第1話 もういいよ
取り壊しまで、あと10日。
芦原町の駅は、20年前と何も変わっていなかった。
無人の改札。ホームの端の、錆びた自動販売機。駅前の小さなロータリーには、タクシーが一台も停まっていない。向かいの商店は、半分がシャッターを下ろしていた。
8月の終わりの陽射しが、アスファルトを白く焼いていた。蝉の声は、東京よりもずっと大きくて、ずっと近かった。
僕は、キャリーケースを引いて、実家へ向かう坂道を上った。
坂の途中で、ふと足を止めた。
左手の、竹藪の向こう。瓦屋根の大きな屋敷が、木々の間に見え隠れしていた。黒ずんだ土塀。崩れかけた長屋門。門の脇の、白い漆喰の蔵。
鬼灯屋敷。
子供の頃、この町の子は皆、あの屋敷をそう呼んでいた。
僕は、屋敷から目を逸らして、また坂を上り始めた。
*
「ごめんね、蒼。わざわざ休みまで取らせて」
実家の玄関で、母は松葉杖をついて出迎えてくれた。右足には、膝下まで白いギプスが巻かれていた。
「いいよ。どうせ有給、余ってたし」
「屋根の雨樋を直そうとして、脚立から落ちちゃったのよ。もう年ね」
母は、居間の座卓に、封筒と鍵束を並べた。
「これが、久世さんの家の鍵。母屋と、離れと、蔵。解体は9月1日から。それまでに、残ってる家財道具を片付けて、持ち主の久世さんに確認してもらわなきゃいけないものを仕分けて。解体業者さんとの立ち会いもあるの」
「久世さんって、東京の?」
「そう。トミさんの遠い親戚の方。トミさんが亡くなってから、ずっとお母さんが管理を頼まれてたでしょう。でも、もう古いし、誰も住まないから、更地にして売るんですって」
トミさん。久世トミ。
あの屋敷に一人で住んでいた、小柄なおばあさんだった。子供たちが庭で遊ぶのを、縁側からいつもにこにこと眺めていた。僕が中学に上がった頃に、亡くなったと聞いた。
「解体は、大輔くんのところがやってくれるのよ」
「大輔?」
「工藤さんとこの。覚えてるでしょう。今は、お父さんの工務店を継いでるの」
覚えている。忘れるはずがなかった。
あの夏、僕と、大輔と、柚葉の3人は、いつも一緒だった。
母は、鍵束を僕の手に押しつけながら、少しだけ声を落とした。
「……蒼。大丈夫?」
「何が」
「あの家。……柚葉ちゃんのこと」
僕は、鍵束を握りしめた。
錆びた鉄の、ずっしりと重い鍵だった。
「大丈夫だよ。もう20年も前のことだし」
母は、何か言いたそうな顔をして、でも何も言わなかった。
*
荷物を置きに、2階の自分の部屋に上がった。
高校を出るまで使っていた部屋は、ほとんどそのままになっていた。学習机。本棚の漫画。壁に貼ったままの、色褪せたサッカー選手のポスター。
学習机の引き出しを、何気なく開けた。
古い文房具や、使いかけのノートに混じって、一枚の写真が入っていた。
鬼灯屋敷の縁側で撮った写真だった。
3人の子供が、並んで座っていた。真ん中に、麦わら帽子の女の子。右に、坊主頭の大柄な男の子。左に、ひょろっとした、眼鏡の男の子。
女の子は、両手で鬼灯の実を掲げて、歯を見せて笑っていた。
大輔と、柚葉と、僕。
たぶん、あの夏の写真だった。縁側の奥の障子の前で、トミさんが撮ってくれたのだと思う。
写真の裏を返すと、鉛筆で、子供の字が書いてあった。
『ゆずは だいすけ あおい ずっといっしょ』
柚葉の字だった。
僕は、写真を引き出しに戻して、そっと閉めた。
20年間、この引き出しを開けなかったのは、たぶん、この写真があることを、どこかで覚えていたからだ。
*
午後、鬼灯屋敷の長屋門の前で、大輔が待っていた。
日に焼けた顔に、短く刈った髪。作業着の袖から覗く腕は、僕の倍くらいの太さがあった。軽トラの荷台に腰かけて、缶コーヒーを飲んでいた。
「よう。東京もん」
「……久しぶり」
「何年ぶりだ。成人式以来か」
「たぶん」
大輔は、荷台から飛び降りて、空き缶を軽トラの助手席に放り込んだ。
「おばさんから聞いた。立ち会い、お前がやるんだって?」
「うん。10日間、よろしく」
「おう。うちは来月の1日から重機入れる。それまでに中の片付け、頼むわ」
大輔は、長屋門を見上げた。
「……にしても、お前が来るとはな」
その声は、少しだけ硬かった。
大輔も、忘れていないのだ。
20年前の、8月24日。
この門をくぐって、屋敷の庭でかくれんぼをしたのは、僕と、大輔と、柚葉の3人だった。
夕方、大輔が先に帰った。僕と柚葉が残った。
そして、柚葉は、帰ってこなかった。
*
長屋門の潜り戸を開けると、庭が見えた。
一面の、鬼灯だった。
手入れをする人がいなくなって、十数年。庭の土という土を、鬼灯が埋め尽くしていた。膝の高さまで伸びた茎に、朱色の実が、提灯のようにいくつもいくつもぶら下がっている。夏の終わりの陽射しを受けて、それが一斉に、燃えるように赤く光っていた。
「すげえだろ。毎年、増えるんだ」
大輔が、鬼灯をかき分けながら言った。
「誰も植えてねえのに。刈っても刈っても、次の年にはまた出てくる。この家の土が、鬼灯しか育てねえみたいに」
鬼灯の海の向こうに、母屋があった。
黒い瓦屋根が、重たく垂れ下がっていた。縁側の雨戸は閉め切られて、板の継ぎ目から、細い光の筋が漏れているだけだった。軒下には、蜘蛛の巣がいくつも白く張っていた。
子供の頃は、もっと大きく見えた。今は、ひと回り小さく、ひどく疲れた生き物のように見えた。
僕は、玄関の引き戸に鍵を差し込んだ。
錆びついていて、なかなか回らなかった。力を込めると、がちゃり、と重い音がして、ようやく開いた。
引き戸を開ける。
黴と、埃と、古い木の匂いがした。
その奥から、ひんやりとした空気が流れ出てきた。真夏の午後なのに、冷蔵庫を開けたような冷たさだった。
「俺、外で重機の搬入経路見てるわ」
大輔が、玄関に入らずに言った。
「中、一人で大丈夫か」
「……大丈夫だよ」
「そうか。なんかあったら、呼べ」
大輔は、そう言って、鬼灯の庭のほうへ戻っていった。
入りたくないのだ、と分かった。大輔は、この家の中に。
*
土間で靴を脱いで、上がり框に足をかけた。
廊下は、薄暗かった。雨戸の隙間から漏れる光が、埃の舞う空気の中に、何本もの細い線を引いていた。
廊下の左右に、襖が並んでいた。茶の間。仏間。客間。奥座敷。子供の頃は、この襖の一枚一枚が、隠れ場所への入り口だった。
僕は、懐中電灯をつけて、ゆっくりと廊下を進んだ。
床板が、一歩ごとに、ぎし、ぎし、と鳴った。
茶の間の襖を開けた。
ちゃぶ台と、茶箪笥と、古いブラウン管のテレビ。トミさんが亡くなったときのまま、何も片付けられていなかった。ちゃぶ台の上に、湯呑みがひとつ、埃をかぶって置いてあった。
仏間の襖を開けた。
黒い仏壇。色褪せた遺影がいくつも、鴨居の上に並んでいた。古い写真の中の人たちが、一斉にこちらを見下ろしているようだった。
僕は、襖を閉めた。
廊下の突き当たりに、奥座敷があった。
あの日、柚葉が最後に隠れた場所だと、大人たちは言っていた。奥座敷の押し入れから、蔵へ続く渡り廊下へ抜けられる。そのどこかに隠れていたはずだ、と。
僕は、奥座敷の襖に手をかけた。
そのとき。
「――もういいよ」
声が、した。
*
子供の声だった。
女の子の、高い、澄んだ声。
襖の向こうから。いや、もっと奥から。屋敷の、ずっと奥の、どこか分からない場所から。
僕は、襖に手をかけたまま、動けなくなった。
聞き間違えるはずがなかった。
20年前、何百回も聞いた声だった。
――もういいよ。
あの夏、この屋敷の庭で、僕が「もういいかい」と叫ぶたびに、どこかの物陰から返ってきた声。少しだけ得意げで、少しだけ笑いをこらえているような。
柚葉の声だった。
心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。
僕は、襖を、ゆっくりと開けた。
奥座敷は、がらんとしていた。
12畳の畳の上に、何もなかった。床の間には掛け軸もなく、押し入れの襖は閉まっていた。雨戸の隙間から漏れる光が、畳の上に細い縞模様を描いていた。
誰もいなかった。
当たり前だ。いるはずがない。
「……柚葉?」
呼んでいた。
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
返事はなかった。
ただ、押し入れの襖の向こうで、何かが、くすっと笑ったような気がした。
*
どうやって屋敷を出たのか、よく覚えていない。
気がつくと、僕は長屋門の外に立っていた。息が上がっていた。額から、汗が滝のように流れていた。
「おい、蒼。どうした」
軽トラの横で、大輔が驚いた顔をしていた。
「顔、真っ青だぞ」
「……大輔」
僕は、大輔の作業着の袖を掴んだ。
「聞こえた」
「何が」
「柚葉の声。もういいよって。奥座敷の、もっと奥から」
大輔の顔から、表情が消えた。
長いこと、大輔は黙っていた。
それから、僕の手を袖から外して、低い声で言った。
「……この町の子供はな、今でも、あの家には近寄らねえんだ」
「え」
「夏になると、あの家の前を通ると、中から声がするんだと。もういいよ、って。女の子の声で」
大輔は、屋敷の黒い屋根を見上げた。
「20年間、ずっとだ」
門の向こうで、鬼灯の赤い実が、風もないのに、一斉にさわさわと揺れた。
その音が、子供たちの笑い声のように聞こえた。




