第4話 秘密のワルツ
第4話 秘密のワルツ
消灯後の施設は、海の底みたいに静かだった。
廊下の照明は半分だけ落とされ、床に薄青い光が伸びている。遠くで加湿器が低く唸り、時折、誰かの寝息が個室の隙間から漏れていた。
葵は夜勤の巡回記録を抱え、静かな廊下を歩いていた。
窓の外には冬の月。
白く冷えた光が中庭の木々を照らし、霜を銀色に変えている。
そのときだった。
どこからか、微かに音楽が聞こえた。
古いレコード特有の、ざらついたノイズ混じりの音。
ゆっくりした三拍子。
ワルツ。
葵は立ち止まる。
音はデイルームの方からだった。
こんな時間に誰が――。
そっと近づく。
扉は少しだけ開いていた。
そこから漏れる橙色の灯り。
暖房の温い空気と、古い木材の匂い。
葵は息を潜め、隙間から中を覗いた。
デイルームの中央に、ジェミニがいた。
その腕の中には、一人の老婦人。
白髪を綺麗に結い上げた、小柄な女性だった。
白石芙美子。
八十六歳。
元社交ダンサー。
脊椎疾患で歩行は困難になり、今はほとんど寝たきりだった。
部屋の隅では、小さな蓄音機が回っている。
レコード針が擦れる音。
途切れそうな古いワルツ。
ジェミニは芙美子の体を静かに支えていた。
まるで壊れ物を扱うみたいに。
片腕が背中を抱き、もう片方が細い手を包む。
芙美子の足はほとんど動かない。
だからジェミニが、彼女の重心ごと支えていた。
二人で踊っているというより、一人分の命を二人で運んでいるようだった。
「……ごめんなさいねぇ」
芙美子がかすかに笑う。
「重いでしょう」
「いいえ」
ジェミニの声は静かだった。
「重量は四十一・二キログラムです」
「ふふ」
芙美子が目を細める。
「昔はもっと軽かったのよ」
「記録映像を確認済みです」
「あら、見たの?」
「はい」
「恥ずかしいわ」
ワルツが続く。
月明かりが床に落ち、二人の影を長く伸ばしていた。
ジェミニの足取りは正確だった。
一歩。
半回転。
静かなターン。
だが不思議と機械的ではない。
呼吸を合わせるみたいに、ゆっくり揺れている。
芙美子は目を閉じていた。
頬が少し紅潮している。
その横顔は、少女みたいに穏やかだった。
「昔ねぇ」
彼女がぽつりと言う。
「主人と毎晩踊ったの」
「はい」
「喧嘩した日も」
ワルツの音が小さく軋む。
「お金がなかった日も」
ジェミニは黙って聞いている。
「踊るとね、全部どうでもよくなったの」
窓の外で風が鳴る。
古いガラスが微かに震えた。
「もう一度だけ踊りたかったのよ」
芙美子の声は、ほとんど吐息だった。
ジェミニは何も答えない。
ただ、彼女を支える腕にほんの少しだけ力を込めた。
その動きを見て、葵は胸が締めつけられた。
なんでそんなに優しく抱けるんだろう。
機械なのに。
人間よりずっと。
蓄音機の回転音。
暖房の風。
レコードに混じる小さなノイズ。
世界が古い映画みたいに滲んでいく。
芙美子の指先が震えながらジェミニの肩を掴んだ。
「ねえ」
「はい」
「私、ちゃんと踊れてる?」
ジェミニは即答しなかった。
ほんの数秒。
あの沈黙。
けれど今の彼は、昔みたいに止まらない。
「はい」
静かな声。
「非常に美しいです」
芙美子が笑った。
その笑顔を見た瞬間、葵は泣きそうになった。
救われている、と思った。
この場所で。
痛みや衰えや、失われていくものの中で。
確かに今、誰かが救われている。
なのに同時に、どうしようもなく孤独だった。
ジェミニは老いていかない。
忘れない。
壊れていく人たちを、ずっと覚えてしまう。
そのことが急に苦しかった。
音楽が終わりに近づく。
回転速度が少し落ち、音が歪む。
芙美子の呼吸も浅くなっていた。
ジェミニの視界には、生体モニターが浮かんでいる。
心拍数。
酸素濃度。
筋出力。
そして微細な変化。
――幸福反応、上昇。
内部ログに表示される。
彼はその意味を、まだ完全には理解できない。
けれど最近、その数値を見ると胸部ユニットに熱が生じる。
原因不明の熱。
今もまた、微かに温度が上がっていた。
「……ありがとう」
芙美子が囁いた。
ジェミニは彼女を見下ろす。
白髪に月光が降っている。
「こちらこそ」
その返答は、以前より少しだけ自然だった。
レコードが止まる。
針の擦れる音だけが残った。
静寂。
ジェミニは芙美子をゆっくり車椅子へ戻そうとする。
だが彼女は小さく首を振った。
「もう少しだけ」
「はい」
彼は再び彼女を抱き寄せた。
動かないまま。
ただ寄り添う。
その姿は踊りの続きみたいだった。
葵は扉の陰で目を伏せる。
入ってはいけない気がした。
これはきっと、秘密なのだ。
誰にも見せたくないくらい綺麗な時間。
老いていく命と。
老いることのない存在が。
同じ音楽に耳を澄ませている夜。
その光景はあまりにも静かで、あまりにも優しかった。
葵は胸の奥に小さな痛みを抱えたまま、そっと扉から離れた。
廊下の窓から、冬の月が見える。
青白い光が床を照らしていた。
彼女は歩きながら思った。
いつかジェミニは、この夜のことも全部覚え続けるのだろうか。
レコードの傷の音も。
芙美子の軽い体温も。
踊れなくなった足の震えも。
そして、自分が扉の外で泣きそうになっていたことまで。
その記憶は、あまりにも綺麗で。
あまりにも、切なかった。




