第6話 鬼灯が灯る
取り壊しまで、あと5日。
「悪い。隣の市の現場で、足場が崩れた。けが人はいねえけど、行かなきゃならねえ」
朝の9時、長屋門の前で、大輔は携帯を握りしめたまま、苛立たしげに頭を掻いた。
「3時までには戻る。それまで、中には入るな。いいな」
「分かった」
「本当に分かってんのか」
「分かってるよ」
大輔は、しばらく僕の顔を睨んでいた。それから、軽トラの荷台からロープを下ろして、門の柱に端を固く括りつけた。
「念のためだ。入るなら、これを巻け。でも、入るな」
軽トラが、土埃を上げて坂を下っていった。
僕は、長屋門の前に一人で立っていた。
ポケットの中で、萎びた鬼灯の実を、指先で転がしていた。
あおいくん まだかな。
僕は、ロープを腰に巻いた。
*
奥座敷の押し入れの床板を外して、床下に下りた。
土の匂いがした。湿った、冷たい土。懐中電灯を口にくわえて、四つん這いになって進んだ。頭の上すれすれに、床板の裏側と、太い根太が並んでいた。蜘蛛の巣が、何度も顔に絡みついた。
腰のロープが、後ろへ長く伸びていった。
床下は、思ったよりも長く続いていた。奥座敷の下を抜け、渡り廊下の下に入った。渡り廊下の床板の隙間から、細い光が漏れていた。
10メートル。20メートル。
その先で、道が塞がれていた。
石だった。
大きな切り石が積み上げられて、壁になっていた。蔵の基礎だ。懐中電灯で照らしても、隙間ひとつ見当たらなかった。
行き止まりだった。
石の壁に手をついた。冷たかった。石の表面が、うっすらと湿っていた。
石の向こうから、かすかに、何かが聞こえた。
――もういいよ。
柚葉の声だった。
この石の、向こうだ。
「柚葉!」
石を叩いた。拳が痛んだ。石は、びくともしなかった。
声は、それきり聞こえなかった。
*
床下を引き返して、押し入れから這い出した。
奥座敷が、橙色に染まっていた。
雨戸の隙間から漏れる光が、すべて、夕焼けの色をしていた。
僕は、胸ポケットのスマホを見た。
画面は、真っ暗だった。電源ボタンを押しても、何も映らなかった。
腰のロープを見た。
押し入れの床下へ続いていたはずのロープが、途中で、ぷつりと途切れていた。切り口は、刃物で切ったようにきれいだった。
外で、何かが灯る気配がした。
雨戸の隙間から、庭が見えた。
鬼灯が、灯っていた。
一つ、また一つ。庭を埋め尽くす赤い実が、内側から、橙色の光を放ち始めていた。提灯の海が、ゆっくりと広がっていく。
日が、暮れたのだ。
*
奥座敷を飛び出して、廊下を走った。
玄関へ。まっすぐ行けば、30秒もかからない。
廊下の角を曲がった。
奥座敷の前に、出た。
僕は、立ち止まった。
今、奥座敷から出てきたはずだった。廊下を走って、角を曲がった。それなのに、目の前には、奥座敷の襖があった。
振り返って、逆方向に走った。
角を曲がった。
奥座敷の前だった。
――廊下を歩いても歩いても、同じところに戻ってくる。
ミノルの言葉を思い出した。
隠される側になったのだ。
*
「……もういいかい」
声がした。
屋敷の、どこか。遠くのような、すぐ近くのような。
ゆっくりとした、優しい、凍りついた声。
すう、すう、と、衣擦れの音が近づいてきた。着物の裾が、廊下の床板を撫でる音。
僕は、手近な襖を開けて、中に飛び込んだ。
仏間だった。
黒い仏壇。鴨居の上の遺影。雨戸の隙間から漏れる、鬼灯の橙色の光。
「兄ちゃん!」
仏壇の下の引き出しが、細く開いていた。その隙間から、ミノルの顔が覗いていた。
「こっち! 早く!」
僕は、仏壇の前に這い寄った。
引き出しの中に、大人の身体が入るはずがなかった。
けれど、ミノルに腕を引かれて、身をかがめると、仏壇の下の暗がりは、思っていたよりもずっと深く、広かった。僕は、その暗がりの中に、身体を押し込んだ。
ミノルが、引き出しを内側から閉めた。
真っ暗になった。
ミノルの、冷たくて湿った手が、僕の口を塞いだ。
「しっ」
すう、すう。
衣擦れの音が、廊下を近づいてきた。
仏間の前で、止まった。
襖が、開く音がした。
*
引き出しの隙間から、橙色の光が細く差し込んでいた。
その光の中に、足が見えた。
白い足袋だった。紺色の着物の裾。裾は、ほつれて、泥のようなもので汚れていた。
足が、仏間の畳の上を、ゆっくりと歩いた。
仏壇の前で、止まった。
「……もういいかい」
すぐ真上から、声が降ってきた。
僕は、息を止めた。ミノルの手が、僕の口を強く押さえた。
女の人の手が、仏壇の扉に触れる音がした。扉が、きい、と開いた。中の位牌が、かたりと鳴った。
「どこに隠れたの」
優しい声だった。子供をあやすような。
「いい子ね。上手に隠れたのね。出てこなくていいのよ。ずっと、そこにいなさい」
声が、少しだけ震えた。
「誰にも、渡さないから。お母さんが、誰にも渡さないから」
手が、仏壇の下の引き出しに、触れた。
引き出しの取っ手に、細い指がかかった。
隙間から、指が見えた。白くて、痩せていて、爪の先が割れていた。
ミノルが、僕の口を押さえたまま、ぎゅっと目をつぶった。
引き出しが、1センチ、開いた。
*
「――蒼!」
屋敷の外から、声がした。
大輔の声だった。
「蒼! どこだ! 返事しろ!」
引き出しにかかった指が、止まった。
どん、と、玄関の引き戸が開く音がした。
どすどすと、重たい足音が、廊下に上がってきた。作業靴のまま、土足で。懐中電灯の白い光が、廊下の橙色を切り裂いた。
「蒼! くそ、どこだ!」
大輔が、この屋敷の中に入ってきた。
20年間、一度も入ろうとしなかった大輔が。
引き出しの取っ手から、指が離れた。
すう、と、衣擦れの音が遠ざかっていった。
仏間の襖の向こうを、白い光が行き来した。茶の間の襖が開く音。客間の襖が開く音。
「蒼!」
大輔の声が、廊下を走り回っていた。
僕は、引き出しを開けて、外へ出ようとした。
ミノルが、僕の腕を掴んだ。
「だめ。兄ちゃんは、今、隠れてる人だから。自分で出ても、出られない。見つけてもらわなきゃ」
「見つけて、もらう」
「うん。あの人に、みいつけたって言ってもらわなきゃ」
僕は、引き出しの隙間に顔を寄せて、叫んだ。
「大輔! 仏間だ!」
足音が止まった。
それから、仏間の襖が、乱暴に開けられた。
懐中電灯の光が、仏壇を照らした。仏壇の下の引き出しを照らした。
大輔の顔が、光の向こうに見えた。汗まみれで、真っ青で、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
大輔は、引き出しの隙間から覗く僕の目を、見つけた。
「……蒼」
ミノルが、僕の耳元で、小さく言った。
「言ってもらって」
「大輔。言ってくれ」
「何を」
「みいつけた、って」
大輔は、わけが分からないという顔をした。
でも、すぐに、何かを悟ったように唇を噛んだ。
そして、震える声で、言った。
「……蒼、みいつけた」
*
引き出しを開けると、仏間は、ただの仏間だった。
雨戸の隙間から、夕暮れの、本物の赤い光が差し込んでいた。
大輔が、僕の腕を掴んで、引きずるように廊下を走った。今度は、ちゃんと玄関に着いた。
庭に転がり出ると、鬼灯は、もう灯っていなかった。ただ、夕日を受けて、赤く光っているだけだった。
僕は、鬼灯の中に膝をついて、激しく咳き込んだ。
「3時に戻ったら、門の柱のロープが、切れてた」
大輔は、僕の隣に座り込んで、肩で息をしていた。
「中に入ろうとしたら、玄関が開かなかった。何時間も、叩いて、叫んで。日が暮れかけて、急に、ぱっと開いた」
大輔は、両手で顔を覆った。
「……入るなって、言っただろうが」
「ごめん」
「20年前みたいになったら、どうすんだよ」
大輔の肩が、震えていた。
僕は、屋敷を振り返った。
仏間の雨戸の隙間から、小さな手が、ひらひらと振られていた気がした。
兄ちゃんの友達、いい鬼だね。
そう、聞こえた気がした。
その夜、僕は、高い熱を出した。




