第7話 封じていた記憶
取り壊しまで、あと4日。
熱の中で、夢を見ていた。
夢の中の僕は、8歳だった。
*
縁側の柱に顔を伏せて、目を閉じていた。
木の柱は、夕方の日差しを吸って、ほんのりと温かかった。蝉の声が、頭の上からうるさいくらいに降ってきた。
いーち、にーい、さーん。
庭を走っていく、柚葉の足音。鬼灯の茎を踏み分ける音。
しーい、ごーお、ろーく。
僕は、数えながら、ずっと考えていた。
引っ越しのこと。北海道。8月30日。あと、6日。
なんで、今まで黙ってたんだよ。
しーち、はーち。
昨日の夕方、土手で聞いたときから、胸の中に、黒くて重たいものが溜まっていた。怒っているのか、悲しいのか、8歳の僕には、区別がつかなかった。ただ、柚葉の顔を見るたびに、その黒いものが、喉元までせり上がってきた。
きゅーう、じゅーう。
「もういいかい」
「――もういいよ」
屋敷の奥から、柚葉の声が返ってきた。
少しだけ得意げで、少しだけ笑いをこらえている声。いつもの、柚葉の声だった。
僕は、柱から顔を上げた。
*
最初は、ちゃんと探した。
庭の植え込みの陰。縁側の下。井戸の裏。物置の中。柚葉がいつも隠れる場所を、順番に見て回った。
いなかった。
屋敷の中に入った。茶の間。客間。仏間。襖を開けるたびに、柚葉の姿を探した。
いなかった。
柚葉は、かくれんぼが上手かった。僕が鬼のとき、見つけられたことは、ほとんどなかった。いつも最後は、僕が「降参」と言って、柚葉が得意そうに出てくる。それが、決まりだった。
奥座敷の前まで来た。
襖に手をかけた。
そこで、手が止まった。
――どうせ、いなくなるんだろ。
胸の中の黒いものが、そう言った。
どうせ、あと6日で、北海道に行っちゃうんだろ。もう会えなくなるんだろ。だったら、見つけたって、意味ないじゃないか。
見つけてやるもんか。
僕は、襖から手を離した。
*
廊下を、玄関に向かって歩いた。
降参とは、言わなかった。
柚葉に、出てこいとも言わなかった。
ただ、黙って、靴を履いて、玄関を出た。
庭を横切った。鬼灯の赤い実が、夕日を受けて光っていた。縁側に、柚葉の麦わら帽子が置いてあった。
長屋門の潜り戸をくぐった。
坂道に出たところで、一度だけ、振り返った。
屋敷の庭が、光り始めていた。
鬼灯の実が、一つ、また一つ、橙色に灯っていく。夕焼けの色ではなかった。提灯のような、内側からの光。
そのとき、屋敷の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……あおいくん?」
不安そうな声だった。
鬼が、いつまで経っても来ないことに、気づいた声。
「あおいくん、どこ?」
僕は、前を向いた。
坂道を、走って下りた。
背中で、声がした。
「あおいくーん! まだー?」
耳を塞いで、走った。
*
夜の7時過ぎに、家の電話が鳴った。
母が出た。受話器を持ったまま、母の顔色が変わっていった。
「蒼。柚葉ちゃん、まだ帰ってないって。一緒に遊んでたんでしょう?」
僕は、テレビの前で、身体を固くしていた。
「どこで遊んでたの。柚葉ちゃん、どこに行ったの」
「……鬼灯屋敷で、かくれんぼ」
「それで、柚葉ちゃんは」
母の目が、僕を見ていた。
本当のことを、言わなければいけなかった。
途中で帰った、と。探すのをやめて、柚葉を置いて帰ってきた、と。
「……ずっと、探した」
口から出たのは、それだった。
「暗くなるまで、ずっと探したけど、見つからなかった。だから、先に帰ってきた」
母は、受話器に向かって、僕の言葉を伝えた。
電話の向こうで、由紀さんが、泣き崩れる声が聞こえた。
その夜、町中の大人たちが、懐中電灯を持って鬼灯屋敷に集まった。警察も来た。何日も、何日も、屋敷の中を、庭を、裏山を、町中を探した。
柚葉は、見つからなかった。
僕は、何度も同じことを言った。警察の人にも、学校の先生にも、由紀さんにも。
ずっと探した。暗くなるまで、ずっと。
言い続けるうちに、それが本当のことのように思えてきた。本当の記憶のほうは、心の奥の、一番深いところに押し込めて、鍵をかけた。
20年間、一度も、開けなかった。
*
目を覚ますと、子供の頃の自分の部屋の天井が見えた。
額に、濡れたタオルが載っていた。窓の外は、明るかった。蝉が鳴いていた。
枕元に、大輔が座っていた。
「……起きたか」
「大輔」
「丸一日、寝てたぞ。うなされてた。ずっと、柚葉って」
僕は、身体を起こそうとして、めまいがして、また枕に頭を落とした。
天井を見つめた。
木目の模様が、あの日の屋敷の廊下に見えた。
「大輔」
「なんだ」
「僕、探してないんだ」
声が、ひどくかすれていた。
「あの日。柚葉のこと、ちゃんと探してない。途中で、帰ったんだ。引っ越しのことで怒ってて、見つけてやるもんかって思って。降参も言わないで、黙って、帰った」
大輔は、何も言わなかった。
「帰るとき、柚葉の声が聞こえた。あおいくん、まだって。僕、耳塞いで、走って帰った。それで、みんなに嘘ついた。ずっと探したって。20年間、ずっと」
涙が、目尻から耳のほうへ流れていった。
「僕のせいだ。僕が、ちゃんと探してたら。降参って言ってたら。柚葉は、出てきてたんだ。日が暮れる前に。僕が、置いてきたんだ」
*
大輔は、長いこと黙っていた。
窓の外で、蝉の声が、ふっと途切れた。
「……知ってた」
大輔が、言った。
僕は、大輔を見た。
大輔は、膝の上で拳を握りしめて、畳を睨んでいた。
「あの日、俺、先に帰っただろ。5時に。でも、途中で、虫かご忘れたのに気づいて、取りに戻ったんだ。坂の途中まで」
大輔の拳が、白くなっていた。
「そしたら、お前が、坂を下りてきた。一人で。泣きながら、走って。俺、とっさに竹藪に隠れた。なんか、声かけちゃいけねえ気がして」
「……」
「お前が行っちまってから、俺、屋敷のほうを見た。鬼灯が、光ってた。提灯みたいに。気味悪くて、怖くて、虫かごのことなんかどうでもよくなって、俺も走って帰った」
大輔の声が、震えた。
「夜になって、柚葉がいねえって大騒ぎになって。お前が、ずっと探したって言ってるって聞いて。俺は、何も言わなかった」
「どうして」
「言えるかよ」
大輔が、初めて顔を上げた。目が、真っ赤だった。
「お前を嘘つきにしたくなかった。それに……俺も、同じだったんだ。あのとき、屋敷に戻って、柚葉を呼んでたら。鬼灯が光ってるの見て、逃げなかったら。俺が、見つけてたかもしれねえ」
大輔は、拳で、自分の膝を叩いた。
「20年だ。20年、お前の嘘と、俺の黙ってたのと、一緒に抱えてきた。だから、町の業者があの家の解体を断ったとき、俺がやるって言った。何も知らねえやつに、壊させたくなかった。柚葉がいるかもしれねえ家を」
*
僕たちは、しばらく何も言わなかった。
部屋の中に、蝉の声だけが響いていた。
「……4日しかない」
僕は、天井を見たまま、言った。
「9月1日に、重機が入る。その前に、柚葉を見つけなきゃ」
「どうやって」
「蔵だ。柚葉は、蔵の下にいる。床下を這っていったら、石の壁で塞がってた。その向こうから、声がした」
大輔は、少し考えてから、言った。
「蔵の床下なんて、聞いたことねえ。あの蔵は、トミ婆さんが死ぬまで、ずっと鍵がかかってた。20年前も、警察が一応中を見たけど、何もなかったって話だ」
「床の、さらに下だ。たぶん、隠し部屋みたいなものがある」
「……町の図書館に、郷土誌がある。久世家は、明治の頃は、このへんで一番の家だった。何か書いてあるかもしれねえ」
大輔は、立ち上がった。
「明日、行くぞ。お前が歩けるならな」
「歩ける」
「それと」
大輔は、襖に手をかけて、振り返らずに言った。
「柚葉の母ちゃんには、お前から、ちゃんと言え。本当のこと」
僕は、目を閉じた。
門灯の、橙色の明かりが、瞼の裏に浮かんだ。
20年間、一日も消えなかった明かり。
あの日、蒼くんは、暗くなるまで、ずっと探してくれたのよね。
ありがとう。
「……うん」
僕は、答えた。
「言う。ちゃんと、言う」




