生も良くなる。


設備も強化される。


海外案件にも参加しやすくなる。


航空支援。


保険。


医療。


情報。


教育。


全部グリムニルの巨大なインフラを使える。


かなり魅力的だった。


若い社員が言った。


「正直」


「悪くないと思います」


別の社員も言う。


「給料上がるなら……」


「海外研修もいいですよね」


「装備更新も早くなりそう」


「保険も手厚い」


誰かが小声で言う。


「というか、ほぼメリットしかなくない?」


ホオズキ。


「私もそう思う」


全員が笑った。


だが。


別の社員が聞いた。


「仕事は選べるんですか?」


室内が少し静かになる。


久世が答える。


「最終的にはグリムニルの経営方針に従うことになる」


「もちろん現地法人として裁量は残ると思う」


「でも完全な独立ではない」


別の声。


「危険だと思った案件を断れる?」


「場合による」


「利益が薄くても地域との関係で続けたい仕事は?」


「場合による」


「ホオズキさんが急に現場行くのは?」


黒崎。


「それは止められたほうがいい」


ホオズキ。


「おい」


笑いが起きる。


だが。


問いは残った。


どうして。


ヤタガラスを続けるのか。


儲けるため?


なら。


売ったほうがいい。


安定のため?


なら。


グリムニル傘下のほうがいい。


社員の待遇?


たぶんグリムニルのほうが良くなる。


装備。


保険。


福利厚生。


海外ネットワーク。


資金力。


ほとんど負けている。


ホオズキは腕を組んだ。


「じゃあ」


「何で残すんだろ」


誰もすぐには答えなかった。


しばらくして。


一人の社員が言った。


「……自分たちで決められるからじゃないですか」


ホオズキが見る。


「何を?」


「仕事を」


別の社員が続けた。


「誰と働くかも」


また別の社員。


「どういう会社にするかも」


さらに。


「失敗したとき、誰のせいにもできないですけど」


「うん」


「その代わり、自分たちで決めたって言える」


ホオズキは黙って聞いていた。


社員が言う。


「俺、この会社」


「効率悪いと思います」


ホオズキ。


「おい」


「会議も雑だし」


「おい」


「社長すぐ現場行くし」


「おい」


「黒崎さん怖いし」


黒崎。


「俺関係ねえだろ」


「経理はいつも金ないって言うし」


経理担当。


「事実なので」


「久世さんは仕事増やすし」


久世。


「必要だから増えてるんだよ」


「でも」


社員は少し笑った。


「自分たちの会社って感じはします」


静かだった。


不思議なくらい。


その言葉が。


一番しっくりきた。


*


数日後。


同じホテル。


同じ会議室。


エリアスは席に座っていた。


ホオズキが向かい側に座る。


今回は。


資料は少ない。


エリアスが聞く。


「結論は出ましたか?」


ホオズキ。


「うん」


一呼吸。


「売らない」


エリアスの表情は変わらなかった。


「理由を聞いても?」


ホオズキは少し考える。


「条件はすごく良かった」


「社員の待遇も上がる」


「会社も成長すると思う」


「グリムニルの資金力もネットワークも魅力的」


「正直」


ホオズキは笑った。


「かなり迷った」


エリアスも少し笑う。


「それは光栄です」


「でも」


ホオズキは続けた。


「私たちは」


「自分たちで仕事を選びたい」


「自分たちで決めたい」


「自分たちで失敗したい」


エリアス。


「失敗も?」


「成功だけ欲しいって言うのは都合よすぎるでしょ」


エリアスは黙った。


ホオズキが続ける。


「自由って」


「たぶん効率悪いんだよ」


「金もかかる」


「失敗もする」


「グリムニルみたいに大きい会社に入ったほうが安心だと思う」


「でも」


「そこ込みで」


「まだ自分たちでやりたい」


エリアスはしばらくホオズキを見た。


そして。


穏やかに聞いた。


「金額が不足していましたか?」


ホオズキ。


「逆」


「?」


「高すぎるから、ちょっと揺れた」


数秒。


エリアスが笑った。


声を出して。


ほんの少しだけ。


「それは申し訳ない」


「危なかったよ」


「もう少し高ければ?」


「売ってたかも」


久世。


「ホオズキ」


「冗談」


黒崎。


「今の間、長かったぞ」


「冗談だって」


エリアスは資料を閉じた。


買収提案。


終了。


敵対的買収もない。


圧力もない。


説得もない。


ただ。


提示して。


断られて。


終わった。


エリアスが立つ。


そしてホオズキへ手を差し出した。


「では」


「競争相手として続けましょう」


ホオズキも立つ。


その手を握る。


「望むところ」


握手。


短い。


だが強い。


エリアスが言う。


「ただし」


ホオズキ。


「何?」


「次の入札で手加減はしません」


ホオズキ。


「買収断った直後にそれ言う?」


「競争相手ですから」


「性格悪くない?」


「経営です」


ホオズキが振り返る。


「経理」


「はい」


「今の言葉嫌い」


「私に言われても」


*


ヤタガラス本社。


翌日。


社内掲示板。


《買収提案について》


《グリムニルによる買収提案は正式に辞退しました》


《今後も独立企業として事業を継続します》


その下。


誰かが手書きで追加していた。


《ということで来月も働いてください》


さらに。


《給料は?》


《出ます》


《ほんと?》


《出ます》


《第三話で危なかったよね?》


《出ます》


経理担当が赤字で書いていた。


《出ます。》


ホオズキはそれを見ながらコーヒーを飲んだ。


久世が隣に立つ。


「しかし」


「ん?」


「面白いな」


「何が」


「会社の値段を考えてたのに」


久世は社内を見渡した。


整備担当。


営業担当。


経理。


警備員。


訓練中の隊員。


電話に追われる社員。


誰かがコピー機を叩いている。


「最後は」


「何で会社を続けるのかって話になった」


ホオズキ。


「会社ってそういうもんじゃない?」


久世。


「たぶんね」


ホオズキは少し考えた。


そして。


「でもさ」


「ん?」


「売却価格」


「うん」


「誰にも言わないほうがいいよね」


久世が止まる。


「絶対言うな」


「分かってる」


「社員に言ったら?」


「ざわつく」


「取引先に言ったら?」


「もっとざわつく」


「黒崎に言ったら?」


「飲み会で言う」


廊下の向こうから黒崎の声。


「聞こえてるぞ!」


ホオズキ。


「地獄耳!」


「声がでけえんだよ!」


いつものヤタガラス。


いつもの騒がしさ。


いつもの雑な会社。


そして。


今のところ。


誰の子会社でもない。


その日の夕方。


ホオズキの机に。


一枚の見積書が置かれた。


次の入札案件。


競争相手欄。


GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL。


ホオズキはそれを見る。


そして笑った。


「……よし」


会社の値段は。


計算できる。


売上。


利益。


EBITDA。


将来キャッシュフロー。


割引率。


資本コスト。


株式。


設備。


契約。


人材。


ブランド。


全部数字にできる。


けれど。


その会社を。


誰が。


どういう意思で。


どこへ進ませるのか。


そこだけは。


計算式では決まらない。


少なくとも。


ヤタガラスは。


まだ。


自分たちで決めるつもりだった。


――第9話

「あなたの会社、いくらですか?」


了

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