暮秋の囁きと、遅すぎた涙
薄明の光が、風霜の残り香を孕んだ朝霧を透かして射し込み、天幕の頂に穿たれた精緻な通気窓から静かに降り注いでいた。漂う塵芥を切り裂くように、一筋の斜光が落ちている。
その微かな温もりを帯びた光斑は、ルシアの青ざめた、ほっそりとした寝顔へと音もなく這い上がり、底知れぬ幽暗の淵から彼女の意識を緩やかに引き戻した。
「……ん……」
震える睫毛の隙間から、押し殺した微かな咽びが漏れる。ルシアは鉛のように重い瞼を、どうにか押し上げた。
意識が巡り始めたその刹那、固定具と高位治癒の包帯に覆われた肋骨の鈍痛が、神経の末端を微弱な電流となって駆け抜け、己が今なお魔力の天賦と無数の回路に支配された現世に繋ぎ止められているのだと、容赦なく知らしめてくる。
しかし、墨緑の瞳が焦点を結んだとき、その奥底に浮かんだのは、滅多に見せぬ惑いと狼狽であった。
身を沈めていたのは、前線の臨時野戦病院にあるような、消毒液の臭気立ち込める粗野な帆布の行軍ベッドなどではない。
白狐の毛皮と雪蚕の絹を幾重にも重ねた、特注の高位寝台であった。雲海に抱かれたかのように滑らかで柔らかな感触が、彼女の痩躯を優しく包み込み、身じろぎひとつしても金属バネの硬質な軋みなど微塵も返してこない。
ここは紛れもなく、太古絶嶺の前線に敷かれた主帥の天幕であった。
だが、「臨時の軍用」という名目を冠してなお、ノーランド帝国の宮廷工匠の手によって設営されたこの本陣の豪奢さは、現代の社畜が抱く貧相な想像力を無残に打ち砕くほどに絢爛を極めていた。
天幕の天蓋は、防魔を施された巨獣の毛皮を丸ごと一枚贅沢に鞣したもので、内張りには秘銀の糸で風防と恒温の精密な術式回路が隙間なく刺繍されている。
堅牢な鉄木を丸ごと削り出した数本の支柱には、純度の高い微小な温調火晶が嵌め込まれ、幕外の吹き荒ぶ寒風を完全に遮断して、室内には初春のような心地よい温もりだけを満たしていた。
足元には手織りの重厚な紅絨毯が敷き詰められ、踏みしめる足音すら吸い殺す。
少し離れた主案は、香木たる沈香の大木を一塊そのまま贅沢に切り出したもので、その傍らには、丹念に磨き抜かれた儀礼用の佩剣と、貴族の家紋が彫り込まれた純銀の茶器揃えが無造作に置かれていた。
硝煙の残滓も、血腥い生臭さも微塵もない。漂っているのは、極上の木質香に、高価な治癒軟膏の清涼な甘さが溶け合った、どこか澄み切った匂いばかりであった。
ルシアは無表情のまま、天蓋に走るおぞましいほど贅沢な附魔の金糸を見つめていた。その脳裏に去来したのは、ただ一つの乾いた思考であった。
――前線の仮初めの天幕ひとつに投じられた金で、帝都の吹き溜まりにある平民長屋の基礎から配管に至るまで、十度は建て直せるだろう。
これぞ帝国の頂に君臨する特権貴族の業であった。たとえ屍山血河の太古絶嶺にあろうとも、己が矜持と安寧を爪の先ほども損なおうとはしない。
「――目が覚めたのかい?」
その声は極めて低く、あたかも一夜置かれた冷水の中から拾い上げられたかのように、どこかぎこちない温もりを含んでいた。
ルシアがゆっくりと首を巡らせると、帳を掲げて歩み寄ってきたのは、カリーナとクレアであった。
朝の光が、二人の端麗な面輪を痛々しいほど白く浮き上がらせている。
太古絶嶺という肉片の滾る修羅場を脱した今、ルシアの頭の中で張り詰めていた糸がふつりと途切れ、戦火の轟音に押し殺されていた記憶が、雨上がりの土を割って萌え出ずる新芽のように、細やかに、密やかに這い出してきた。
戦局が乱脈を極める最中、硝煙の向こうでロバートが投げつけてきた言葉が蘇る。
――時間とは、本来、巻き戻せるものなのだ。
現世には確かにそのような権能が存在する。だが、その代価とは、天を覆い地を埋め尽くすほどの生霊の咽喉を裂き、その熱き血潮を捧げて築き上げる祭壇に他ならない。
それは荒唐無稽な豪賭であった。成し遂げ、光陰を逆流せしめることが叶えば、屠られた死者たちもまた時の巻き戻りに伴って蘇る。
理屈の上では、天地にいかなる怨嗟の亡霊も遺さぬ「無代価」の取引となるはずであった。
しかし、もし半途で挫折すれば、あるいは生贄の数が足りず、積み上げた骸が規準に満たなければ、その無間地獄の罪業は現世の背骨へと容赦なく圧し掛かり、万劫にして浮かばれぬ破滅を迎える。
斯様な権能を創り出した造物主の心根は、恐ろしく陰険に違いない。臆病者に退路など残さず、棺の底から古き夢を奪い返そうと足掻く者の、骨肉の最後の一滴までを絞り尽くし、良心を生きたまま咀嚼して呑み下すことを強要するのだから。
ルシアの胸中に、唐突にすべての符合が落ちた。厚手の敷布に身を預けたまま、渇ききった苦渋を舌の根に感じつつ、彼女はぽつりと唇を開いた。
「第三の狩猟祭の最中……ロバートから聞いたわ。あなたが時間を捻じ曲げ、どれほど恐ろしい凶行に及んだのかを……」
光と影の狭間に佇むカリーナの、氷を張ったように静まり返った顔には、さざ波ひとつ立っていなかった。ただ、その双眸だけが、凍てついた黒曜石のようにじっと据え置かれている。
ルシアはその女を見つめながら、骨の髄まで冷え切るような寒心と哀愁を覚えていた。目の前の女の底が、まるで知れない。
前世において、あの灼熱の火球が己の胸を刺し貫き、肺腑を焦土へと焼き尽くしたあの刹那、カリーナはわずか数歩の距離に立ち尽くしながら、どれほど冷酷に、どれほど無感動に見下ろしていたことか。
あの折のクレアの眼差しに宿っていたのも、門閥貴族特有の埋めようのない疎外ばかりであった。
ましてルーカスなどは、彼女を目の上の瘤と蔑み、銅貨一枚の手当すら執拗に削り取っていたではないか。
あの頃の彼女たちが、なぜ黒髪の卑小な女の存在など、まともに視界に留めることがあっただろう。
ならば、彼女らはいかなる理由で、ノーランド帝国の半数を屠るほどの生霊を祭壇に捧げてまで歳月を逆流させたというのか。
なぜ今世に至って、これほど腫れ物に触るように、身を竦めるほどに甘やかし、愛憐を注ぐのか。山岳の如く重く、血腥いまでに濃密なこの偏愛は、今ここにいる自分へ向けられたものなのか、それとも死に果てた亡霊に捧げる贖罪の供物に過ぎないのか。
「……本当は、『アリエル』なんて人間、初めから存在しなかったのでしょう?」
ルシアは視線を逸らし、自嘲の混じった蒼涼たる笑みをその口許に滲ませた。
「もし本当に、あなたたちにそれほど執着する幼馴染の故人がいたのなら、前世の公爵邸で幾年も無為に過ごした私が、ただの一度もその名を耳にしなかったはずがないもの……」
騙されていたという屈辱が、胸の奥でみじめに燻る。だがそれ以上に無惨なのは、もはや自分には逃げ場など残されていないという厳然たる事実であった――彼女は、目の前の二人の女を、救いようのないほどに愛してしまっていた。
何より、カリーナを。
哀れなほどに、この冷血な女の腕の中に、彼女は三度も落ちたのだ。
前世が一度目。報われぬ片思いと知りながら、飛蛾が火に飛び込むように全てを捧げた。忘却の守護者となる前が二度目。不意に見せられた温もりに絆され、自ら望んでその身を委ねた。
そしてカリーナが己を忘れ去った後すらも、あの紅い瞳に見つめられるたび、胸は無様に跳ねた。それが三度目だ。
三度、心を奪われた。それは己の心臓を差し出し、三度踏みにじられたに等しい。
それほどまでに卑しく、それほどまでに深く愛してしまったからこそ、この甘美な日々の底に埋められていた欺瞞と血塗られた真実を知った今、引き裂かれるような痛みが、鋭利な刃となって身を苛んでいた。
堪えきれず、熱い雫が目頭に滲む。ルシアは唇を固く噛み締め、宣告を待つように頑なに身じろぎをしなかった。
カリーナは彼女を見つめていた。その瞳を閉ざしていた万年の氷雪が、零れ落ちそうな一滴の涙を前にして、音を立てて崩落していく。
この一世を跨いで引きずってきた血の負債から、もはや逃れる術はないのだと、彼女は悟っていた。
貴族の優雅さなどかなぐり捨て、どこか覚束ない足取りで歩み寄り、カリーナは身を屈めると、病床に横たわる華奢な黒髪の少女のすぐ隣に腰を下ろした。
「……私はね、ただの臆病者だったのだよ」
カリーナの声は、あまりに淡かった。
「……え?」
ルシアは虚を突かれたように息を呑んだ。冬の夜に舞い落ちる枯葉のように静かな響きでありながら、その一言一言があまりに重く鼓膜を打ったため、傷の痛みに耳を疑ったほどであった。
「私は、哀れなほどに臆病だったのだ」
カリーナはルシアを見ようとはせず、ただ茫漠とした天幕の虚空を見つめていた。
「私の目の前には、私ひとりで心を満たした女が、確かに立っていた。だが、恐ろしくてならなかった。それが策謀ではないか、偽りではないか、いつか心を許せば、かつての兄と同じ無残な結末を迎えるのではないかと……。私は頑なに拳を握り締め、警戒し、冷たく見下ろし続けた。そしてその女が息絶え、その体が冷え切ってしまった時になって初めて、人の世の営みには、やり直しの利かぬことがあるのだと……骨の髄まで思い知らされたのだ」
白く、しなやかな指先が、微かな震えを伴って伸ばされた。
次の瞬間、公爵としての矜持など砂塵の如く散り果て、カリーナは半狂乱の執念と切迫を剥き出しにして、ルシアの細い身体を己の胸の中へ乱暴に抱き竦めた。
接合したばかりの肋骨が軋むほどの激しい力だったが、それと同時に、焼けるような熱い雫が、ルシアの首筋へと容赦なくこぼれ落ちた。
涙であった。
あの苛烈にして鉄血、ノーランド帝国の北境を一身に支えてきた女が、声を上げて泣いていた。
遥か昔、カリーナは泣くことなど疾うに忘れていたはずだった。
前公爵――敬愛する実兄が政敵の刃に斃れ、血溜まりに沈んだあの日も、彼女は泣かなかった。ただ無表情のまま血染めの甲冑を纏い、家督の重荷を背負い、謀略渦巻く戦場を渡り歩きながら、幼きルーカスを育て上げた。
幾度となく見舞われた暗殺の刃、裏切り、そして絶体絶命の窮地にあっても、彼女は一度たりとも涙を流さなかった。信じるものは手中の鋼と剣のみ。いかなる破滅の瀬戸際であれ、歯を食いしばって飲み下してきたのだ。
前世において、ルシアが胸を火球に貫かれ、黒焦げの空洞を穿たれて物言わぬ骸となったあの時ですら、彼女は泣かなかった。
ただ狂ったように、熱を失っていくその肉体を腕の中に縛り付けた。何者も寄せ付けず、灰と瓦礫の焦土に座り込み、生前いつも己の後ろを追いかけ、健気に笑いかけていた女を抱き続けた。
頭上を太陽が幾度昇り、幾度沈んだのかすら知らぬまま、腕の中の温もりが完全に途絶えて冷え切ろうとも、その紅瞳からは一滴の涙すら零れ落ちることはなかった。
やがて彼女は憑りつかれた。心魔が毒茨の如く神経を苛み、日夜血を吐くまでに衰弱しても、決して泣きはしなかった。ただ夜ごと目を見開き、虚空へ向けて手を伸ばしては、あの卑しくもひたむきだった幻影を追い縋った。
だが、すべては遅すぎたのだ。天地は果てしなく広いというのに、彼女が抱き締められるものは、冷たい骨壺ひとつしか残されていなかった。
ルーカスという子は、その絶望に耐えかねて狂気に呑まれた。罪を贖うため、かつて己が虐げ、搾取し続けた女の命を買い戻すため、あの子は血塗られた時間の禁術へと身を投じた。
そして、ルーカスが戦死した報せが届いた日も、カリーナは泣かなかった。
ただ静まり返った公爵家の執務室に座し、グラフィエンの血脈がこの業深き罪によって完全に途絶えたのだと、乾いた嘆息を漏らしただけだった。
彼女の視線は、かつてルシアが心を尽くして丹念に彫り上げ、贈ってくれた古びたオルゴールへと注がれていた。長い、長い時間、それを見つめ続けていた。
やがて、指先が歯車の最後の刻み目を撫で終えたとき、彼女は静かに立ち上がり、埃を被っていた長剣を抜き放ったのだ。
あの一夜、ノーランド帝国の宮廷は屠殺場と化した。
白玉の階段は皇族の血で朱に染まり、帝国の半数に及ぶ生霊が断末魔の叫びと共にその魂を毟り取られ、光陰を裂くための生贄と成り果てた。彼女は狂人となり、自らの故土を焼き尽くす処刑人となった。
そしてその傍らで、等しく血に塗れていたのは、瞳からとうに生命の気配を失っていたクレアであった。
カリーナはその時すでに気づいていた。背後に立つ、あの誇り高き紫髪の従妹がルシアに対して抱いた遅すぎる執着が、果てなき悔恨の果てに、狂気じみた独占欲へと変貌を遂げていたことを。
思えば滑稽な話であった。権力の泥沼と血溜まりの中で生まれ育った彼女らのような貴種が、生きて「真の愛」の姿など知るはずもなかったのだ。
冷酷と猜疑こそが骨の髄まで染み付いた習い性であり、だからこそ、差し出されたあの無防備で、愚かしいほどの純粋な微光が闇を照らした時、彼女らは陽光を知らぬ野獣の如く、失った後になって同じ影を求めて貪り食い合うしかなかったのだ。
カリーナとて、己を寛大で寛容な人間だなどと思ったことはない。
だが、あの領域に至っては、もはやどうでもよかった。罪業だろうと共犯だろうと構わない。己の魂が無間地獄で千々に引き裂かれようとも、この狂い乱れた因果の果てに、もう一度――ただもう一度、この温もりを宿し、息を吸い、生きて拍動するルシアを腕の中に取り戻せるのであれば。
「……ルシア」
カリーナは少女の細い肩に顔を埋め、全身を激しく震わせながら、その薄い病衣を涙で濡らし続けた。擦り切れた砥石のように嗄れた声が漏れ落ちる。
「私は大罪人だ……だが、今、ようやくお前の心臓の音に触れられた……」
ルシアの指先は空中でしばらく躊躇い、やがて呆然としたまま、カリーナの激しく波打つ背中へとそっと回された。
確かな重みがあった。その背骨は痛々しいほどに硬質だった。ノーランド帝国において鉄血と冷徹をもって名を馳せ、傲慢を極めた女公爵が、いまや溺れる者が最後の一本の藁に縋り付くように己の胸に崩れ落ち、熱い涙を流しているのだ。
天幕の中には、押し殺した嗚咽と、香炭が爆ぜるかすかな音だけが満ちていた。
少し離れた影の中に佇んでいたクレアは、精緻な彫像のように微動だにせずその光景を見つめていたが、やがてその口許をかすかに綻ばせ、静かに言葉を紡ぎ出した。
「貴女を愛してしまったのは、もう、途方もなく昔のことよ。いくつの年月が流れ、どれほどの歳月を重ねたのか、今となっては私たち自身にすら数え切れないわ。ただ……泥濘のような日々に沈んでいた私たちが、ふいにあの甘美な蜜の味を知ってしまった。ならば、その熱を未来永劫味わい尽くしたいと願ってしまった……それだけのことよ」
クレアの眼差しは寝台を通り越し、天幕の通気窓の隙間を抜けて、遥か彼方の虚無の天蓋へと向けられていた。その瞳は、ルシアを失った後の、発狂するほどに長い歳月を映し出していた。
それは数え切れぬ永夜であり、骨髄まで凍てつく寒冷の日々であった。己の身を温めるためなら、人を殺め、帝国全土に戦火を放つことすら厭わぬほどの冷酷な冬であった。
「信じられないかもしれないけれど――今世で貴女と『初めて出逢う』よりもずっと前から、私たちは果てのない悪夢の中で、幾星霜ものあいだ貴女を愛し続けていたのよ」
クレアは視線を戻し、花が綻ぶように艶やかに微笑んだ。
その笑みには、「帝国の初恋」という名が纏わされた社交界の作り笑いも、門閥の令嬢としての取り澄ました矜持もなかった。
魂の深淵から解き放たれた、正真正銘のクレアの素顔であった。眩いばかりに咲き誇り、天蓋から射し込む朝の光すら霞んで見えるほどに美しく、もし深山の精霊がこの太古絶嶺を通りかかったならば、ただその笑みを見届けるためだけに、凍てつく風霜の中でその身を喜んで凍死させたであろうほどの絶景であった。
紫髪の令嬢は音もなく歩み寄り、足音を絨毯に吸わせながら寝台の傍らへと進み出た。
彼女は身を屈めると、両腕を大きく広げ、極めて自然に、そして傲慢なまでの力強さで、ルシアとカリーナのふたりを纏めてその胸の内に抱き竦めた。
左右から押し寄せる二重の熱気。極上の薫香と、微かに残る血の匂い、そして息を詰まらせるほどに重い偏愛が、ルシアの小さな身体を逃げ場のない檻のように閉じ込める。
「私とお姉様はね、同じ穴の狢の、哀れな臆病者なの」
クレアの顎がルシアの頭頂にそっと預けられ、その喉から、安堵と自嘲の混じった掠れ声が漏れた。
「貴女がまた私たちの指の隙間から零れ落ちていくのが恐ろしくてならなくて、だから前世の罪を隠し通そうとしたのよ。何も話さなければ……貴女があの冷酷な仕打ちを思い出さず、今の私たちの真実の愛を疑わずにいてくれると思い込んでいたの」
ふたつの温もりに挟まれ、ルシアの胸は押し潰されそうに苦しかった。前世の公爵邸で味わった惨めさ、冷遇の記憶、そして胸の奥底に澱のように溜まっていた甘えと悲痛が、鼻の奥をツンと刺激する。
彼女は鼻をすすり、少し拗ねたようにカリーナの首元の柔らかな絹衣へと顔を埋め、くぐもった声で呟いた。
「……でも、あなたたちが前世で私に冷たくて、ずっと遠ざけていたのは、紛れもない事実じゃない」
堪えきれずに言い返してしまった。骨の髄まで染み渡るようなあの冷たさを、彼女は確かに一度味わったのだ。もし死を経験していなかったなら、生まれ変わった直後に夜逃げ同然で逃げ出そうなどと考えただろうか。
カリーナがあらゆる口実を使って力ずくで傍に留め置かなければ、今頃は名も知らぬ辺境の町で、黒パンを齧って暮らしていたはずなのだ。
頭上で、忍び笑いが漏れた。クレアは気を悪くするどころか、白い手を滑らせ、ルシアの腰へと回した腕をさらに強く締め上げた。そして薄い絹の寝衣の上から、その敏感な脇腹を意地悪くきゅっと抓った。
「誰のせいでそんなことになったと思っているの?……いつも私たちの傍から逃げ出そうとばかりするのだから。ねえ、お姉様。この減らず口、そろそろ身をもって『お仕置き』してあげなきゃいけないんじゃないかしら?」
主帥の軍幕の内は、極めて重苦しい空気に満たされていた。
天蓋の風口から、太古絶嶺の晩秋を彩る霜降の冷気がわずかに吹き込み、枯草から散った細かな秋霜を伴って、深青の防魔巨獣皮の内張りをかすかに打っている。
草木が朽ちゆく乾いた殺気を孕んだその風も、鉄木の支柱を伝って三尺も下らぬうちに、赤く熾った温調火晶に触れ、ジュッと音を立てて湿り気を帯びた濃密な暖霧へと化し、宙に散っていった。
軍幕の中央に据えられた特注の行軍寝台は、深く沈み込んでいた。
敷き詰められた白狐の毛皮と幾重にも重なる雪蚕の絹布は、本来ならば凛とした秋霜の色であったはずだが、この時ばかりは激しく乱され、深秋の驟雨に叩き潰された落葉の堆積の如く折り重なって、その底から血の凝固したような暗紅の羊毛の裏地を覗かせていた。
それは熟れきった柿を思わせる濃密な色合いで、指先で少し押せば、甘く重い汁が滲み出してきそうなほどであった。
幕外に満ちる金戈の殺気など、この幾重にも重なる褥の奥底までは到底届かない。
毛皮と錦の帳の底では、根を失った三条の蔓草のような影が、無秩序に、狂おしく絡み合っていた。
ひとつは北境の秋霜に鍛え上げられた白樺。本来ならば凛として冷たく、強靭であるはずのそれが、今は力なくしなだれ、全身の骨節を複雑に絡み合う根へと変えて、中央の最も華奢な黒木へと深く食い込み、しがみついている。
もうひとつは門閥の庭で育まれた紫藤。葉蔓はあまりに密で、重厚に外縁を覆い尽くし、木の節の窪みを余すところなく撫で擦り、寸分の冷気すら通さぬよう隙間なく絡みついていた。
その真ん中に挟まれた一本こそが、もっとも細く、もっとも過酷な責め苦を負わされていた。
粘つくような、過剰なまでの熱流に両脇から挟み込まれ、身動き一つ取れぬまま、野蛮なまでの貪婪と圧迫を受動的に受け止めるしかない。
毛皮の襞の隙間から時折かすかな戦慄が漏れ出る様は、あたかも二羽の白鶴の嘴に挟まれた生きた魚のようであった。
窒息しそうな空の中で尾を無駄に跳ねさせたかと思えば、重なり合う純白と深紫の翼に、たちまち跡形もなく呑み込まれていく。
幕内の沈香木机の傍らに置かれた銀の炭火が、パチリと小さく爆ぜた。
その弾みに、重なり合った掛け布の端が微かに蹴破られ、極めて細く、白い足首が一本、冷気の漂う空隙へと投げ出された。くるぶしには不自然な上気と、微かな汗の粒が滲んでいる。
だが、その肌に霜降の風が触れるよりも早く、戦剣を握り慣れた骨太の長い指が音もなく闇から伸び、抗う隙も与えずにその足首を掴むと、無造作に温もりの底へと引き戻した。
帳は再び落ち、衣擦れの音と、途切れ途切れの湿り気を帯びた吐息を覆い隠す。
天幕の外では、太古絶嶺に展開する万を超える重装歩兵の巡察が続き、霜の降りた硬い泥土を踏みしめる軍靴の音が、遠雷のように鈍く大地を揺らしていた。
しかし、この中軍の幕舎にいる者たちにとって、もはやそんな外界の響きなど関わりのないことであった。彼女らは暗がりの中でただ貪るように互いを舐め合い、締めつけ合っていた。
秋霜の冷徹な世界から這い出し、寒さの中で抱き合って死を待つ三人の罪人のように――誰が誰を温めているのか、それとも誰が誰を己の血肉へとすり潰し、同化させようとしているのかすら、判らぬままに。




