第8話 蔵の底
取り壊しまで、あと3日。
芦原町立図書館は、町役場の2階の、半分倉庫のような一室だった。
郷土資料の棚は、部屋の一番奥にあった。背表紙の日に焼けた『芦原町史』が、上下2巻、並んでいた。
熱はまだ少し残っていた。大輔が、椅子を引いてくれた。
「久世家、久世家……あった」
大輔が、下巻の索引を指でなぞって、頁を開いた。
明治時代の、町の産業の章だった。
『久世家は、江戸後期より芦原村の庄屋を務めた豪農であり、明治に入ってからは養蚕と生糸の仲買で財を成した。最盛期には、村の田畑の3分の1を所有していたとされる。』
その先に、小さな見出しがあった。
『久世家の没落と「お鈴の神隠し」』
僕と大輔は、顔を見合わせた。
*
『明治41年、生糸相場の暴落により、久世家は莫大な負債を抱えた。当主・久世善右衛門は、田畑と家財の大半を処分したが、なお返済に窮した。』
『同年8月、善右衛門は、7歳の娘・鈴を、大阪の商家へ養女として出すことを決めた。実質的には、負債の一部を肩代わりする見返りであったと伝えられる。』
身売り、という言葉が、頭に浮かんだ。
『鈴の母・ちかは、これに強く反対したが、聞き入れられなかった。』
『養家からの迎えが来た朝、鈴の姿は屋敷のどこにもなかった。家人と村人が総出で探したが、鈴は見つからなかった。ちかは「娘は神隠しにあった」と言い張り、行方について何も語らなかった。』
『ちかはその後、心を病み、実家に戻されたが、翌年の春に亡くなった。臨終の床で、ちかは繰り返しこう呟いていたという。』
大輔が、頁を指で押さえた。
その先の一行を、僕は、声に出さずに読んだ。
『「お鈴、もういいよって言うまで、出てきちゃだめよ」』
*
しばらく、二人とも黙っていた。
図書館の窓の外で、蝉が鳴いていた。
「……隠したんだ」
僕は、言った。
「ちかは、お鈴を、屋敷のどこかに隠した。大阪に連れていかれないように。迎えが帰るまで、隠れてなさいって。もういいよって言うまで、出てきちゃだめって」
「でも、ちかは、実家に戻された」
「うん。お鈴を隠した場所を、誰にも言わないまま。言ったら、見つかって、連れていかれるから」
そして、ちかは死んだ。
もういいよ、と言う人が、いなくなった。
お鈴は、言いつけを守って、隠れ続けた。
ずっと。
「……だから、ちかは、今でも」
大輔が、呟いた。
「子供を、隠してるのか。誰にも渡さないように。あの家に入ってきた子を、片っ端から」
「うん。自分の娘を、守りたかっただけなんだ」
歪んでしまった、母親の愛情。
100年以上、あの屋敷の中を歩き回って、もういいかい、と訊き続けている。
町史の頁の端に、小さな注釈があった。
『なお、久世家の土蔵には、火災に備えて家財を納める「穴蔵」が床下に設けられていたとの伝承があるが、所在は確認されていない。』
穴蔵。
蔵の、床下。
*
昼、一度実家に戻って、母と素麺を食べた。
母は、松葉杖を椅子の脇に立てかけて、黙って箸を動かしていた。僕も、黙っていた。
「蒼」
食べ終わる頃、母が言った。
「熱にうなされてたとき、ずっと、ごめんって言ってたわよ。柚葉ちゃん、ごめんって」
僕は、箸を置いた。
「……お母さん、知ってたのか」
「知ってた、っていうのとは、少し違うわね」
母は、素麺のつゆの入った器を見つめていた。
「あの日、あんた、6時前に帰ってきたでしょう。玄関で、泣いてた。どうしたのって訊いても、何でもないって。暗くなるまで探したって、あとで言ったけど、あんたが帰ってきたのは、まだ明るいうちだった」
母は、少しだけ、苦しそうに笑った。
「お母さん、それ、誰にも言わなかったの。警察の人にも、由紀さんにも。言ったら、あんたが責められると思って」
「……」
「でも、それは、あんたを守ったんじゃなかったのかもしれない。あんたに、ひとりで抱えさせただけだったのかも」
母は、僕を見た。
「ごめんね、蒼。お母さんも、ずっと隠れてたのね」
僕は、首を振った。
何と言えばいいのか、分からなかった。ただ、首を振ることしかできなかった。
*
午後、大輔と二人で、蔵に入った。
屋敷の渡り廊下の先ではなく、庭の側の、外の扉から。大輔が、母から預かった鍵束の中から、一番大きな鉄の鍵を選んで、錠前に差し込んだ。
重い扉が、軋みながら開いた。
蔵の中は、薄暗くて、ひんやりとしていた。土壁に囲まれた、がらんとした空間。棚には何も残っていなかった。床は、厚い板張りだった。
懐中電灯で、床を照らした。
大輔が、膝をついて、床板を一枚一枚、拳で叩いていった。こん、こん、こん。
蔵の奥の、隅の一角で、音が変わった。
ごん、と、鈍く、低く響いた。
大輔が、バールを床板の隙間に差し込んだ。釘が悲鳴を上げて、板が一枚、外れた。
その下に、石があった。
平たい、大きな切り石の蓋だった。畳半分ほどの大きさ。真ん中に、錆びた鉄の輪がついていた。
大輔が、輪に手をかけて、引いた。
びくともしなかった。
僕も一緒に引いた。二人がかりで、顔が真っ赤になるまで引いた。
動かなかった。石の縁が、周りの石と、糊で貼りつけたようにぴったりと噛み合っていた。
「……だめだ。ジャッキがいる」
大輔は、息を切らせながら言った。
「明日、機材を持ってくる。昼のうちに、開ける」
石の蓋に、耳を当てた。
冷たかった。
何も、聞こえなかった。
でも、その下に、誰かがいることは分かった。
*
夕方、柚葉の家を訪ねた。
門灯が、橙色に灯っていた。
由紀さんは、居間に僕を通してくれた。麦茶を出そうとしたのを、僕は止めた。
「由紀さん。話が、あるんです」
正座して、畳に両手をついた。
「20年前の、あの日のことです」
*
全部、話した。
引っ越しのことで怒っていたこと。見つけてやるもんかと思ったこと。奥座敷の前で探すのをやめて、黙って帰ったこと。帰り道、柚葉の声が聞こえたのに、耳を塞いで走ったこと。
それから、20年間、嘘をついてきたこと。
ずっと探した、と。
話している間、由紀さんは、一度も口を挟まなかった。
話し終えて、僕は、畳に額をつけた。
「すみませんでした」
それしか、言えなかった。
長い沈黙があった。
壁の、麦わら帽子の柚葉の写真が、僕を見下ろしていた。
「……20年」
由紀さんが、ぽつりと言った。
「20年、あなたに、感謝してきたのよ。あの子のために、暗くなるまで探してくれた子だって。蒼くんだけは、最後まで、あの子を探してくれたんだって」
声が、震えていた。
「それが、嘘だったなんて」
僕は、額を畳につけたまま、動けなかった。
由紀さんの呼吸が、荒くなっていくのが聞こえた。何かを叩きつけるのではないか、と思った。叩きつけられても、仕方がないと思った。
でも、由紀さんは、何も叩きつけなかった。
代わりに、長く、深く、息を吐いた。
「……8歳だったのね」
顔を上げると、由紀さんは、壁の写真を見ていた。
「あなたも、8歳だったのね。あの子と同じ」
由紀さんの目から、涙がこぼれていた。
「8歳の子に、引っ越しのことを、あんなふうに言わせた私たちも悪かった。夫の転勤が決まって、私、あの子に、自分で蒼くんに言いなさいって言ったの。大人が言ったら、蒼くんが傷つくからって。……8歳の子に」
由紀さんは、目元を拭った。
「あの子ね、あの日、家を出るとき、言ってたの。蒼くんに見つけてもらったら、仲直りの鬼灯、あげるんだって。トミおばあちゃんに教わって、何日もかけて、上手に鳴る鬼灯を作ってたのよ」
僕は、ポケットに手を入れた。
押し入れの床で拾った、萎びた鬼灯の実。
それを、由紀さんの前に、そっと置いた。
「……押し入れの中に、落ちてました」
由紀さんは、それを見た瞬間、両手で口を覆った。
それから、震える指で、鬼灯を拾い上げた。
胸に押し当てて、声を上げて泣いた。
*
「蒼くん」
しばらくして、由紀さんは、顔を上げた。
泣き腫らした目で、まっすぐに、僕を見た。
「許すとか、許さないとか、今は、分からない」
「……はい」
「でも、ひとつだけ、お願い」
由紀さんは、鬼灯を、僕の掌に戻した。
「探して。今度こそ」
その手が、僕の手を、ぎゅっと握った。
「あの子の鬼は、あなたなんだから」
*
夜、実家に戻る途中、柚葉の家を振り返った。
門灯が、橙色に灯っていた。
ちかちかと、一度だけ、瞬いた。
それから、また、静かに灯り続けた。
明日の日暮れまでに、蔵の石の蓋を開ける。
開かなければ。
僕は、掌の鬼灯を見つめた。
開かなければ、日暮れのあとに、もう一度、屋敷に入るしかない。
今度は、鬼として。




