過熱の痕跡と、唐突なる決闘状
正午の秋陽が、太古絶嶺の上空に漂う薄い寒靄を刺し貫き、軍容厳整たる練兵場の全容を痛々しいほど白々と照らし出していた。
吹き渡る秋風は枯草の匂いと霜降の乾いた殺気を孕んでいたが、本陣たる大天幕の分厚い防魔の帳が、節くれだったしなやかな指先によって跳ね上げられたその刹那、その寒気すらも中空に凍りついたかのようであった。
先ず姿を現したのは、カリーナであった。
ノーランド帝国にその名を轟かす女公爵は、とうに先刻までの粗末な白シャツを脱ぎ捨て、身に寸分の狂いもなく仕立てられた濃墨色の軍礼服を纏っていた。
マントの銀留めは厳格に留められ、白銀の長髪は無造作に項で束ねられている。その冷徹な輪郭の面輪には、人を寄せ付けぬ冷厳な粛殺の気すら漂っていた。
しかしながら、その立ち襟が帝国の宮廷礼法に定められたすべての縫目を忠実に守り抜いていようとも、彼女がわずかに首を巡らせたその刹那、襟ぐりの隙間から覗く抜き身の白磁の肌には、隠しようもなくおぞましい鮮紅の痕が刻みつけられていた――
それは爪痕などという生易しいものではなく、幾度も貪り喰われ、皮下出血を来すまでに吸い尽くされた無残な歯型であり、頸動脈に沿って漆黒の布地の深淵へと這い入っていた。
それに続いて歩み出たクレアもまた、寸分の乱れもなく装い整えていた。
紫紺の絹糸が幾重にも折り重なる豪奢な排釦の細腰の常服は、裾の乱れひとつなく流麗に落ち、その唇には社交界で磨き抜かれた完璧無欠の優雅な微笑すら浮かんでいる。だが、歩みがわずかに急いたせいか、右の鎖骨の上に配された暗金の飾り釦が、半寸ほど緩んでいた。
わずか半寸の空隙――しかしそれは、恭しく敬礼を捧げようとした十数名の近衛精鋭の息を呑ませるには、あまりに過剰な深淵であった。
白磁を削り出したような鎖骨の窪みには、鮮烈な紫の鬱血が二筋重なり合い、その輪郭は充血した深紅に滲んでいた。細い喉の両脇に至っては、雪嶺に散る紅梅の如く、暴虐なまでに鮮やかな接吻の痕跡が所狭しと焼き付けられている。
そして、この二人の尊貴なる門閥の令嬢に挟まれ、左右から庇い立てられるように歩まされるルシアの有様は、さらに目を覆うばかりであった。
黒髪はほつれ、身に余るほど仕立ての大きな高位法衣を着せられた少女の姿は、あたかも大型の圧搾機の下から辛うじて拾い集めて繋ぎ合わせた残骸のようであった。
顔色は青白く、墨緑の双眸には魂を根こそぎ抜き取られたかのような死魚の濁りが浮かび、その足取りは凍てつく硬土の上に今にも頽れんばかりにおぼつかない。
何より無残なのは、その清秀な小顔と首筋に、もはや覆い隠す術が残されていないことであった。耳朶から下顎の稜線、果ては喉仏の直下に至るまで、狂乱の歯型と鬱血した紅斑が隙間なくびっしりと覆い尽くしている。
法衣の袖口から覗く細い手首にすら、肉の奥深くまで食い込んだ五条の青紫の指痕が鮮明に遺されていた。
誰の目にも一目瞭然であった――絹の帳と白狐の毛皮の底で繰り広げられたであろう、狂気に近い撕裂と暴虐の閨房の光景が、見張る者の脳裏にありありと結像してしまうのだ。
「――がたり。」
行軍図を抱えて通りかかった高位の副官の手から、羊皮紙の巻物が乾いた音を立てて泥の上に落ちた。
整列待機していた中軍の練兵場は、正午の刺すような陽光の下、頭皮が痺れるほどの奇怪な死寂へと叩き落とされた。
神を屠る焦熱の火海にすら眉ひとつ動かさぬ歴戦の猛者たちが、寸分乱れぬ軍装の下で「余すところなく壊乱した」三つの肉体を前にして視線を彷徨わせ、喉仏を激しく上下させながら、耐え難い認知の失調に思考を麻痺させていた。
その息の詰まる沈黙を破ったのは、無骨な足音であった。
侯爵のマントを羽織ったカエサルが、未だ火のついていない葉巻を指に挟み、軍需会議の天幕から大股で歩み寄ってきた。
男は不意に足を止め、紫の双眸を眇めると、愛娘の胸元に覗く半寸の緩みを鋭く射抜き、次いで冷然たる女公爵を一瞥し、最後に魂の抜け殻と化したルシアの上に視線を縫い止めた。
百戦錬磨の帝国元帥は、地を埋め尽くす狼藉の痕を前にして、丸三秒のあいだ完全に硬直した。
やがてカエサルは骨太の手を上げ、己の乱れた紫髪をこれでもかと言わんばかりに乱暴に掻きむしった。
「ぶっ……」
「はは……あっははははは!」
貴族の品位など微塵も残さぬ野卑な哄笑が、元帥の胸底から雷鳴の如く轟き渡り、周囲の鉄木の支柱を震わせた。カエサルは腹を抱えて身を折り、己の太腿を力任せに叩きながら、涙を滲ませて、硬直するカリーナとみるみる朱に染まるクレアを指差して吼えた。
「おいおいおい! 儂は言ったはずだぞ、お前たち……いくら何でもやり過ぎだ! 儂がかつて重騎兵を率いて七日七晩敵陣を切り刻んだ時ですら、この小娘の首筋ほど派手な傷を負ったことはないわ!」
カエサルの大笑が波紋を広げ切るよりも早く。
一秒前まで耳朶まで真っ赤に染め、その視線で地面に穴を穿たんばかりだったクレアの、淑やかな令嬢の仮面が音を立てて四散した。紫の長髪が風もないのに逆立ち、白磁の指先が虚空を激しく掻き毟るや、耳を劈く暴虐な弦の破空音が、正午の秋陽を真っ向から切り裂いた!
「お父様――今すぐ、その口をお閉じなさい!」
――【残月の激奏曲】!
弦音の爆ぜた刹那、極限まで圧縮された残月型の不可視の衝撃波が、カエサルの足元で爆ぜ狂った! その凶悪な破壊力は周囲の草木を爪の先ほども損なうことなく、ただ垂直に天を突く衝撃の奔流となって、精密極まる収束を見せた。
「うわあッ――?!」
三国の武名を一身に背負う帝国元帥は、佩剣を抜く暇すら与えられず、攻城槌に顎を撃ち抜かれた紫の流星となって、無様な奇声を上げながら数十メートルの上空へと垂直に跳ね飛ばされた。
周囲の衛兵たちは悲鳴を上げる気力すら失せていた。この父娘の日常的な「触れ合い」には疾うの昔に慣れきっており、ただ無言で足並みを揃えて三歩後退し、整然と着地点を空けるのみである。
二秒ののち。
――轟音!
鈍い地響きと共に乾いた土が飛散し、当世の侯爵閣下は見事な大の字となって練兵場の硬土へと叩きつけられ、太古絶嶺の大地が確かに三度揺れた。
カエサルは泥と枯草に塗れた頭を人間大の窪みから引っこ抜き、口端から霜の降りた草屑をペッペと吐き出しながら、軋む腰を擦りつつ、袖の埃を払って何食わぬ顔で魔力を収めた愛娘を恨めしげに睨み据えた。
その時、一連の凶行を冷徹な眼差しで見届けていたカリーナが、ようやくその紅い瞳を巡らせた。騒動の余波に魂を引き戻されかけたルシアを見遣り、その声音には一片の動揺もなかった。
「気が済んだのなら立ち上がりなさい、カエサル叔父上。ルシアの骨は接合したばかりだ、斯様な雑音に耐えられる身体ではない」
言い捨てると、カリーナは身を寄せ、そのしなやかな指先でルシアの着崩れた法衣の襟元を無造作に引き上げ、もっとも痛々しい咬痕を覆い隠してやった。それから、淡々とした口調で告げた。
「怯えることはないよ、ルシア。お前が斃れたあの日ではない……お前はあの天幕の中で、丸二日を眠りこけていたのだからね」
「……二日?」
ルシアは呆然と瞬き、墨緑の瞳に困惑の色を滲ませた。
「では、狩猟祭の行程は……」
「今日が最後の日であり、本来ならば最も多くの標的が定められていた最終決戦の日だ」
カリーナの語り口は極めて平坦であったが、その内容はルシアの口角を狂おしく引き攣らせるに十分であった。
「もっとも、もはや決戦など存在しないがね。太古絶嶺の全域に蠢いていた上位魔獣と領主級の群れの八割は、あの日のお前とフェニックスの交戦が引き起こした超高温の熱融解と大規模な連鎖爆砕によって、ことごとく炭化物と成り果てた」
穴から這い出して埃を払っていたカエサルが、白目を剥いて割り込んできた。
「八割どころの話か! 儂も長年生きているが、これほど馬鹿げた狩猟祭は見たことがないわ! 四日目と五日目の防衛線など、三大帝国が数千の重装騎兵を並べて手ぐすね引いて突入したというのに、まともな野兎一匹見つからん始末よ!」
クレアが優雅にスカートの襞を整え、冷ややかな鼻緒を鳴らして言葉を継いだ。
「昨日など、第七軍団の先遣隊のふたつが、空虚な雪林を二時間も彷徨ってあまりに退屈したあまり、その場で火晶を焚いて輜重隊からくすねた芋を焼き始めたそうですわ。あの留影石の記録が三国の審判団に届けられた時の、諸卿の顔色といったら……胃の腑のものをすべて吐き戻しそうな見事なものでした」
「ゆえに、各国の上層部は今朝方、緊急の戦略協定に署名した」
カリーナは手を引き、この喜劇的な結末を宣告した。
「生態系が根底から破綻した以上、本日の掃討作戦はすべて『残存資源の回収と巡察』へと格下げされた。各軍の主帥と切り札――お前も私も含めて、出撃の義務は一切免除されたのだよ」
ルシアは深秋の正午の陽光の下、ただ呆然と立ち尽くしていた。目の前には全身に噛み傷を刻みながら平然たる女公爵と、実の父親を空へ打ち上げたばかりの紫髪の令嬢、そして泥まみれで尻を擦る侯爵がいる。
己の命を削り、骨を折って挑んだ神殺しの大戦の、その結末が――全軍が灰燼の原野で手持ち無沙汰に芋を焼くことになろうとは。
ルシアの肩が、音を立てるように項垂れた。
両手は行き場を失って法衣の広袖を所在なげに弄び、額に垂れた前髪が、生気を失った墨緑の双眸を覆い隠す。胸中に湧き上がったのは生還の歓喜などではなく、途方もなく荒唐無稽で、骨の髄まで疲れ果てるような空虚であった。
――大抵は、骨折り損の草臥れ儲けというやつだ。
人の世の理とは、蒔いた種を刈り取り、血には血を以て贖うものだと信じていた。
二本の肋骨を折り、すべての算段と術式を極限まで絞り尽くし、不死鳥の火羽に幾度も命を吊るして足掻いた果てに、三国の命運を賭けた大典を、ただ兵卒どもが車座になって芋を焼く荒野へと変え果てさせたのだ。
百斤の鉄槌を振りかぶり、人を食らう悪鬼を叩き潰そうと渾身の力を込めた瞬間、鬼が泥塊へと溶け失せ、空を切った槌が綿屑の山へと吸い込まれたかのような。手首は痺れ、骨の髄から滑稽な脱力感が這い上がってくる。
カリーナはその悄然たる佇まいを見つめていたが、その凍てついた双眸の奥底で、万年の霜雪が不意に一角だけ綻びを見せた。
「前方の広場に、各軍の兵が集まっている」
女公爵の声は極めて静かで、冬初めの凍らぬ小川のせせらぎに似ていた。
「獲るべき魔獣とておらぬゆえ、輜重隊が備蓄の肉をことごとく引き摺り出したのだ。今や炭火の脂煙が立ち込め、他国の術師すら混ざり合って肉を奪い合っている……少し、覗きに行かないかい?」
そう言い添えながら、冷たくしなやかな手が、あまりに自然に、されど抗えぬ強さで差し伸べられ、ルシアの小さく、薄い胼胝の残る手のひらをその内に包み込んだ。
カリーナにとって、今のこの光景は、身に余るほどに満ち足りた幸福に思えてならなかった。
天は高く、秋陽は太古絶嶺の残霜を白々と撫で、耳を劈く宮廷の毒刃も、死に行く軍馬の断末魔もここにはない。
カエサルの粗野な罵声も、遠くから漂う肉の焦げる匂いすらも、あまりに生々しく、確かな手応えをもってそこにあった。二世を跨いで生き直した彼女が、いまだかつて知ることのなかった静寂であった。
だが、この静寂はあまりに重く、深すぎて、かえって胸を掻き乱す。
彼女には解っていた。これは覚めることを許さぬ夢の如きものだと。夢の中の炭火は熱く、傍らの少女は息衝いている。だが、もし夜が明けてしまったなら?
光陰の輪がふいに軋みを上げ、再び前世の血肉塗れた深淵へと彼女を叩き落としたとしたら――その時、天地に残されるのは、冷たい骨壺ひとつと、洗えど落ちぬ血塗られた両手だけではないのか。
そこまで思い至った刹那、カリーナの指節は白く強張り、握りしめた小さな手のひらを、骨が痛むほどに強く締め上げていた。
彼女はひどく怯えていた。薄い皮膜を隔てて、確かに刻まれる微弱で平穏な脈拍を感じながらも、雑踏の中で最後の銅貨を握りしめる貧者のように、わずかに力を緩めれば、指の隙間からその微かな温もりが、北地の秋風に吹き去られてしまうのではないかと戦慄していた。
秋陽は次第に傾き、太古絶嶺の無骨な岩肌に長い影を落とし始めていた。
前方の練兵場の空地には、十数箇所もの篝火が高々と燃え上がっていた。枯木が爆ぜて火の粉を散らし、脂が灰へと滴り落ちては、ジュッと音を立てて灰色の煙を吹き上げている。
炙られた肉の芳香と安価な麦酒の匂いが、肌寒い風に乗って容赦なく鼻腔を突いた。甲冑を脱ぎ捨てた兵卒どもは肌脱ぎになり、串に刺さった熟肉を奪い合っては野卑な罵声を交わし、その熱気は深秋の冷気すらも焼き溶かすかのようであった。
カリーナとクレアは、そのようにしてルシアを伴い、陰鬱な主帥の天幕から喧騒の渦中へと足を踏み入れた。
路傍に転がるひときわ大きな青石は無骨で、表面には解け残った霜がこびりついていた。クレアはわずかに眉を寄せると、銀狐の毛皮で縁取られた己の紫絨のマントを脱ぎ、石の上に丁寧に敷き広げた。
それからカリーナと手を携え、痛む身体を抱える黒髪の少女を、壊れやすい陶器の偶像でも扱うかのように、そっとその上へと腰掛けさせた。
秋風がわずかに強まるだけで、接いだばかりの骨が折れてしまうのではないかと案ずるかのように、慎重極まる手つきであった。
少女を落ち着かせると、二人の令嬢もまた青石の端へと腰を下ろした。
石の上は狭く、クレアは躊躇うことなく身を半寸引き、両腕を伸ばしてルシアの華奢な躰を己の懐深きへと引き寄せた。
少女の身体はあまりに薄く、クレアの豊潤で温もりある胸元へと抱き竦められる様は、疲弊しきった枯柳が温かな泉水へと沈みゆくようであった。
クレアは顎をルシアの頭頂にそっと預け、両腕を少女の脇から回して下腹の上で指を重ねた。薄い絹の法衣越しに愛おしげにその腹を撫で擦り、周囲からの探るような視線も、骨を刺す冷気も、その紫の帳の彼方へと余すところなく遮断していた。
ルシアは身じろぎも叶わず、背後から満ちてくる冷涼な薔薇の香りと柔らかな体温に、ただされるがままその身を委ねるほかなかった。
その折、佩刀の近衛隊長が、磨き抜かれた銀盆を恭しく捧げ持ち、小走りに進み出てきた。盆の上には、皮を黄金色に焼き上げられ、琥珀色の脂を滴らせる肥えた野兎が一頭、丸ごと横たえられていた。
カリーナは男を見遣りもせず、顎をわずかにしゃくって退がらせると、かつて公文に冷酷な署名を走らせ、剣を振るい続けたその手を伸ばした。
その手は本来、白く、凍てつくように冷たいはずであった。
だが今、その長大な指先は、極めて細やかに熱々の肉を解し始めていた。カリーナは伏し目がちに視線を落とし、国家の命運を左右する錬金術式の公差を調律するかのように、その作業に没頭していた。
焦げた皮を丁寧に除き、小骨を避け、肉の繊維に沿って爪先ほどの大きさに細く裂く。立ち上る微かな湯気に向けて自らの涼やかな唇を寄せ、ふうふうと二度息を吹きかけて熱を確かめてから、ルシアの口許へとそれを差し出した。
「口をお開け」
女公爵の声は、吹き抜ける秋風よりも遥かに低く、甘やかに濡れていた。
ルシアは顔を仰がせ、蒼白な唇をわずかに開いて、塩気を含んだ温かな肉片を迎え入れた。咀嚼の合間に、唇がカリーナの冷たい指腹をかすめる。
カリーナの指先が微かに震え、紅瞳の奥に宿る光が揺らめいたが、手を引っ込めることはなく、ただ再び視線を落として二片目の肉を解し始めた。
背後からそれを見守っていたクレアの口許に、淡く、無垢な微笑が浮かんだ。彼女は片手を伸ばし、ルシアの頬に散る黒髪を耳の後ろへと梳き流すと、情事の熱に微かに赤らむ耳朶を指先で悪戯っぽく抓り、柔らかな声を落とした。
「たくさん召し上がりなさい。そんなに頼りない身体のままでは、帝都へ戻った折、公爵家が功臣を虐げているなどと、下らぬ官僚どもに勘繰られてしまいますわ」
その情景は、息を呑むほどに静謐であった。
周囲には泥に塗れ、肉を貪り酒を酌み交わす数千の無骨な兵卒がひしめき、頭上には太古絶嶺の万古不変の蒼穹が冷徹に広がっている。
しかし、その粗野と荒涼のただ中にあって、白と紫の二尊の高貴なる神祇は、泥の如く青石の傍らに身を沈め、すべての矜持を甘やかな情愛へと磨り潰して、秋の落日に照らされながら、死の淵から奪い返した命へひと匙の糧を授けていた。
声を立てることすら憚られるほどの美しさに、行き交う兵卒たちすら己の卑賤を恥じるように視線を逸らし、あの青石の一角ばかりは、人の世の塵芥から隔絶された別天地であるのだと、畏敬を抱くのみであった。
だが、その平穏もまた、乱暴な蹄の音によって無残に踏みにじられた。
シルヴィア家の紋章を背負った伝令将校が、汗に塗れて馬から転がり落ちるや、腰の短剣を甲冑に打ち鳴らすのも構わず、人混みを掻き分けて転げるように駆け寄ってきた。そして青石の前、わずか三歩の距離で膝を折り、青ざめた面輪で絶叫した。
「ほ、ご報告申し上げます、公爵閣下! 侯爵令嬢! 一大事にございます……! 第七宿営地の後方練兵場にて、ルーカス様と、教廷の審判官ガルク殿が……何やら諍いを起こされ、すでに重剣を抜いて互いに生死を賭した決闘を叫んでおります!」
ルシアの口の中で、咀嚼しかけた肉片が止まった。
カリーナが差し出しかけていた指先が、中空でぴたりと静止した。
先刻まで温もりに綻んでいた氷の美貌から、眉根がわずかに落ち、紅瞳の奥に灯っていた光は一瞬にして消え失せ――太古絶嶺の深秋の霜よりもなお陰惨な、研ぎ澄まされた冷酷が、その相貌を覆い尽くした。
気がつけば、ついに100話まで更新することができました。
感覚としては随分と長い時間が経ったように思えますが、実際にはまだ一ヶ月も経っていないのですね。
この執筆を通じて、自分は本当に書くことが好きなのだと、改めて実感しています。
当初、ふと小説を書こうと思い立ったのは、心の中に晴れない鬱屈や焦燥感を抱えていたからでした。
正直なところ、家族のこと、友人のこと、パートナーのこと、そして仕事のことなど、様々な出来事に心を痛め、長いあいだ悩み続けていました。
そうした行き場のない想いを発散させるために、私は言葉を紡ぐという道を選んだのです。
幸いなことに、普段の仕事中にも合間を縫って執筆を進めることができ、一日にほぼ18時間近くも創作に没頭できる環境に恵まれました。そう考えると、これも一つの幸せなのかもしれません。
今後の展開としては、まずは少し日常を描くエピソードで息を整えつつ、その後にまた読み応えのある長編の章へと突入していく予定です。
こうして書き進めるうちに、自分はやはり心情の機微や内面の描写を描くのが好きなのだと気づきました。現実の生活の中で、やりきれない思いや葛藤を抱えることが多いせいかもしれません。
そうした具体的な「悪意」や暗い感情は別の作品にぶつけることにして、この物語のルシアだけは、決して穢したくないと願っています。
また、100話まで書き続けて痛感したのですが、私自身、戦闘シーンを描くのはあまり得意ではないようです。
迫力に欠けてしまい、読者の皆様に物足りなさを感じさせていないだろうかと、今でも不安が尽きません。筆力という点では、まだまだ修行が足りないと反省するばかりです。
それでも、もし私の物語を気に入っていただけましたら、これからも見守っていただけると幸いです。
いつも本当にありがとうございます。
倒れるその時まで、力の限り書き続けていきます。




