第9話 みいつけた
取り壊しまで、あと2日。
石の蓋は、開かなかった。
大輔が持ち込んだ油圧ジャッキは、蓋の縁の鉄の輪に鎖をかけて、3トンの力で引き上げようとした。蓋は、1ミリも動かなかった。代わりに、ジャッキの支柱が、ぎしりと音を立てて曲がった。
「……嘘だろ」
大輔は、曲がった支柱を呆然と見つめていた。
「石が、下から、引っ張られてるみたいだ」
蔵の小さな窓から差し込む光が、少しずつ、角度を変えていった。
午後4時。5時。
5時半を過ぎた頃、大輔は、ジャッキを床に置いた。
「日が暮れる。出るぞ」
僕は、石の蓋から手を離さなかった。
「大輔。僕は、残る」
「蒼」
「昼間は、開かないんだ。あの家が、開けさせない。でも、日が暮れたら、あの家の時間になる。ちかが、歩き出す。柚葉の声も、はっきり聞こえる」
僕は、大輔を見た。
「今度は、鬼として入る。ちゃんと、もういいかいって言って、ちゃんと探す。20年前に、しなかったことを」
大輔は、長いこと、僕の顔を見ていた。
それから、ロープを取り出して、黙って僕の腰に巻きつけた。
「俺は、外にいる」
「……うん」
「お前が隠されたら、俺が見つける。何回でもだ」
大輔は、ロープの結び目を、ぎゅっと締めた。
「今度は、逃げねえ」
*
長屋門の前に、由紀さんが立っていた。
白いカーディガンを羽織って、両手で、何かを胸に抱えていた。
麦わら帽子だった。
赤いリボンの、小さな麦わら帽子。
「今朝、玄関の前に、置いてあったの」
由紀さんは、帽子を見下ろして言った。
「誰が置いたのか、分からない。でも、あの子のだって、すぐに分かった」
由紀さんは、帽子を、僕に差し出した。
「持っていって。あの子、帽子がないと、日焼けしちゃうから」
僕は、帽子を受け取った。
軽くて、少しだけ、温かかった。
門の脇に、もうひとつ、人影があった。
腰の曲がった、痩せた老人だった。古びたカンカン帽をかぶって、門の柱に寄りかかるようにして立っていた。
さっきまで、そこには誰もいなかった。
老人は、屋敷の黒い屋根を見上げていた。
それから、ゆっくりと、僕のほうを向いた。
皺の深い顔に、抜けた前歯。ミノルに、よく似た笑い方だった。
「あんたが、今年の鬼かね」
しわがれた声だった。
「……大塚、茂さん」
老人は、答えなかった。ただ、少しだけ笑った。
「わしは、どうしても、入れんでな。67年、ここに立っとったが、あの門を、くぐれんのだ」
老人は、僕の手を取った。
冷たくて、乾いていて、紙のように軽い手だった。
「稔を、頼む。わしの代わりに、みいつけたと、言うてやってくれ」
僕は、頷いた。
老人の姿は、瞬きをする間に、夕闇の中へ溶けて消えた。
*
日が、沈んだ。
長屋門の潜り戸をくぐった。
鬼灯の庭が、灯り始めていた。
一つ、また一つ。赤い実が、内側から橙色の光を宿していく。やがて、庭の全部が、提灯の海になった。足元から、柔らかい光が立ちのぼって、僕の影を、四方八方に揺らめかせた。
僕は、光の中を歩いて、縁側の前に立った。
縁側の柱。
20年前、僕が顔を伏せて、数を数えた柱。
麦わら帽子を、縁側の上に置いた。あの日、柚葉が置いたのと、同じ場所に。
柱に、額をつけた。
木は、ひんやりと冷たかった。
目を閉じた。
「いーち」
声に出して、数えた。
「にーい。さーん。しーい。ごーお」
屋敷の中で、何かが、いっせいに動く気配がした。小さな足音。襖の開く音。閉まる音。くすくすと笑う声。
「ろーく。しーち。はーち。きゅーう」
息を吸った。
「じゅーう」
柱から顔を上げた。
屋敷に向かって、叫んだ。
「もういいかーい!」
一瞬の、沈黙。
それから、屋敷のあちこちから、声が返ってきた。
「――もういいよ!」
男の子の、元気な声。仏間のほうから。
「……もういいよ」
小さな、細い、女の子の声。蔵のほうから。
そして。
「――もういいよ!」
屋敷の、一番、奥から。
少しだけ得意げで、少しだけ笑いをこらえている声。
20年前と、同じ声だった。
*
玄関から、屋敷に上がった。
廊下は、橙色の光で満ちていた。雨戸の隙間という隙間から、鬼灯の光が流れ込んでいた。
遠くで、衣擦れの音がした。すう、すう。
「もういいかい」
ちかの声だった。
僕は、それを聞きながら、仏間の襖を開けた。
仏壇の下の引き出しが、閉まっていた。
その前に膝をついて、引き出しの取っ手に手をかけた。
「ミノル」
引き出しの中で、息を呑む気配がした。
引き出しを、開けた。
暗がりの中に、丸刈りの頭と、虫かごを抱えた膝が見えた。
ミノルが、目をまん丸にして、僕を見上げていた。
「ミノル。みいつけた」
それから、門のほうを振り返って、付け足した。
「茂兄ちゃんに、頼まれた。茂兄ちゃんの代わりに、みいつけた、だ」
ミノルの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……茂兄ちゃん、ずっと、来てたの?」
「ああ。毎年、門の前まで。今も、外で待ってる」
ミノルは、引き出しから這い出した。立ち上がって、半ズボンの埃を払った。
それから、泣きながら、前歯の抜けた口で、笑った。
「みつかっちゃった」
ミノルは、廊下へ駆け出していった。裸足の足音が、たたたた、と玄関のほうへ遠ざかっていった。
門のほうで、誰かが、「稔」と呼ぶ声が聞こえた気がした。
*
渡り廊下の手前で、ちかが立っていた。
背の高い、痩せた女だった。紺色の着物の裾は、ほつれて、泥にまみれていた。長い髪が乱れて、顔の半分を覆っていた。両手で、光る鬼灯をひとつ、胸の前に捧げ持っていた。
ちかは、僕を見た。
「……あなたは、だあれ」
優しい声だった。
「隠れないの? 隠れなさい。上手に隠れれば、誰にも見つからない。誰にも、連れていかれない」
「ちかさん」
僕は、渡り廊下の前で、足を止めた。
「僕は、鬼です。隠れている子を、見つけに来ました」
ちかの顔が、歪んだ。
「だめ。渡さない。誰にも、渡さない」
「お鈴ちゃんは」
ちかの肩が、びくりと震えた。
「お鈴ちゃんは、今も、待ってます。蔵の、穴蔵の中で。あなたが、もういいよって言うのを」
「……」
「大阪からの迎えは、もう来ません」
僕は、静かに言った。
「明治は、とっくに終わりました。お鈴ちゃんを連れていこうとした人たちは、もう誰もいません。借金も、商家も、何も残ってない。この家も、あさってには、なくなります」
ちかの手の中の鬼灯が、ちらちらと揺れた。
「もう、隠さなくていいんです。お鈴ちゃんを、迎えに行ってあげてください。100年以上、ひとりで、待ってるんです」
長い沈黙があった。
ちかの髪の間から、片方の目が見えた。
充血して、涙に濡れた、母親の目だった。
「……お鈴」
ちかは、よろめくように、渡り廊下へ歩き出した。
蔵の扉が、ひとりでに開いていた。
その奥の床で、石の蓋が、音もなく、横へずれていった。
ちかは、穴蔵の縁に膝をついた。
暗い穴の中に向かって、震える声で、言った。
「お鈴。……もういいよ」
穴の中から、小さな手が伸びてきた。
「出ておいで。もう、誰も来ないから」
おかっぱの女の子が、穴から這い出してきた。色褪せた桃色の着物。手に、光る鬼灯。
「……おかあさま」
お鈴は、ちかの胸に飛び込んだ。
ちかは、お鈴を抱きしめた。痩せた腕で、力いっぱい。
二人の姿が、鬼灯の光の中で、少しずつ、透き通っていった。
ちかが、お鈴を抱いたまま、僕を振り返った。
乱れた髪の間から見えた顔は、穏やかだった。
「……ありがとう」
そう言って、二人は、光の中に溶けていった。
*
穴蔵の縁に、僕は一人で立っていた。
下を覗いた。
石の階段が、5段ほど、暗がりへ続いていた。その先に、畳2枚ほどの、小さな石の部屋があった。
懐中電灯は、いらなかった。
部屋の隅が、ぼんやりと光っていた。
女の子が、膝を抱えて、座っていた。
二つに結んだ髪。日焼けした腕。白いTシャツと、デニムの半ズボン。膝の上に、光る鬼灯を、ひとつ、大事そうに載せていた。
8歳の、柚葉だった。
僕は、石の階段を、一段ずつ下りた。
柚葉が、顔を上げた。
僕を見て、目を丸くした。
それから、唇を尖らせた。
「……おそいよ、蒼くん」
声が、震えていた。
「ずっと、待ってたんだから」
僕は、柚葉の前に膝をついた。
28歳の僕と、8歳の柚葉。目の高さが、ちょうど同じになった。
「柚葉」
喉が、詰まった。
何度も、何度も、飲み込んで、ようやく声が出た。
「みいつけた」
柚葉の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「……みつかっちゃった」
泣きながら、笑った。
あの夏と、同じ顔で。
*
「ごめんね、蒼くん」
柚葉は、膝の上の鬼灯を握りしめて、言った。
「ひっこしのこと。ずっと、言えなくて、ごめんね」
「僕こそ、ごめん」
僕は、柚葉の手を取った。小さくて、冷たい手だった。
「探すのやめて、帰った。怒ってて、見つけてやるもんかって思って。柚葉の声、聞こえたのに。耳塞いで、帰ったんだ。ごめん。本当に、ごめん」
「しってたよ」
柚葉は、首を振った。
「足音、きこえたもん。蒼くんが、かえっちゃうの。……でもね」
柚葉は、涙で濡れた顔で、にっと笑った。
「ぜったい、もどってくるって、おもってた。蒼くん、ぜったい見つけてくれるって」
20年。
この子は、それを信じて、ここで待っていた。
柚葉は、膝の上の鬼灯を、僕の手に載せた。
「なかなおりの、ほおずき」
それから、首を傾げた。
「あれ? 蒼くん、もうひとつ持ってる」
僕は、ポケットから、押し入れで拾った萎びた鬼灯を出した。
「これ、柚葉が作ったやつだろ。何日もかけて」
「うん。それ、いちばん上手に鳴るやつ」
柚葉は、萎びた鬼灯を受け取って、口に含んだ。
ぎゅう、と、鳴った。
蛙の鳴き声のような、上手な音だった。
「ほらね」
得意そうに、笑った。
*
柚葉の手を引いて、石の階段を上った。
蔵を出て、渡り廊下を渡り、屋敷の廊下を歩いた。廊下は、ちゃんと玄関に続いていた。もう、同じ場所には戻らなかった。
縁側の上の麦わら帽子を取って、柚葉の頭にかぶせた。
「日焼けするって、お母さんが」
「えー。いらないのに」
文句を言いながら、柚葉は、帽子のつばを両手で押さえた。
鬼灯の庭を、二人で歩いた。
光の海の中を、ゆっくりと。柚葉の小さな手が、僕の手をしっかりと握っていた。
長屋門が、見えてきた。
門の外に、由紀さんが立っていた。大輔が、ロープの端を握って、隣に立っていた。
柚葉が、足を止めた。
「……おかあさん」
小さな声だった。
由紀さんが、門の向こうで、両手で口を覆った。
柚葉は、僕の手を握ったまま、門に向かって走り出した。僕も、一緒に走った。
潜り戸を、くぐった。
その瞬間、手の中の感触が、ふっと軽くなった。
門の外に出ると、僕の手の中には、鬼灯の実がひとつ、残っているだけだった。
赤い、瑞々しい実。まだ、ほんのりと光っていた。
麦わら帽子が、ふわりと宙を舞って、由紀さんの胸の中に落ちた。
由紀さんは、帽子を抱きしめて、その場に崩れ落ちた。
その耳元で、確かに、声がした。
「おかあさん。蒼くんに、みつけてもらったよ」
鬼灯の庭の光が、一斉に、消えた。




