第5話 押し入れの奥
取り壊しまで、あと6日。
「婆ちゃんに、訊いてきた」
朝、長屋門の前で、大輔が言った。
大輔の祖母は、今年で86になる。町の外れの、大輔の実家の離れに住んでいる。子供の頃、何度か遊びに行って、黒糖の飴をもらったことがあった。
「大塚稔。昭和33年の8月。9つだった。婆ちゃんの、小学校の同級生の弟だ」
大輔は、手帳を開いた。祖母の話を、書き留めてきたらしかった。
「夕方、兄貴と二人で、鬼灯屋敷でかくれんぼしてた。兄貴のほうは、途中で飽きて帰った。稔は、帰ってこなかった。町中で探したけど、見つからなかった」
「兄貴は」
「大塚茂。……去年、死んだそうだ。80手前で」
大輔は、手帳を閉じた。
「一生、独り身だったって。親の家に一人で住んで、町の外にはほとんど出なかった。毎年、夏の終わりになると、この門の前に来て、じっと立ってたんだと。婆ちゃんも、何度か見かけたって」
この門の前に。
67年間。
「婆ちゃんが、1回だけ声をかけたことがあるんだと。茂さん、何してるのって。そしたら、茂さん、こう言ったそうだ」
大輔は、屋敷の黒い屋根を見上げた。
「――もういいかいって、言いに来てるんだ。でも、どうしても、中に入れないんだ、って」
僕は、何も言えなかった。
ミノルの、抜けた前歯の笑顔を思い出していた。
おれのことも、いつか、みつけてね。
*
今日は、奥座敷に行く、と決めていた。
柚葉は、一番奥にいる、とミノルは言った。そして大人たちは、20年前、柚葉は奥座敷の押し入れのあたりに隠れていたはずだと言った。
腰にロープを巻いた。大輔が、柱に端を括った。
「2時だ。今日は、2時で引きずり出す」
「分かった」
屋敷に入った。
廊下を、まっすぐ奥へ進んだ。茶の間も、客間も、仏間も、覗かなかった。仏間の前を通るとき、襖の向こうで、くすっと笑う声がした気がした。ミノルだろうか。
茶の間の前を通り過ぎようとして、足が止まった。
襖が、少しだけ開いていた。昨日も一昨日も、僕はこの襖をきちんと閉めていった。
隙間から覗くと、ちゃぶ台の上に、一冊のノートが載っていた。
埃をかぶった湯呑みの横に。昨日までは、なかったものだった。
茶の間に入って、ノートを手に取った。表紙に、細い筆ペンの字で「日々のこと」と書いてあった。
トミさんの、日記だった。
ぱらぱらとめくると、日々の天気や、庭の手入れや、買い物のことが、短く書きつけてあった。ところどころに、子供たちの名前があった。
『柚葉ちゃん、鬼灯を上手に鳴らす。蒼くんは、まだ鳴らせず。』
『大輔くん、縁側から落ちてたんこぶ。』
読んでいるうちに、胸が詰まった。
あるページに、線を引いて囲まれた一文があった。
『子供らは、庭で遊ばせること。家の中へは入れぬこと。日の暮れる前に、必ず帰すこと。この家は、子を隠す家だから。』
トミさんは、知っていたのだ。
だからいつも、縁側に座って、庭の子供たちを見守っていた。
ページをめくった。平成18年、8月24日。
字が、ひどく乱れていた。
『町の病院へ、薬をもらいに行く。帰りが遅くなる。子供らに、日暮れ前には帰るよう言うて出た。』
『夜、戻ると、大騒ぎ。柚葉ちゃんが、いない。』
『わたしのせいだ。わたしが、家を空けたから。家の中へ入れてしまった。』
その下に、震える字で、一行だけ。
『鬼灯が、灯っていた。』
その先の数ページは、何も書かれていなかった。
僕は、日記を閉じて、ちゃぶ台の上に戻した。
20年間、自分一人が抱えていると思っていたものを、この家の主も、一緒に抱えて死んでいったのだ。
僕は、茶の間を出て、奥座敷へ向かった。
突き当たりの、奥座敷の襖を開けた。
12畳の、がらんとした座敷。
押し入れの襖が、閉まっていた。
僕は、その前に立って、深呼吸をした。
襖を、開けた。
*
押し入れの中は、空っぽだった。
上下2段。布団も、行李も、何も入っていない。ただ、黴と、古い木の匂いがした。
懐中電灯で、中を照らした。
下の段の、奥の壁に、何かが書いてあった。
身をかがめて、押し入れの中に半身を入れた。懐中電灯を、壁に近づけた。
クレヨンの字だった。
赤いクレヨンの、子供の字。大きさも、形も、ばらばらな平仮名。
『あおいくん まだかな』
その下に、また。
『あおいくん まだかな』
その下にも。
壁一面に、同じ言葉が、びっしりと書き連ねられていた。
何十行も。何百行も。押し入れの奥の壁を、上から下まで、端から端まで、隙間なく埋め尽くして。
懐中電灯を持つ手が、震えた。
最初のほうの字は、はっきりしていた。力強くて、少し雑で、8歳の女の子の字だった。行の頭に、日付が書いてあるものもあった。『8がつ25にち』『8がつ26にち』『8がつ30にち ひっこしのひ』。
壁の下のほうへいくにつれて、字が、細く、かすれていった。
クレヨンが短くなったのか、力が入らなくなったのか。
ところどころに、違う言葉が混じっていた。
『もういいよ』
『さむい』
『おなか すかない。へんなの』
『おかあさんに あいたい』
『ちかさまが きた。こわい。かくれた』
『ミノルくんと おはなしした』
それから、壁の右下の、一番隅に。
他よりもずっと小さな字で、何度もなぞったように、太く書かれた一行があった。
『あおいくん おこってる?』
その横に。
『ひっこしのこと ごめんね』
*
僕は、押し入れの床に膝をついていた。
いつから膝をついていたのか、分からなかった。
あおいくん、おこってる?
怒っていた。
8歳の僕は、怒っていた。引っ越しのことを黙っていた柚葉に。1週間後にいなくなってしまう柚葉に。
だから。
だから、僕は。
頭の奥で、何かが軋んだ。錆びついた扉が、無理やりこじ開けられようとしているような音。
――もういいかい。
――もういいよ。
柱から顔を上げた、8歳の僕。
鬼灯の庭。縁側の麦わら帽子。
そして――。
ずきん、と、こめかみに鋭い痛みが走った。
僕は、頭を抱えて、押し入れの床にうずくまった。
それ以上、思い出せなかった。思い出すことを、身体が拒んでいた。
*
どのくらい、そうしていたのか。
顔を上げると、懐中電灯の光が、押し入れの床の隅を照らしていた。
床板の上に、小さなものが落ちていた。
鬼灯の実だった。
赤い、萎びた実。皮がくしゃくしゃに柔らかくなっていて、へたのところに、小さな穴が開いていた。
中の種が、掻き出してあった。
鳴らすための、鬼灯だった。
僕は、それを拾い上げた。
掌の上で、実は、ほんのりと温かかった。たった今まで、誰かが口に含んでいたみたいに。
――ほら。鳴ったでしょ。
トミおばあちゃんに教わったの。コツがあるんだよ。
僕は、震える指で、鬼灯の皮を口に含んだ。
20年ぶりだった。
舌で、そっと押した。
ぷす、と、情けない音がした。皮の端から、空気が漏れただけだった。
あの夏と、同じだった。何度やっても、僕には鳴らせなかった。
そのとき。
「――へたくそ」
声がした。
押し入れの、さらに奥から。
壁の向こうから。床の下から。どこからともなく。
くすくすと、笑いをこらえる声。
「蒼くん、ぜんぜん、へたくそ」
柚葉の声だった。
僕は、押し入れの奥の壁に、両手をついた。クレヨンの文字が、掌の下にあった。
「柚葉!」
叫んだ。
「柚葉、どこだ! どこにいるんだ!」
返事は、なかった。
ただ、どこか遠くで、ぎゅう、と、蛙の鳴き声のような音がした。
鬼灯を鳴らす音だった。
上手な、柚葉の音。
*
音のしたほうを、耳で追った。
押し入れの下の段の、床板。その一枚が、他よりもわずかに浮いていた。
指をかけて、持ち上げた。
床板は、簡単に外れた。
下は、暗い空洞だった。床下の、土の匂い。懐中電灯を向けると、低い床下の空間が、屋敷の奥のほうへ、ずっと続いていた。
子供なら、這って進めるくらいの高さだった。
方角を考えた。奥座敷の、さらに奥。
渡り廊下の下を通って、その先は。
蔵だった。
腰のロープが、ぐいっと引かれた。
大輔だ。約束の、2時。
「……まだだ」
僕は、呟いた。
床下の闇を、見つめていた。
ロープが、もう一度、強く引かれた。僕の身体が、押し入れの外へずるりと引きずり出された。
押し入れの壁の、赤いクレヨンの文字が、懐中電灯の光の中で遠ざかっていく。
あおいくん まだかな。
あおいくん まだかな。
あおいくん まだかな。
僕は、手の中の鬼灯を、握りしめた。




