第3話 夏の終わりの約束
取り壊しまで、あと8日。
8月24日。
20年前の、今日だった。
*
あの夏のことを、僕は、ところどころしか覚えていない。
覚えているのは、断片ばかりだ。
川の浅瀬で、大輔と二人で、ザリガニを追いかけたこと。駄菓子屋の軒先で、3人並んでラムネを飲んだこと。ビー玉が瓶の口に詰まって、柚葉がいつまでも瓶を逆さにして振っていたこと。
鬼灯屋敷の庭で、柚葉が、鬼灯の実を鳴らしてみせてくれたこと。
赤い実を指で揉んで柔らかくして、中の種を、爪楊枝で少しずつ掻き出す。空っぽになった実の皮を、口に含んで、舌で押す。
ぎゅう、と、蛙の鳴き声のような音がした。
「ほら。鳴ったでしょ」
柚葉は、得意そうに笑った。
僕も真似してみたけれど、何度やっても皮が破れてしまった。大輔は、最初から諦めて、種を庭に吐き散らかしていた。
「トミおばあちゃんに教わったの。コツがあるんだよ」
柚葉は、縁側に座ったトミさんのほうを振り返った。トミさんは、にこにこと笑って、手を振った。
柚葉は、背の低い、日焼けした女の子だった。髪を二つに結んで、いつも赤いリボンの麦わら帽子をかぶっていた。足が速くて、木登りが得意で、かくれんぼが、誰よりも上手かった。
僕が鬼のとき、柚葉を見つけられたことは、ほとんどなかった。
*
8月23日のことは、はっきり覚えている。
夕方の、川の土手だった。大輔が夕飯で先に帰って、僕と柚葉だけが、土手の草の上に座っていた。川面が、夕日で赤く光っていた。
「蒼くん。あのね」
柚葉は、膝を抱えて、川を見ていた。
「わたし、引っ越すの」
「……え」
「お父さんの、転勤。夏休みが終わったら、遠いところに行くの。北海道」
北海道。
8歳の僕にとって、それは、外国と同じくらい遠い場所だった。
「いつ」
「8月の、30日」
1週間しか、なかった。
「なんで、今まで黙ってたんだよ」
「言えなかったの」
柚葉の声が、小さくなった。
「言ったら、蒼くん、怒ると思って」
僕は、怒った。
怒ったのだと思う。何を言ったのかは、よく覚えていない。ただ、立ち上がって、柚葉を置いて、土手を駆け下りたことは覚えている。
背中に、柚葉の声が聞こえた。
「蒼くん! 明日、かくれんぼしようね! 鬼灯屋敷で!」
僕は、振り返らなかった。
*
8月24日。
それでも、僕は、鬼灯屋敷に行った。
大輔と、柚葉と、3人で、庭でかくれんぼをした。
最初の何回かは、大輔が鬼をやった。大輔は、夕方の5時に「母ちゃんに怒られる」と言って、先に帰った。
残ったのは、僕と柚葉だった。
柚葉は、縁側に麦わら帽子を置いた。
「帽子かぶってると、見つかっちゃうから」
それから、僕のほうを振り返って、言った。
「蒼くん、鬼ね」
「……うん」
「蒼くん」
柚葉は、少しだけ真剣な顔をした。
「ぜったい、見つけてね」
僕は、何と答えたのだろう。
覚えていない。
縁側の柱に顔を伏せて、目を閉じて、数を数えたことは覚えている。
いーち、にーい、さーん。
庭を走っていく、柚葉の足音。
しーい、ごーお。
じゅーう。
「もういいかい」
「――もういいよ」
屋敷の奥のほうから、柚葉の声が返ってきた。
僕は、柱から顔を上げた。
そこから先の記憶が、ない。
*
大人たちには、ずっと探した、と言った。
夕方から、暗くなるまで、屋敷中を探した。でも、見つからなかった。だから、柚葉の家に知らせに行った。
そう言った。そう言ったことは、覚えている。
警察の人にも、柚葉のお母さんにも、そう言った。
でも、実際に屋敷の中を探した記憶が、僕には、どこにもなかった。
20年間、そのことを、考えないようにしてきた。
*
午後、柚葉の家を訪ねた。
町の東の、古い住宅地の一角だった。小さな2階建ての家で、門の脇に、丸いガラスの門灯がついていた。昼間なのに、その門灯には、橙色の明かりが灯っていた。
呼び鈴を押すと、しばらくして、女の人が出てきた。
痩せた人だった。白髪の混じった髪を、後ろでひとつに束ねていた。目元に、柚葉の面影があった。
「……蒼くん?」
「ご無沙汰しています」
由紀さんは、しばらく僕を見つめていた。
それから、ふっと、泣きそうな顔で笑った。
「大きくなったのね。……当たり前か。20年だもの」
*
家の中は、きれいに片付いていた。
通された居間の壁に、写真が一枚、飾られていた。麦わら帽子をかぶった柚葉が、鬼灯を持って笑っている写真だった。
「北海道には、行かなかったの」
由紀さんは、麦茶を注ぎながら言った。
「行けなかった。あの子が、帰ってくるかもしれないから。夫は、仕事だから行くしかないって。それで、別々になった。……もう、15年も前に、正式に離婚したわ」
「門灯」
「ええ。あの日から、ずっとつけてるの。昼も、夜も。あの子が帰ってきたとき、どこが家か分からなかったら困るでしょう」
由紀さんは、何でもないことのように言った。
20年間、一日も消さずに。
僕は、麦茶のグラスを握りしめた。
「あの子の部屋、見る?」
由紀さんに案内されて、2階の小さな部屋に入った。
20年前のまま、だった。
学習机の上に、ランドセルと、夏休みの宿題の束。壁には、クレヨンで描いた家族の絵。窓際に、小さな鉢植えの鬼灯が置かれていた。今年も、赤い実をつけていた。
「毎年、トミさんのお庭から一株だけもらってきて、植え替えてるの。あの子が好きだったから」
机の上に、絵日記帳が開いたままになっていた。
由紀さんは、それを手に取って、僕に差し出した。
「最後のページ。……あの子が、あの日の朝に書いたの。前の日の分を」
絵日記の上半分には、クレヨンで、川の土手に座る二人の子供の絵が描いてあった。赤い夕日と、青い川。
下半分の罫線の中に、大きな平仮名が並んでいた。
『8がつ23にち はれ
あおいくんに ひっこしのこと いえた。
あおいくん おこってた。
あした おにびやしきで かくれんぼする。
あおいくんに みつけてもらって なかなおりする。』
鬼灯屋敷を、「おにびやしき」と書いていた。
僕は、絵日記帳を持つ手が震えるのを、どうしても止められなかった。
「あの子ね、引っ越しのこと、蒼くんに言えないって、何日も泣いてたの」
「……」
「言ったら、蒼くんに嫌われるって。私、そんなことないわよって言ったんだけど。あの日の前の晩、帰ってきて、言えたって。でも、蒼くん、怒っちゃったって。明日、仲直りするんだって」
由紀さんは、窓の外を見た。
「かくれんぼで、蒼くんに見つけてもらうんだって。そしたら、きっと仲直りできるからって。……そう言って、出ていったの」
息が、できなかった。
「あの日、蒼くんは、暗くなるまで、ずっと探してくれたのよね」
由紀さんは、僕を見た。
責める目では、なかった。感謝している目だった。
「ありがとう。あの子のために、一生懸命」
僕は、何も言えずに、頷いた。
頷くことしか、できなかった。
胸の奥で、何かが、ひどく軋んでいた。
*
日が暮れた。
「毎年、この日だけはね」
玄関で靴を履く僕に、由紀さんが言った。
「あの家の前まで、行くの。行って、呼ぶの。……蒼くんも、一緒に来てくれる?」
僕は、頷いた。
夜の8時。
鬼灯屋敷の長屋門の前に、由紀さんと二人で立った。
門の隙間から、庭が見えた。
鬼灯が、灯っていた。
昨夜、実家の窓から見たのと同じだった。庭を埋め尽くす鬼灯の実が、一つ残らず、内側から橙色に光っていた。提灯の海のようだった。
由紀さんは、その光を見ても、驚かなかった。
「毎年、この日は、こうなの」
静かな声だった。
「あの子が、ここにいるって、教えてくれてるんだと思う」
由紀さんは、門の前に進み出て、両手を口元に添えた。
「柚葉ー!」
声が、夜の竹藪に響いた。
「もういいよー! 出ておいでー! お母さん、迎えに来たよー!」
光る鬼灯が、さわさわと揺れた。
返事は、なかった。
由紀さんは、何度も呼んだ。柚葉。柚葉。もういいよ。出ておいで。声が、だんだんかすれていった。
僕は、その背中を見ていることしかできなかった。
由紀さんが、とうとう、門の前にしゃがみ込んだとき。
屋敷の奥から、声がした。
「……まだだよ」
子供の声だった。
柚葉の声だった。
由紀さんが、顔を上げた。
門の向こうの、光る鬼灯の海の、そのずっと奥から。
「まだ、出られないの」
声は、少しだけ、泣いているように聞こえた。
「あおいくんが、みつけてくれるまで」
僕の足が、その場に縫いつけられたように、動かなくなった。
由紀さんが、ゆっくりと、僕を振り返った。
光る鬼灯に照らされたその顔に、浮かんでいたのは、驚きでも、恐怖でもなかった。
すがるような、祈るような目だった。
「……蒼くん」
僕は、答えられなかった。
門の向こうで、鬼灯の光が、ひとつ、またひとつと、消えていった。




