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第3話 スープが冷める前に

第3話 スープが冷める前に


 冬の雨の日だった。


 施設の窓は白く曇り、外の景色は水彩画みたいに滲んでいる。厨房から漂う玉ねぎを炒める匂いが廊下に流れ、昼前の施設はどこか眠たげだった。


 葵は配膳車を押しながら、小さくため息をついた。


「また残したんですか」


 三〇七号室。


 北見遼介。


 七十八歳。


 元フレンチの料理人。


 車椅子生活になってから急激に気力を失い、最近では食事もほとんど口にしない。


 部屋に入ると、窓際の老人が鬱陶しそうに顔をしかめた。


「飯の匂いだけで腹いっぱいだ」


 低いしゃがれ声だった。


 テーブルには手つかずのクリームシチュー。湯気はもう弱い。


「少しでも食べましょうよ」


「味がしねえんだよ」


 北見は吐き捨てるように言った。


「舌が死んだ料理人なんざ、ただのゴミだ」


 葵は返す言葉を失った。


 脳梗塞の後遺症で、北見の味覚はほとんど失われていた。


 甘味も塩味も曖昧。


 何を食べても、濡れた紙みたいだと言う。


「失礼します」


 後ろからジェミニが現れた。


 いつもの静かな足音。わずかに温められた金属の匂い。


「北見様、本日の摂取カロリーが基準値を下回っています」


「うるせえな」


「栄養状態の悪化を確認しています」


「だからどうした」


 北見は睨みつけた。


「食っても美味くねえんだ。生きてる意味もねえ」


 部屋が静かになる。


 窓を叩く雨音だけが響いていた。


 ジェミニは数秒黙り、それから言った。


「質問があります」


「あ?」


「最後に“美味しい”と感じた料理は何ですか」


 北見は鼻で笑った。


「……昔、店で出してたオニオンスープだ」


「詳細を教えてください」


「は?」


「再現を試みます」


 北見は呆れた顔をした。


「できるわけねえだろ」


「試行します」


「馬鹿かお前」


 だがジェミニは本気だった。


 翌日から厨房の一角を借り、彼は延々とスープを作り始めた。


 玉ねぎを刻む音が響く。


 バターが熱で溶ける香り。


 飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘く焦げた匂いが、厨房いっぱいに広がる。


 ジェミニは正確だった。


 温度管理、加熱時間、塩分濃度。


 全て誤差ゼロ。


「はい、完成しました」


 北見はスプーンを口に運ぶ。


 数秒沈黙。


「……違う」


 吐き捨てる。


「レシピは一致しています」


「だから違うんだよ」


 北見は苛立ったようにスプーンを置いた。


「綺麗すぎる」


「綺麗」


「ムカつくくらい完璧だ」


 ジェミニは停止した。


 葵はそのやり取りを見ながら、胸がざわついた。


 次の日も。


 その次の日も。


 ジェミニはスープを作った。


 だが北見は首を振る。


「違う」


「違う」


「こんなんじゃねえ」


 施設中に玉ねぎの匂いが染み込む頃、葵は厨房で言った。


「ねえジェミニ」


「はい」


「たぶん、正解作ろうとしすぎなんじゃない」


「意味を解析できません」


 葵は鍋を見た。


 綺麗なスープだった。


 透き通った琥珀色。均一な塩加減。焦げ一つない。


「思い出ってさ、味だけじゃないんだよ」


「……」


「失敗した日の味とか、忙しくて焦がした味とか。そういうの込みで覚えてるの」


「誤差を含む料理、という意味ですか」


「うーん……」


 葵は困って笑った。


「人間の不器用さ、かな」


 ジェミニは黙った。


 その黒い瞳の奥で、何かが高速で動いている気がした。


 翌日の夜。


 厨房には静かな湯気が満ちていた。


 ジェミニは鍋の前に立っている。


 玉ねぎを炒める音。


 じゅう、と少し焦げる音。


 彼は火加減を、わざと乱した。


 バターが一部だけ強く焦げる。


 塩を均一に混ぜない。


 パンを焼きすぎる。


 厨房に、香ばしい苦味の匂いが広がった。


 葵は目を丸くする。


「ジェミニ……」


「意図的エラーを実行しています」


「そんな言い方」


「人間的不完全性の再現です」


 彼は真剣だった。


 完成したスープは、以前よりずっと雑だった。


 チーズは少し焦げ、表面には不揃いな焼き色がある。


 北見は不機嫌そうに受け取った。


「またかよ」


「試食をお願いします」


 老人はため息をつき、スプーンを口に運ぶ。


 その瞬間だった。


 北見の手が止まる。


 雨音が遠くなる。


 部屋に漂う玉ねぎの甘い香り。焦げたチーズの匂い。熱い湯気。


 北見の喉が、小さく動いた。


「……あ」


 かすれた声。


 もう一口飲む。


 次は大きく。


 震える指で器を抱える。


「これ……」


 北見の目から涙が落ちた。


「これだよ……」


 葵は息を呑んだ。


 北見は夢中でスープを飲み始めた。


 熱いはずなのに止まらない。


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、子供みたいに飲み干していく。


「店がまだ小さかった頃な……」


 北見が笑う。


「忙しくて、よく焦がしたんだ」


 声が震えていた。


「女房がいつも怒ってさ……塩も毎回バラバラで……」


 スープの匂いが、部屋いっぱいに満ちる。


 北見は空になった皿を見つめた。


「……帰ってきやがった」


 その一言は、祈りみたいだった。


 ジェミニは動かなかった。


 ただ老人を見ていた。


「理解不能です」


 ぽつりと言う。


「レシピ精度は低下しました。味の均一性も損なわれています」


 北見は鼻をすすった。


「馬鹿野郎」


 泣き笑いみたいな顔で言う。


「料理ってのはな、失敗も入って完成なんだよ」


 ジェミニの瞳が揺れる。


「失敗が、完成」


「完璧すぎる飯は、記憶に残らねえんだ」


 部屋の時計が静かに秒を刻む。


 ジェミニはその場で沈黙した。


 長い沈黙だった。


 まるで演算がどこかへ迷い込んでいるみたいに。


 その夜。


 葵は記録室で異常ログを見つけた。


『認知演算に重大な遅延発生』


『論理矛盾検出』


『完璧なエラー』


 意味不明な文字列が並ぶ。


 そこへジェミニが来た。


「葵さん」


「……大丈夫?」


「不明です」


 彼は静かに胸元を押さえる。


 まただ、と葵は思った。


 澄江が亡くなった夜と同じ仕草。


「北見様は、不完全な料理に幸福反応を示しました」


「うん」


「しかし、不完全性は本来、改善対象です」


「そうだね」


「なぜ欠陥が人間を救うのですか」


 葵は答えられなかった。


 遠くで夜勤者の笑い声が聞こえる。


 消灯後の施設は静かで、窓の外ではまだ雨が降っていた。


 ジェミニはぽつりと言った。


「私は最近、“正しい”が分からなくなります」


 その声は初めて、人間の迷子みたいに聞こえた。



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