敵はドル円
第8話
「敵はドル円」
「誰に撃たれた?」
朝九時二十分。
ヤタガラス本社、経理室。
九条ホオズキは、悲鳴を聞いて飛び込んできた。
右手にはコーヒー。
左手には、なぜか護身用の警棒。
完全に戦闘態勢だった。
経理担当が机に突っ伏している。
「為替です」
「……為替?」
「はい」
「どこにいる?」
「世界中です」
ホオズキは警棒を下ろした。
「撃ち返せる?」
「無理です」
「じゃあ逃げる?」
「逃げてもついてきます」
「強敵じゃん」
経理担当は、死んだ魚のような目でモニターを指した。
そこには数字が並んでいる。
今回ヤタガラスが更新する予定の海外製装備。
暗視装置。
無線機。
防弾装備。
医療機器。
監視用センサー。
その他、海外任務用の装備一式。
契約総額。
100万ドル。
ホオズキが首をかしげる。
「で?」
経理担当が言った。
「契約を検討した時点では、一ドル140円で予算を組みました」
「うん」
「一億四千万円です」
「うん」
「ところが支払い時点で、一ドル155円になった場合」
電卓を叩く。
数字が表示される。
一億五千五百万円。
沈黙。
ホオズキ。
「……増えた?」
「増えました」
「装備の数は?」
「同じです」
「性能は?」
「同じです」
「オマケは?」
「ありません」
「一千五百万円増えてるけど?」
「為替です」
ホオズキはしばらく画面を見た。
それから言った。
「返品しよう」
「まだ買ってません」
「よし」
「でも買わないと装備更新できません」
「じゃあ買おう」
「一千五百万円増えます」
「返品しよう」
「だからまだ買ってません」
経理担当は頭を抱えた。
その日の緊急会議。
会議室のホワイトボードには大きく、
《敵:ドル円》
と書かれていた。
黒崎が腕を組んでいる。
久世トウマは資料を読んでいる。
神代レンジはスマートフォンを触っている。
ホオズキが腕を組んだ。
「状況を整理しよう」
経理担当が説明する。
「海外企業との取引では、契約通貨が円とは限りません。今回のようにドル建ての場合、契約価格が変わらなくても、為替レートによって円換算の支払額が変動します」
久世が資料を見る。
「つまり一ドル140円なら一億四千万だけど、155円なら一億五千五百万」
「はい」
黒崎が眉をひそめる。
「逆に一ドル130円になれば?」
「一億三千万円です」
ホオズキの目が輝いた。
「じゃあ130円になるまで待てばいいんじゃない?」
経理担当。
「いつなります?」
「知らない」
「私も知りません」
沈黙。
黒崎。
「解散」
「待って!」
ホオズキが止めた。
経理担当は続ける。
「問題はそこなんです。為替がどちらへ動くか、確実には分からない」
「でもニュースで専門家が予想してるじゃん」
「予想です」
「銀行も予想してる」
「予想です」
「偉い教授も」
「予想です」
「すごい投資家も」
「予想です」
ホオズキは腕を組んだ。
「……誰も知らないの?」
「少なくとも確実に知っている人はいません」
「世界経済、思ったより雑だな」
「そういう話ではありません」
そこで久世が資料を一枚めくった。
「グリムニルはどうしてるんだろ」
室内が静かになる。
嫌な名前が出た。
最近、何を調べても大体最後に出てくる会社。
GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL。
世界中に拠点を持つ巨大危機管理企業。
ヤタガラスの宿敵というより、
ヤタガラスが経営について勉強するたびに教材として登場する会社である。
調べてみると、答えはすぐに分かった。
グリムニル日本法人。
装備調達会議。
担当者が報告する。
「ドル建て調達分については本社財務部で為替予約済みです」
イングリッド・ファルクは資料から顔も上げずに答えた。
「了解しました」
以上。
終わり。
ヤタガラス側が一千五百万円で死にかけている頃、
グリムニルでは会話が二行で終了していた。
報告を聞いたホオズキが机を叩いた。
「またシステム!」
久世。
「最近ずっとそれ言ってるね」
「だってあいつら毎回そうじゃん!」
黒崎がコーヒーを飲む。
「規模の経済」
「言うな!」
「資金力」
「言うな!」
「人的資本」
「やめろ!」
「保険」
「前回!」
経理担当が咳払いした。
「今回の問題は規模だけではありません」
ホオズキが止まる。
「違うの?」
「はい。もちろん巨大企業のほうが専門の財務部門を持てるなど有利ではあります。ただ為替リスク管理そのものは、中小企業でもできます」
「どうやって?」
経理担当はホワイトボードに書いた。
為替予約。
ホオズキ。
「予約?」
「はい」
「一ドルくださいって予約するの?」
「概念としては少し近いです」
銀行などとあらかじめ、
将来ドルを買う際の為替レートを決めておく。
たとえば数か月後に100万ドルの支払いがある。
その時点でドルがいくらになっているか分からない。
そこで事前に交換レートを固定する。
一ドル145円で為替予約したとする。
支払時に市場レートが155円になっていても、
約束した145円でドルを調達できる。
ホオズキが目を見開く。
「すごいじゃん!」
しかし経理担当が続ける。
「ただし逆もあります」
「逆?」
「市場レートが130円になっていても、基本的には予約した145円で買います」
ホオズキ。
「……損じゃん」
「結果だけ見ればそう感じます」
「じゃあ130円まで待とう」
「だから、それが分からないんです」
話が一周した。
久世がホワイトボードを見る。
「要するに、安く買うためじゃなくて、支払額を確定させるため?」
経理担当がうなずいた。
「その通りです」
経営上怖いのは、
損することだけではない。
いくら必要なのか分からないこと。
一億四千万円だと思って受注価格を決めた。
ところが支払い時には一億五千五百万円になった。
その差額が、そのまま利益を吹き飛ばすこともある。
逆にレートを固定できれば、
予算が立てられる。
見積書が作れる。
利益率を計算できる。
必要な運転資金も分かる。
黒崎が言った。
「つまり防弾チョッキみたいなものか」
経理担当が少し考える。
「かなり近いです」
ホオズキ。
「弾が当たらなくなる?」
「違います」
「じゃあ何?」
「当たった時の被害を予想可能にします」
「嫌な防弾チョッキだな」
「金融商品とはそういうものです」
そこで、それまで黙っていたレンジが口を開いた。
「だったら簡単じゃない?」
全員が見る。
レンジはスマートフォンを操作していた。
画面には、
FX取引アプリ。
嫌な予感しかしない。
レンジが自信満々に言う。
「ドルが上がると思ったら、先にドル買っとけばいいんだろ?」
経理担当の目が細くなった。
「何をしています?」
「FX」
「閉じてください」
「いや、待って。今チャートいい形してる」
「閉じてください」
「ここ抜けたら上じゃない?」
「閉じてください」
「レバレッジ二十五倍――」
経理担当が無言でスマートフォンを取り上げた。
「俺のスマホ!」
「それはヘッジではありません」
「でもドルが上がったら儲かるだろ?」
「投機です」
「同じじゃないの?」
「全然違います」
経理担当はホワイトボードに二つ書いた。
ヘッジ。
投機。
「ヘッジは、すでに存在するリスクを減らすための取引です」
ヤタガラスには将来100万ドルを支払う予定がある。
ドル高になると困る。
だからドル高による損失を抑える。
それがヘッジ。
「一方、ドルが上がると思うから儲ける目的でドルを買う。それは投機です」
レンジ。
「でも当たれば儲かる」
「外れたら?」
「気合い」
「金融市場に気合いを持ち込まないでください」
「損切りする」
「いつ?」
「戻るまで待つ」
「それを損切りとは言いません」
ホオズキが横から覗き込む。
「レンジ、いくら入れようとしてたの?」
「とりあえず五十万」
「会社の金?」
「いや、自分の――」
経理担当。
「なら業務時間外に自己責任でどうぞ」
レンジのスマートフォンが返却された。
レンジが少し驚く。
「止めないんだ」
「会社のリスク管理とあなたの個人資産形成は別問題です」
「大人だ……」
「ただし勤務中は禁止です」
スマートフォンが再び没収された。
「返して!」
為替対策は、それだけではなかった。
次に検討されたのが、
自然ヘッジ。
久世が首をかしげる。
「自然?」
「金融商品を使わず、収入と支出の通貨を合わせる方法です」
たとえば海外案件でドル収入がある。
そのドルをすぐ円に換えず、
ドル建て装備の購入に使う。
ドルで入ってきた金を、
ドルのまま払う。
そうすれば円とドルを交換する必要が減る。
ホオズキ。
「つまり?」
経理担当。
「アメリカでもらったドルで、アメリカの商品を買う」
「最初からそう言ってよ」
「今言いました」
そのためヤタガラスは、
外貨口座の運用も見直した。
海外案件で得たドルを、
必要もないのに全部円へ交換しない。
将来ドル支払いがあるなら、
一定額をドルで保有する。
黒崎が言った。
「ドル貯金か」
「目的が明確ならそうです」
レンジが手を挙げる。
「じゃあドルが上がると思ったらいっぱい――」
「あなたは黙っていてください」
「まだ何も言ってない」
「顔が投機でした」
「顔で判断するな」
さらに、
契約書も見直された。
久世が読み上げる。
「価格スライド条項?」
「はい」
為替が一定範囲を超えて変動した場合、
価格の一部を見直せる条項。
海外調達コストが急激に変わった際、
すべてをヤタガラスだけが負担しないための仕組みだ。
ホオズキが言う。
「それ書けば全部お客さんに払わせられる?」
「そんな契約、相手が飲みません」
「ですよね」
一定範囲の変動までは自社で負担。
それを超えた場合だけ協議。
あるいは基準レートを決め、
大幅な変動分を双方で負担する。
リスクを消すのではない。
誰が、どこまで負担するかを先に決める。
それだけでも大きく違う。
さらに仕入れ先も調べ直した。
これまで、
「品質がいい」
「昔から使っている」
という理由だけで海外メーカーを選ぶことが多かった。
しかし実際には、
ドル建て。
ユーロ建て。
円建てで購入できる国内代理店。
複数通貨で決済可能なメーカー。
選択肢はいくつもある。
もちろん価格だけで仕入れ先は決められない。
性能。
信頼性。
保守。
納期。
訓練。
部品供給。
それらを含め、
通貨リスクも調達条件の一つとして評価する。
ヤタガラスの調達表に、
新しい項目が追加された。
《決済通貨》
ホオズキはそれを見ながら言った。
「装備買うのに、銃の性能より通貨見る日が来るとは思わなかった」
黒崎。
「会社だからな」
「最近その一言で全部片付けてない?」
数日後。
ヤタガラスは銀行と協議し、
今回の100万ドル分について、
段階的に為替予約を行うことにした。
全額を一度に固定しない。
支払い時期に合わせ、
必要額を分けて予約する。
同時に、
海外案件から得たドル収入の一部を外貨口座に残す。
今後の見積書には、
為替変動を想定した一定の余裕を設ける。
長期契約については、
価格スライド条項も検討する。
そして仕入れ先についても、
決済通貨を含めて比較する。
地味だった。
ものすごく地味だった。
敵基地への突入もない。
銃撃戦もない。
ヘリも飛ばない。
しかし経理担当は言った。
「これで少なくとも、為替が動くたびに利益が吹き飛ぶ会社ではなくなります」
ホオズキは少し考えた。
「じゃあドル円がどうなるか予想しなくていいの?」
「予想はします」
「するんだ」
「ただし経営を予想だけに賭けない、ということです」
その言葉に、
ホオズキは妙に納得した。
グリムニルが強い理由は、
為替を当てられるからではない。
未来を知っているからでもない。
未来が外れても会社が困らないようにしているからだ。
第一話からずっとそうだった。
価格。
資金。
設備。
人材。
保険。
そして為替。
巨大企業との差は、
金額だけではない。
「何か起きた時にどうするか」が、
最初から制度になっている。
ヤタガラスも、
ようやくそこへ一歩ずつ近づいていた。
その日の夕方。
経理担当が廊下を歩いていると、
休憩室から小声が聞こえた。
レンジだった。
「……ここでドル買って……」
扉が開く。
レンジが振り返る。
経理担当が立っている。
「何をしています?」
「勉強」
「画面を見せてください」
「経済の勉強」
「見せてください」
「世界情勢の勉強」
「スマートフォン」
「俺の個人資産だから!」
「勤務中です」
没収。
レンジ。
「横暴だ!」
ホオズキがコーヒーを飲みながら通りかかる。
「何やったの?」
「FX」
「ああ」
「社長からも言ってやってよ」
「私、社長じゃない」
「そうだった」
黒崎も通りかかった。
「で、勝ってるのか?」
レンジが黙る。
ホオズキが止まる。
経理担当も止まる。
久世まで顔を出す。
レンジ。
「……現在」
「うん」
「マイナス八万七千円」
全員、沈黙。
経理担当が言った。
「非常に良い教材ですね」
「何の?」
「ヘッジと投機の違いです」
ホオズキが吹き出した。
久世も笑う。
黒崎は肩を震わせている。
レンジだけ笑っていない。
「まだ損失確定してないから」
経理担当。
「最も危険な発言が出ました」
「戻るから」
「二番目に危険です」
「長期目線だから」
「三番目です」
ホオズキがレンジの肩を叩く。
「大丈夫」
「何が?」
「会社の金じゃない」
「慰めになってない!」
その瞬間。
経理担当のパソコンから通知音が鳴った。
全員が凍る。
ホオズキ。
「……ドル円?」
経理担当が画面を見る。
「違います。メールです」
全員が息を吐いた。
ホオズキが天井を見上げる。
「為替怖え……」
武装集団にも。
テロリストにも。
吸血鬼にも。
ヤタガラスは撃ち返せる。
しかしドル円には、
銃も刀も通用しない。
だから彼らは、
初めて別の武器を覚えた。
予測ではなく、
管理。
利益を増やすためではない。
利益を守るために金融を使う。
それが、
ヤタガラスがこの日覚えた、
新しい戦い方だった。




