第2話 3時間
取り壊しまで、あと9日。
朝の10時に、屋敷の玄関を開けた。
昨日の声のことは、考えないようにしていた。一晩寝て、朝の光の中で考えてみると、あれは自分の頭が作り出したものだとしか思えなかった。20年ぶりに屋敷に入って、あの日のことを思い出して、それで。
仕事で疲れているのだ、とも思った。東京では、この3か月、終電より前に帰れた日がほとんどなかった。
今日は、奥座敷には近づかない。玄関に近い客間から片付ける。
そう決めて、段ボールとガムテープと軍手を抱えて、廊下に上がった。
*
客間は、10畳の和室だった。
床の間に、埃をかぶった壺と掛け軸。壁際に、黒い漆塗りの長持がひとつ。違い棚には、日本人形のガラスケースが2つ並んでいた。人形の髪は色褪せて、着物の袖が虫に食われていた。
僕は、雨戸を一枚だけ開けた。
光が、どっと部屋に流れ込んだ。埃が、光の中で金色に舞い上がった。縁側の向こうに、鬼灯の庭が見えた。
スマホの時計を見た。10時6分。
まず、違い棚の人形から片付けることにした。ガラスケースを持ち上げると、中の人形が、ことりと首を傾けた。黒いガラスの目が、僕を見上げた。
新聞紙でケースをくるんで、段ボールに入れた。
次に、掛け軸を外した。水墨画の、山と川の絵だった。丁寧に巻いて、紐で縛った。
壺を新聞紙で包んだ。
長持の蓋を開けた。中には、古い着物が何枚も畳んで入っていた。樟脳の匂いが鼻をついた。一枚ずつ取り出して、広げて、状態を確かめて、また畳んだ。
20分か、30分。そのくらいの作業だったと思う。
長持を閉めて、腰を伸ばした。
縁側の外が、妙に暗かった。
*
雨戸を開けた縁側から見える庭が、橙色に染まっていた。
鬼灯の赤い実が、斜めから射す光を受けて、長い影を引いていた。
夕日だった。
僕は、スマホを見た。
午後1時11分。
目を疑った。
もう一度、見た。午後1時11分。
3時間が、経っていた。
人形を2つ片付けて、掛け軸を外して、壺を包んで、長持の着物を確かめただけだ。どう考えても、30分もかかっていない。
でも、庭の光は、確かに傾いていた。昼の1時の光には見えなかった。もっと遅い。夕方の、それも、日暮れに近い色だった。
スマホの時計と、庭の光が、合っていない。
僕は、慌てて縁側に出た。
空を見上げると、太陽は、ちゃんと真上に近い場所にあった。昼の光だった。白くて、強い、真夏の昼の光。
でも、縁側から見える庭だけが、夕暮れの色をしていた。
鬼灯の実が、ひとつ、ぽうっと光った気がした。
僕は、縁側から目を逸らした。
*
玄関へ戻ろうと、廊下に出た。
廊下は、薄暗かった。雨戸の隙間から漏れる光の筋が、昨日よりも少なくなっている気がした。
たたたた、と。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
小さな、軽い足音。裸足で板張りの廊下を走る音。
廊下の突き当たりの、奥座敷のほうから、こちらへ向かって走ってくる。
僕は、壁に背中をつけた。懐中電灯を、廊下の奥に向けた。
誰もいなかった。
足音だけが、近づいてきた。たたたた。僕のすぐ目の前まで来て、ぴたりと止まった。
それから、くすくす、と笑い声がした。
子供の笑い声だった。ひとりではなかった。二人か、3人か。息を殺して、それでも笑いをこらえきれないというような、あの、かくれんぼの最中の子供たちの笑い声。
足音が、また走り出した。今度は、茶の間のほうへ。襖の開く音。閉まる音。
静かになった。
遠くで、別の声がした。
「……もういいかい」
低い声だった。
大人の、女の人の声。
ゆっくりと、ひどく優しく、でも、底のほうが冷たく凍りついているような声。
屋敷のどこか、ずっと奥のほうから。
「もういいかい」
返事は、なかった。
でも、屋敷中の襖の向こうで、小さな何かが、一斉に息を止めたのが分かった。
*
僕は、玄関まで走った。
靴を履く手が震えた。引き戸を開けて、外に飛び出した。
真夏の昼の光が、目を刺した。
鬼灯の庭は、ただの庭だった。赤い実が、白い陽射しの中で揺れていた。夕暮れの色など、どこにもなかった。
スマホを見た。
午後1時14分。
長屋門を出たところで、大輔が、軽トラの荷台に腰かけて弁当を食べていた。
「お、出てきたか。昼飯、どうする」
「……大輔。僕、何時に入った」
「あ? 10時くらいだろ」
「今、何時」
「1時過ぎだ。3時間も何やってたんだよ。声かけても返事ねえし」
僕は、長屋門の柱に手をついた。
「30分くらいのつもりだった」
大輔の箸が、止まった。
*
昼は、駅前の食堂で、大輔と冷やし中華を食べた。
店の中は、扇風機が回っているだけで、ひどく暑かった。壁のテレビで、高校野球の再放送が流れていた。
「……時間がずれるって話は、前からあった」
大輔は、冷やし中華の胡瓜を箸でつまみながら言った。
「うちの親父が、昔、あの家の雨漏りを直しに行ったことがあってな。昼に入って、ちょっと屋根裏を見ただけのつもりが、出てきたら夕方だったって。親父、それから二度とあの家の仕事は受けなかった」
「それなのに、大輔は解体を」
「誰も受けねえんだよ。町の業者は、どこも断った。うちが断ったら、隣の市の業者が来る。何も知らねえやつらが、あの家を壊すことになる」
大輔は、箸を置いた。
「それだけは、嫌だったんだ」
なぜ嫌なのか、とは訊けなかった。
「あともうひとつ」
大輔は、声を低くした。
「日が暮れたら、あの家には絶対に入るな」
「……どうして」
「年寄り連中が言うんだ。日が暮れて、庭の鬼灯が灯ったら、中にいる人間は、あの家に隠される、って」
「鬼灯が、灯る」
「ああ。提灯みたいにな。俺は見たことねえけど」
大輔は、コップの水を一気に飲んだ。
「昔、柚葉の前にも、あの家で消えた子がいたんだと。昭和の、三十何年とか。俺の婆ちゃんが子供の頃の話だ。その子も、日が暮れてから、あの家に入っていったらしい」
テレビの中で、打球が高く上がった。アナウンサーの声が、やけに遠くに聞こえた。
*
午後は、屋敷に入らなかった。
長屋門の前で、大輔と一緒に、解体の段取りを確認して過ごした。重機の搬入経路。廃材の置き場。近所への挨拶回り。
夕方、大輔が帰り支度をしているとき、僕はふと、さっきのことを思い出した。
「そういえば、客間の縁側に、段ボール置きっぱなしだ」
「明日でいいだろ」
「うん。……いや、雨戸、一枚開けたままだった。閉めてくる」
「おい」
大輔が止めるより先に、僕は潜り戸をくぐっていた。
庭は、まだ明るかった。日が沈むまでには、まだ1時間以上ある。
客間の縁側まで、鬼灯をかき分けて歩いた。開けっぱなしの雨戸の前で、足を止めた。
縁側の上に、何かが置いてあった。
僕の段ボールの、横に。
麦わら帽子だった。
子供用の、小さな麦わら帽子。つばの縁がほつれていて、赤いリボンが巻いてあった。リボンの端が、少しだけ色褪せていた。
さっき、ここにはなかった。
僕は、それを知っていた。
20年前の、8月24日。かくれんぼを始める前に、柚葉は、この帽子を縁側に置いた。
――帽子かぶってると、見つかっちゃうから。
そう言って、笑って。
あの帽子は、見つからなかった。警察が、町の大人たちが、何日も何日も屋敷を探したのに、柚葉と一緒に、どこにもなかった。
麦わら帽子は、埃ひとつかぶっていなかった。
たった今、誰かがそこに置いたみたいに。
*
その夜、実家の2階の、子供の頃の自分の部屋で、眠れずにいた。
麦わら帽子は、屋敷の縁側に置いてきた。触れることが、できなかった。
窓を開けると、夜風が入ってきた。虫の声がした。坂の下の町に、ぽつぽつと街灯の明かりが灯っていた。
竹藪の向こうに、鬼灯屋敷の屋根が、黒い影になって見えていた。
その庭が、光っていた。
橙色の、小さな光が、いくつも、いくつも。
提灯のように。
庭を埋め尽くす鬼灯の実が、一斉に、内側から灯っていた。
僕は、窓枠を握りしめて、その光を見つめていた。
光の海の中を、何かが、ゆっくりと歩いていた。
遠すぎて、形は分からなかった。ただ、背の高い、細い影だった。長い着物の裾を引きずるようにして、鬼灯の間を、一歩、また一歩。
屋敷の中へ、入っていった。
風に乗って、かすかに声が聞こえた気がした。
――もういいかい。




