ラスボス、保険会社
第7話
「ラスボス、保険会社」
大型契約の最終審査。
会議室の大型モニターには、契約条件一覧が映し出されていた。
人員数。
訓練資格。
緊急時対応。
通信体制。
車両。
医療支援。
事故対応。
情報管理。
ヤタガラスはここ数か月、その一つ一つを潰してきた。
足りない航空能力は提携で補った。
車両はリースに切り替えた。
人事制度も変えた。
社員の資格取得制度も整備した。
以前なら、
「うちじゃ無理」
で終わっていた条件が、
今ではほとんど満たせている。
ホオズキは腕を組み、
満足そうにモニターを眺めていた。
「成長したね、うち」
黒崎が言う。
「お前は何もしてない日も結構あったけどな」
「会社っていうのは社員が成長すれば社長も成長したことになるんだよ」
「お前、社長じゃねえだろ」
久世が資料をめくる。
「残ってる条件、あと一つですね」
「じゃあ終わりじゃん」
「これです」
画面が切り替わった。
《対人対物賠償責任保険》
《補償限度額 50億円以上》
ホオズキは数秒眺めた。
「……五十億?」
「はい」
「何を壊す想定なの?」
経理担当が答える。
「壊す前提ではありません」
「でも五十億でしょ?」
「最悪の場合に備えるのが保険です」
「五十億円分の何かを壊したら、もう保険より先に私が逃げるよ」
黒崎。
「逃げるな」
久世がパソコンを操作する。
「加入自体はできます」
ホオズキの顔が明るくなる。
「じゃあ問題なし」
「問題は保険料です」
経理担当が数字を表示した。
ホオズキの顔から表情が消えた。
「…………」
黒崎。
「どうした」
「ゼロが多い」
「金の話になると急に算数できなくなるな」
「これ年間?」
「年間です」
「毎年?」
「年間なので」
ホオズキが椅子から立ち上がった。
「保険会社襲ったほうが早くない?」
「保険金が下りなくなるのでやめてください」
「じゃあ保険会社を守る仕事をして保険料と相殺できない?」
「できません」
「世知辛い!」
今回の契約は大きい。
だが利益率が無限にあるわけではない。
提示された保険料をそのまま払えば、
ヤタガラスの見積額は大きく上がる。
価格競争では不利になる。
そして当然。
グリムニルも同じ保険に加入している。
しかし。
保険料が違った。
ホオズキが資料を見る。
ヤタガラス。
高い。
グリムニル。
安い。
ホオズキ。
高い。
グリムニル。
安い。
ホオズキは二枚の紙を交互に見た。
「なんで?」
経理担当が説明する。
「グリムニルは世界中の案件をまとめた包括契約を結んでいます」
沈黙。
「……また?」
「はい」
「また規模?」
「はい」
ホオズキが机を叩いた。
「また規模の経済!」
経理担当が淡々と言った。
「第一話以来の宿敵です」
黒崎が眉をひそめる。
「規模の経済をラスボスみたいに言うな」
「だってずっと出てくるじゃん!」
実際、その通りだった。
航空機。
訓練施設。
装備調達。
人材採用。
福利厚生。
そして今度は保険。
会社が大きい。
契約数が多い。
事故データが大量にある。
世界中の案件をまとめて契約できる。
一件あたりの管理コストも下がる。
リスクも分散される。
結果。
保険会社との交渉力が強い。
グリムニルのような巨大企業なら、
年間数百、数千の案件をまとめて保険会社へ持ち込める。
ヤタガラスは違う。
規模が小さい。
案件数も少ない。
一件の事故が会社全体へ与える影響が大きい。
保険会社から見れば、
リスクが読みづらい。
だから高い。
ホオズキは不満そうだった。
「事故起こしてないのに」
経理担当。
「それを証明します」
「どうやって?」
「全部出します」
「全部?」
「全部です」
数日後。
保険会社との打ち合わせ。
長机の上に、
大量の資料が積まれた。
過去の事故記録。
訓練時間。
射撃訓練記録。
車両事故。
装備点検。
労災。
医療対応記録。
現場配置人数。
勤務時間。
休息時間。
資格一覧。
現場ごとの危険評価。
さらに。
ヒヤリハット報告。
ホオズキが一冊を開く。
「ヒヤリハットって何?」
久世。
「事故にはならなかったけど、危なかった事例です」
「例えば?」
久世が一件読む。
「倉庫警備中、濡れた床で隊員が滑りかけた」
「平和だな」
「その一件を放置すると、次は転倒事故になるかもしれません」
「なるほど」
次。
《車両後退時、死角に資材あり。接触寸前で停止》
次。
《夜間訓練中、無線チャンネル設定ミス》
次。
《給湯室の棚からカップ麺落下》
ホオズキ。
「最後いる?」
経理担当。
「職場安全という意味では」
「カップ麺だよ?」
黒崎が資料を見る。
「しかもお前のじゃねえか」
「え?」
《原因:九条ホオズキが棚に大量のカップ麺を無理に詰め込んだため》
「誰だこれ報告したの!」
「俺」
「黒崎!」
「落ちてきたんだよ」
保険会社の担当者は、真顔で資料を読んでいた。
ホオズキが小声で聞く。
「これも保険料に影響する?」
経理担当。
「たぶんしません」
「よかった……」
担当者は資料から顔を上げた。
「御社の事故件数は、同規模の事業者と比較して低いですね」
ホオズキが胸を張る。
「でしょう」
「ただ」
「ただ?」
「事故が少ないことと、事故管理が優れていることは別です」
胸がしぼんだ。
担当者は説明した。
事故が少ない。
それだけでは足りない。
偶然かもしれない。
危険な案件が少なかっただけかもしれない。
重大事故になる前の兆候を見逃している可能性もある。
保険会社が知りたいのは、
《事故が起きなかった》
ではなく、
《事故が起きにくい仕組みになっている》
ということだった。
ホオズキが難しい顔をする。
「つまり運がいいだけじゃ信用できない?」
「非常に簡単に言えば」
「保険会社、疑い深いね」
担当者が穏やかに答えた。
「それが仕事です」
ヤタガラスは、
安全管理制度を見直した。
まず。
ヒヤリハット報告を簡単にした。
今までは書類。
発生場所。
日時。
原因。
状況。
対策。
上司承認。
ホオズキが書式を見て言った。
「事故起こすより報告書書くほうが大変じゃん」
「だから報告されないんです」
スマートフォンから簡単に登録できる方式へ変更。
写真一枚。
状況。
危険度。
それだけでも送れるようにした。
そして重要なルール。
ヒヤリハットを報告したこと自体では、
原則として評価を下げない。
隠した場合は別。
黒崎が言った。
「ミスを報告すると怒られる会社だと、誰も報告しなくなるからな」
「じゃあ私のミスも?」
「お前は普段から報告しろ」
「差別!」
さらに。
車両運転時間の上限。
休息時間。
装備点検周期。
資格更新。
現場ごとの危険度分類。
救急装備の配置。
医療搬送手順。
事故発生時の責任者。
それらを統一した。
今まで現場ごとに、
「経験のある人間がなんとなく判断していた」
部分を、
記録できる形へ変えていった。
ただし。
何でも禁止にはしなかった。
危険をゼロにすることはできない。
PMCが、
「危ないので現場に行きません」
と言い出したら会社の存在意義が消える。
だから必要なのは、
危険をなくすことではない。
危険を把握し、
減らし、
残った危険に備えること。
リスクマネジメント。
ホオズキはホワイトボードに書いた。
《危険をゼロにする》
経理担当が消した。
《危険を管理する》
ホオズキが書き直す。
《危険と仲良くする》
また消された。
「なんで!」
「誤解を招くので」
そしてもう一つ。
保険会社から提案された。
免責額。
事故が起きた場合、
一定額まではヤタガラス自身が負担する。
それを超えた損害を保険会社が補償する。
ホオズキが言った。
「保険入ってるのに自分で払うの?」
「はい」
「じゃあ保険って何?」
担当者が説明する。
小さな損害まで全て保険で補償すれば、
保険料は上がる。
さらに、
「どうせ保険会社が払う」
という意識が強くなれば、
安全対策がおろそかになる可能性もある。
これが、
モラルハザード。
ホオズキ。
「つまり保険に入ると人間が雑になる?」
経理担当。
「可能性がある、という話です」
黒崎。
「お前の場合、入ってなくても雑だけどな」
「私を経済用語の具体例にするな」
一定額までは自社負担。
だから事故を減らす動機が残る。
その代わり、
保険料は安くなる。
ヤタガラスは、
会社が耐えられる範囲まで免責額を上げた。
さらに新しい安全管理制度を提出。
保険会社との再交渉。
結果。
保険料は下がった。
ホオズキ。
「勝った!」
経理担当。
「まだです」
「なんで!?」
確かに下がった。
しかし。
まだグリムニルより高い。
巨大企業の規模には届かない。
ホオズキは机に突っ伏した。
「結局、大企業には勝てないじゃん……」
しばらく沈黙。
そこへ久世が言った。
「一社ならね」
ホオズキが顔を上げる。
「一社なら?」
数週間後。
会議室に、
見慣れない会社の人間が集まっていた。
地方警備会社。
海外危機管理会社。
海上警備事業者。
医療搬送会社。
施設警備会社。
どれも、
グリムニルほど大きくない。
ヤタガラスと同じ。
中小から中堅規模の事業者だった。
以前から情報交換を行っていた、
中小事業者連絡会。
そこへヤタガラスは提案した。
「保険、まとめません?」
最初。
全員が怪訝な顔をした。
だが話を聞くうち、
表情が変わった。
各社が個別に保険へ加入している。
だから交渉力が弱い。
保険会社側も、
十社それぞれを審査し、
十社それぞれと契約し、
十社それぞれを管理する必要がある。
なら。
一定の安全基準を共同で作る。
事故データを共有する。
最低訓練時間を決める。
重大事故の報告ルールを統一する。
装備点検基準をそろえる。
その上で。
団体として保険契約を結ぶ。
十社分の保険をまとめて発注する。
保険会社側にもメリットがある。
契約規模が大きくなる。
事故データも増える。
リスクを複数企業へ分散できる。
つまり。
リスクプール。
一社で重大事故が起きても、
全社が同時に事故を起こすとは限らない。
多数の加入者をまとめることで、
損害発生のばらつきを吸収しやすくなる。
そして契約量が増えれば、
保険会社との価格交渉もできる。
一社では弱い。
十社なら違う。
もちろん問題もあった。
ある会社が、
「団体保険だから大丈夫」
と安全管理を怠れば、
全体の保険料が上がる。
ここでも、
モラルハザード。
そこで参加条件を設定した。
共通の安全基準。
定期監査。
重大事故の報告義務。
一定以上の訓練実績。
改善命令を無視した企業は、
団体契約から外れる。
ホオズキが言った。
「仲良しクラブじゃないんだ」
経理担当。
「保険なので」
「世知辛いねえ」
「保険なので」
交渉は続いた。
そして。
保険会社から、
新しい見積書が届いた。
経理担当が封筒を開く。
数字を見る。
もう一度見る。
電卓を叩く。
ホオズキが横から覗く。
「どう?」
「いけます」
「グリムニルより安い?」
「そこまでは」
「じゃあダメじゃん!」
「ただし、十分競争できる水準です」
ホオズキが止まる。
「……ほんと?」
「はい」
今回の入札で、
保険料を理由に価格競争から脱落することはなくなった。
しかも。
団体保険は今回だけではない。
今後も参加企業が増えれば、
契約規模はさらに大きくなる。
事故実績が蓄積すれば、
条件改善の余地もある。
ヤタガラス単独では作れなかった規模。
それを、
複数企業で作った。
ホオズキはしばらく考えたあと、
言った。
「つまり」
嫌な予感がして、
経理担当が見る。
「小さい会社いっぱい集めれば大きい会社?」
「ものすごく雑に言えば」
ホオズキは満足そうにうなずいた。
「なるほど」
黒崎。
「絶対ちゃんと理解してねえだろ」
「理解したよ」
「じゃあ説明してみろ」
「みんなで保険に入ると安い」
「五十点」
「事故らないともっと安い」
「七十点」
「事故ったら怒られる」
「違う」
「保険会社はラスボス」
経理担当が首を振った。
「それが一番違います」
ホオズキは納得しなかった。
「だって最終審査で出てきたじゃん」
「保険会社は敵ではありません」
「じゃあ何?」
少し考えて。
経理担当は答えた。
「こちらのリスクに値段を付ける会社です」
ホオズキが嫌そうな顔をした。
「それ、敵より怖くない?」
誰も否定しなかった。
数日後。
大型契約の最終見積書が完成した。
人件費。
車両費。
通信費。
外注費。
航空支援費。
医療費。
そして。
保険料。
以前なら、
ただの経費として見ていた数字。
だが今は違う。
事故を減らせば下げられる。
仕組みを改善すれば評価される。
仲間を増やせば交渉力になる。
保険料とは、
会社がどれだけ危険なのかを示す、
一つの値札でもあった。
ホオズキは完成した見積書を眺める。
第一話では、
グリムニルの安さを見て、
ただ驚くことしかできなかった。
だが今は。
同じ大きさになる必要はない。
同じやり方をする必要もない。
巨大企業が、
自社の規模でコストを下げるなら。
小さな会社は、
つながることで規模を作ればいい。
ホオズキが見積書を閉じた。
「よし」
黒崎が聞く。
「何がよしなんだ」
「保険会社倒した」
経理担当。
「倒してません」
「でも保険料下がった」
「交渉が成立しただけです」
「実質勝ち」
「相手も利益が出ています」
ホオズキは少し考えた。
「じゃあ」
にやりと笑う。
「双方勝利?」
経理担当も、
少しだけ笑った。
「それなら正解です」
ホオズキは立ち上がった。
「よし! じゃあ入札行こう!」
黒崎も立つ。
久世が資料をまとめる。
経理担当が最後に確認する。
ホオズキは会議室を出る直前、
ふと振り返った。
「そういえば」
「なんです?」
「カップ麺のヒヤリハット、消せない?」
「消しません」
「なんで!?」
「安全記録なので」
「もう二度と棚に詰めないから!」
「その改善行動も記録しておきます」
「そこまで!?」
廊下に、
ホオズキの声が響いた。
こうしてヤタガラスは、
五十億円の保険より先に、
一個百八十円のカップ麺の管理から改善することになった。
会社経営とは、
だいたいそういうものだった。




