第4話 隠れている子どもたち
取り壊しまで、あと7日。
スマホのアラームを、15分おきに設定した。
10時。10時15分。10時30分。昼の12時まで、ずらりと並んだアラームの一覧を確かめてから、僕はスマホを胸ポケットに入れた。
屋敷の中で、時間がずれるなら。せめて、ずれたことに気づけるように。
長屋門の前で、大輔が腕を組んで立っていた。
「本気か」
「本気だよ」
「昨日の夜のことは、おばさんから聞いた。……柚葉の声、だったんだな」
「うん」
大輔は、しばらく黙っていた。それから、軽トラの荷台から、太いロープの束を下ろした。
「腰に巻いとけ。端は、俺が門の柱に括っとく。なんかあったら、引っ張る」
「……大輔」
「それと、3時までには必ず出てこい。3時になったら、お前が何してようが、引きずり出す」
大輔は、ロープの端を僕の腰に巻きつけながら、目を合わせずに言った。
「日が暮れる前に、だ。絶対だぞ」
*
屋敷の中は、今日も冷たかった。
腰のロープを引きずりながら、廊下を進んだ。ロープが床板を擦る音が、しゅる、しゅる、と後ろからついてきた。
茶の間を覗いた。誰もいない。
客間を覗いた。昨日片付けた段ボールが、そのまま積んである。縁側の麦わら帽子は、なくなっていた。
胸ポケットで、スマホが震えた。10時15分のアラーム。
よし、と思った。ちゃんと鳴っている。
仏間の襖を開けた。
黒い仏壇の前に、男の子が座っていた。
*
9歳か、10歳くらいだった。
丸刈りの頭に、白いランニングシャツと、紺色の半ズボン。膝小僧に、擦りむいた痕があった。首から、竹で編んだ虫かごを提げていた。
男の子は、仏壇の前に胡座をかいて、こちらを見上げていた。
僕は、襖に手をかけたまま、動けなかった。
「兄ちゃん、鬼?」
男の子が、言った。
普通の、子供の声だった。少しかすれていて、でも、よく通る声。
「……え」
「鬼じゃないの? じゃあ、隠れる人?」
「僕は……」
何と答えればいいのか、分からなかった。
男の子は、首を傾げた。それから、ぱっと顔を明るくした。
「あ、分かった。兄ちゃん、ゆずはちゃんの鬼だ」
その名前を聞いた瞬間、全身の血が、音を立てて逆流した気がした。
「柚葉を、知ってるのか」
「知ってるよ。ここに、ずっといるもん」
男の子は、胡座のまま、虫かごを膝の上に抱えた。かごの中は、空っぽだった。
「おれ、ミノル。大塚稔。兄ちゃんは?」
「……真柴。真柴蒼」
「あおい。やっぱり」
ミノルは、嬉しそうに笑った。前歯が一本、抜けていた。
「ゆずはちゃんが、いつも言ってる名前だ。あおいくん、まだかなって」
*
ミノルは、この屋敷のことを、何でも知っていた。
「ここではね、もういいよって言った子は、隠れなきゃいけないの」
仏壇の前で、ミノルは、膝を抱えながら説明した。僕は、その向かいに、そっと腰を下ろしていた。
「隠れたら、鬼に見つけてもらうまで、出られない。家の外に出ようとしても、どこにも出口がないの。廊下を歩いても歩いても、同じところに戻ってくる」
「見つけてもらえなかったら」
「ずっと、ここ」
ミノルは、あっさりと言った。
「おれの鬼はね、兄ちゃんだったの。本物の兄ちゃん。茂兄ちゃん。昭和33年の、夏休み。夕方、ここでかくれんぼして、おれ、この仏壇の下に隠れたの」
ミノルは、仏壇の下の、黒い引き出しを指さした。
「でも、茂兄ちゃん、途中で帰っちゃった。お腹すいたって。おれ、ずっと待ってたんだけど」
ミノルは、少しだけ、唇を尖らせた。
「そしたら、日が暮れて、鬼灯が灯って、ちかさまが来たの」
「ちかさま」
「この家の、鬼」
ミノルの声が、少しだけ小さくなった。
「日が暮れると、ちかさまが、家の中を歩き回るの。もういいかいって言いながら。ちかさまに見つかったら、もっと深いところに隠される。もう、誰にも見つけてもらえないところに」
昨日、屋敷の奥から聞こえた、女の人の声。
――もういいかい。
ひどく優しくて、底のほうが凍りついた声。
「ちかさまは、子供が好きなの。子供を、誰にも取られないように、隠しておきたいの。だから、この家に入った子を、みんな隠しちゃう」
ミノルは、膝の上の虫かごを、ぎゅっと抱えた。
「おれは、ちかさまに見つからないように、ずっと、仏壇の下にいた。そのうち、出られなくなっちゃった」
*
胸ポケットで、スマホが震えた。
取り出して、画面を見た。
10時30分のアラームだった。
ほっとした。まだ、時間はずれていない。
でも、画面の上の時計は、12時47分を指していた。
僕は、画面を凝視した。
10時15分のアラームの次に鳴ったのが、10時30分のアラーム。その間に、ミノルと話していたのは、せいぜい10分か15分。それなのに、時計は2時間以上進んでいた。
10時45分から12時45分までの、9回分のアラームは、一度も鳴らなかった。
「兄ちゃん、時計なんか見ても、だめだよ」
ミノルが、覗き込んで言った。
「ここの時間は、ちかさまの時間だから」
*
「柚葉は、どこにいるんだ」
僕は、ミノルの肩を掴みそうになって、手を止めた。
この子に触れていいのか、分からなかった。
「一番、奥」
ミノルは、廊下のほうを見た。
「ゆずはちゃんは、隠れるのがすごく上手なの。ちかさまにも、見つからない。おれも、どこにいるか知らない。声だけ、たまに聞こえる」
「声」
「もういいよ、って。毎日。あおいくん、まだかなって。それから、ときどき、泣いてる」
ミノルは、僕を見上げた。
「兄ちゃん。ゆずはちゃんは、兄ちゃんにしか見つけられないよ」
「どうして」
「ゆずはちゃんの鬼は、兄ちゃんだから。ここでは、自分の鬼にしか、見つけてもらえないの。おれが、どんなに探しても、ゆずはちゃんは出てこない」
だから、ミノルも、ここにいるのだ。
ミノルの鬼だった茂兄ちゃんは、もう、この屋敷には来ないから。
*
廊下の突き当たりに、誰かが立っていた。
ミノルと話しているうちに、ふと、視界の端に入った。
女の子だった。
ミノルよりも、もっと小さい。7つか、8つ。おかっぱの黒髪に、色褪せた桃色の着物。帯の結び目が、背中で小さく揺れていた。
両手で、鬼灯の実をひとつ、胸の前に捧げ持っていた。
女の子は、何も言わずに、こちらを見ていた。
顔は、廊下の暗がりに沈んで、よく見えなかった。ただ、手の中の鬼灯だけが、ぼんやりと、橙色に光っていた。
「あれは、お鈴ちゃん」
ミノルが、小声で言った。
「一番最初の子。ずうっと昔から、ここにいる。誰とも遊ばないの。いつも、蔵のほうを見てる」
お鈴は、くるりと背を向けた。
着物の裾を引きずって、廊下の角を曲がり、見えなくなった。
角の向こうは、渡り廊下だった。
蔵へ続く、渡り廊下。
*
仏間の空気が、変わった。
雨戸の隙間から漏れる光の筋が、白から、橙色に変わっていた。
ミノルが、弾かれたように立ち上がった。
「兄ちゃん、出な! 早く!」
「え」
「日が暮れる! ちかさまが来る!」
ミノルは、僕の腕を両手で掴んで、引っ張った。小さな手だった。驚くほど冷たくて、濡れていた。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
裸足の、子供の足音ではなかった。
ゆっくりとした、重たい、衣擦れの音を伴った足音。すう、すう、と、着物の裾が床板を撫でる音。
そして。
「……もういいかい」
ミノルの顔が、真っ青になった。
「行って! 玄関まで、振り返らないで走って!」
僕は、走った。
腰のロープが、ぴんと張った。誰かが、外から引っ張っていた。大輔だ。僕は、ロープを手繰るようにして、廊下を走った。
背後で、ミノルの声がした。
「兄ちゃん!」
振り返りそうになるのを、歯を食いしばってこらえた。
「おれのことも、いつか、みつけてね!」
*
玄関を飛び出すと、真夏の午後の光が、目を焼いた。
鬼灯の庭は、白い陽射しの中で、ただ揺れていた。
長屋門の外で、大輔がロープを握りしめて、肩で息をしていた。
「お前……3時だって、言っただろうが」
スマホを見た。
午後3時4分。
空を見上げると、太陽は、まだ西の空の高いところにあった。日暮れまでには、まだ何時間もあった。
でも、屋敷の中では、確かに、日が暮れかけていた。
「……大輔」
僕は、息を整えながら、言った。
「大塚稔、って子、知ってるか。昭和33年に、あの家で消えた子」
大輔の顔色が、変わった。
「……なんで、その名前を」
「会った」
大輔は、何も言わなかった。
ただ、握りしめたロープの端を、長いこと、じっと見つめていた。




